神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.203 三浦宗次郎   

2024-06-17 00:15:08 | 近況

   きょうの夕空

(1)きのうの地質調査所の写真の撮影日がいつなのか検討してみました。
 写真を見ると、コートを着ている人が何人も見えます(それも厳冬という感じ)から、時期は10月~3月の冬場であるだろうことはわかりますが、全体としてずいぶん老けた印象です。とくに、私の関心である、神足勝記と鈴井民作の何歳の時なのか、にわかにはわかりません。
 
(2)写真は、最初『懐古録』で掲載され、それを『地質調査所百年史』が引用したという関係でした。この両者の違いは、『前書』になかった三浦宗次郎の名前が『後書』に記されていることです。なお、記載のない人の名前は不明です。

(3)どちらの写真も、かなり前から手元にありましたが、きのう、「三浦宗次郎」の名があることに気づいて、それならいくらか範囲が絞れるかもしれないと思いました。
 というのは、三浦は1862年生まれですが、『御料局測量課長 神足勝記日記』(日本林業調査会J-FIC)の明治26(1893)年6月7日の項にも紹介したように、よく知られた福島県の吾妻山の爆裂があって、その調査の際に噴石のために29歳ほどで亡くなります。
 次の写真は『地学雑誌』第5集第55巻(明治26年7月25日刊)に掲載された三浦の肖像です。(なお、雑誌同号は三浦の追悼号になっています。)
 
    
     
 きのうの写真と比べると、集合写真の方が少し年が行って、額もやや広くなった感があります。いっぽう、こちらは年齢が若く、体型もなで肩で華奢な感じがあります。しかし、ヒゲを蓄えているところなどは、よく似ています。同一人物とみてよいと思われます。

(4)そうすると、あの集合写真は、地質調査所が設立された明治15年から26年までの間となります。しかし、10年もあると幅が大きすぎます。
 そこで、もう一つ注目しました。
 中列左から5人目に和田維四郎がいますが、その後ろに巨智部忠承〔こちべただつぐ〕がいます。
 この両者の関係は、和田が初代所長を務め、巨智部は明治26年からその後を継ぐ関係です。そうすると、和田が中央に座っている理由が所長だからだとして、それがただ一般的な行事の記念撮影だからか、それとも、誰かの特別な祝い事があっての記念撮影だからか、となります。

(5)そこで、この間の『神足日記』を調べてみました。時期は冬場です。
 すると、可能性があるのは、17年1月4日(半晴)の新年会の日となりました。
 ただし、当日は40人が参加したと記載されていますが、写真に写ってぃるのは29人だけです。あとの10人ほどは、下っ端だから入れなかったのか・・・、ちょっとわかりません。
 それから、もう一件、2月5日に和田維四郎の欧州出張送別宴を向島八尾松で行ったことが出てきますが、しかし、この日の天候は雪でしたから、寒そうにしているとはいえ、写真に雪が全く写っていないので、これは該当しないと思われます。

(6)仮にこの時だとすると、三浦宗次郎が22~3歳、神足は29~30歳ということになります。そうすると、共にずいぶん老けた感じになります。
 神足は、出張の経路などは克明に記録するものの、出張前後などは業務の整頓で多忙のためか、書かなかったり、書いてもメモ程度だったりするので、これで確定とはいかないかもしれませんが、いま考えられる年齢です。

(7)なお、20年10月に阿曽沼次郎が北海道に赴任します。阿曽沼が在京ならば出席したかもしれないのに写っていません。ですから、撮影はこのあとかもしれませんが、しかし、24年に神足は宮内省御料局に入り忙しくなりますから、その前となります。
 とまあ、きょうは暑い一日でした。

   



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