神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.84  神吉翕次郎

2024-02-18 23:59:47 | 勝記日記
 今日は、神吉翕次郎〔かんき・きゅうじろう〕についてのお尋ねです。 
     
      しずかな朴:

 『御料局測量課長 神足勝記日記 ―林野地籍の礎を築く―』日本林業調査会(J-FIC)の「人名録」643ページ上に神吉翕次郎氏のことを書いておきました。
 「内科医。徳川慶喜主治医。日光で内科医を開業していた時に神足が治療を
 受ける。津田季穂(画家)は5男。」

 このうち、「徳川慶喜主治医」と「津田季穂」の件はネット検索で知ったことですが、「内科医」については『神足日記』に次のように出てきます。
 「昭和9年7月1日 四十余年前、牛込矢来町住居当時係り医として懇意に
 せし医学士神吉翕次郎来訪」

 神足が牛込矢来町に住むのは明治25年11月30日からです。このころ神吉氏もこの近くにいたものと見られます。

 その後、明治33年7月に、神足は岩村通俊局長らに従って日光の中禅寺湖付近の調査に出ますが、その折の13日の項に「神吉〔翕次郎〕医学士を訪ふ」と書いています。
 この後はしばらく音信はなかったようですが、昭和9年になって神足が陸軍と海軍に各5000円ずつ「国防費献金」を行ったことが新聞に掲載されると、それを見た神吉氏が7月1日に訪ねてきたというわけです。
 
 神足とは、この時の来訪があって後、11年までの間に時候挨拶などのやり取りが見られますが、12年7月に勝記が亡くなりますから、詳しいことはわからないまま終わってしまいます。

 なお、神吉翕次郎という人は矍鑠〔かくしゃく〕とした人で、勝記のご子息勝孝氏の『日記』の昭和18年10月24日に「神吉翕次郎翁来宅」と出てきます。神吉氏は勝記よりも5歳ほど年下です。
 画家・津田季穂の父ということでもあり、できれば知りたいと思っています。このルート〔経路〕を手掛かりにいくらか情報入手方法を試みたこともましたが、力及ばず、これまでのところ手掛かりを得られておりません。
 ご存じの方がおられましたら、ご教示いただければ幸いです。

    
 
 もう一つ:
 神足勝孝氏の日記の件でお願いがあります。
 勝孝氏は、海軍中将にまで昇進した火薬・爆薬の研究者〔研究職の軍人〕でした。  
 勝記と同様に、ご子息の勝孝氏についても、ミカン箱3箱分ほど、日記ほかの文書を残されています。これについても、私はご遺族の神足勝文様からお借りして全部を拝読しました。
 そのうち、日記については『神足勝孝日記』と題してパソコンに入力整理しました。
 簡単に概要を書きますと、A4判・横長ファイルを使って、裏表印刷で打ち出したものをファイルしてあります。それが、
 ファイル1 昭和12~15年
 ファイル2 昭和16~22年
 ファイル3 昭和23~29年
 ファイル4 昭和30~35・38年
 ファイル5 昭和39~42・50・52・53年
 となっています。ざっと30年余分あります。
 
 内容からは戦時中の軍港・舞鶴のようすや、戦後の追放令の中での動向など、さらにお住いの鎌倉・藤沢近辺のようすがわかります。

 これについて、「原本は〔当面〕寄託」、「大澤の作業成果は寄贈」、ということで相談できる図書館・公文書館・大学・研究機関などございましたら、ぜひお知らせいただきたいと思います。
 よろしくお願いいたします。

  

 
 


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No.83 共感

2024-02-18 00:11:21 | 余録
 次の写真は、前に一度、その日の末尾に小さく載せたことがありますから、記憶されている方もおられるでしょう。手持ちがなくなったからの再利用ではありません。  
     「私の傑作」です。
 
 ヒガンバナの首のところが折れて、そのために、雄蕊?が横向きに火炎を噴き出したかのようになっているところへ、右後ろの羽の一部を失ったチョウが潜るように飛び入って取り付いています。

 少し向こうに、首が折れずに立って咲いている別のがあるのに、なぜ向こうへ止まらないのか・・・。

 おそらく何かの「共感」を語り合いたかったのでしょう。

 そう思いながら、私は何回もシャッターを押しました。
 この一枚はそれを思わせ、観ていて飽きない、同時にいろいろなことを考えさせてくれる、「会心の作」です。



 今日は、ロシアのナワリヌィ氏の死を知り、ロシアの民衆の苦悩と、かつての日本の民衆の苦悩と反省が重なって見えたという人も多いことでしょう。

 ひとつ、鹿児島県出身のNさんのことを紹介しましょう。
 これは本名を伏せたほかは事実で、『進退録』(宮内公文書館蔵)に出て来ることです。

 Nさんの名は羊〔ひつじ〕、生まれは大正8(1919)年元旦です。
 羊さんは、鹿児島県の農林学校で林業を勉強して、昭和14(1939)年3月に卒業し、4月に帝室林野局に入局しました。そして、北海道の札幌支局・大夕張出張所に配属されました。
 それから1年もたたない昭和15〔1940〕年2月、休職します。理由は徴兵です。
 就職して1年もたたないのでは、年間の仕事のサイクル(手順)も覚えきらなかったでしょう。事実上の離職です。
 それから1年して昭和16(1941)年2月、休職延長つまり戦争から帰れない、徴兵延長です。
 さらに1年、17(1942)年2月、再延長。
 そして、17年5月、解除となり復職して再び大夕張出張所に戻ります。
 ところが、18(1943)年9月、またまた召集がかかり応召します。
 さて、羊さんは無事に職場復帰できたでしょうか? 
 
 無事復帰できたならハッピーですが、それでも、終戦後に帝室林野局は解体されて無くなりますから、羊さんは、いくらも働くことができないまま終わったことになります。

 戦争の悲劇は、戦死だけでなく、戦場体験のほか、人生を狂わせられます。
 羊さんには、親が2人、祖父母が4人、そのほか、兄弟・友人・先生などなど、ざっと数えても少なくとも数十人はいます。もし戦争がなければ、・・・。

 いま、ロシアに羊さんが何人いるのか、すでに何人の羊さんが死んでいったのか、たまらないですねえ。
 羊さんのその後、わかったらまた書きましょう。

 
  なぜ啼くの?
 
 先を見据えて、必要な時は、損してもものをいわないと、結局、より大きな悲劇がもたらされます。
 ロシアの母は、いまそれを悩んでいるでしょう。姿勢がとわれます。

 遠くを見る練習のために次の1枚進呈します。
 

 では、この辺で。
 
 
 
 
 
 


 





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