神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.321 宣長の天皇観 

2024-11-01 23:54:26 | 文書・文献
(1)今日は、今回の衆議院議員選挙関連の新聞記事を読み直しました。政治学者の議論もそれぞれあってなかなか興味深く思いました。首班指名の特別国会に向けて動きがあるはずですから、様子を見ることにしましましょう。

(2)最近、子安宣邦『天皇論』(155㌻、作品社、2024年5月刊)を読みました。
 著者の子安さんは日本思想史を研究されてきた人ですが、奥付によると、現在は大阪大学名誉教授〔1933年生〕です。
 私は、子安さんの講演を、30年ほど前に、日本経済思想史研究会に参加した時に拝聴しました。その時も本居宣長のことを話されていたと記憶していますが、もう講演内容も演題も亡失してしまいました。
 ところで、『天皇論』というと、万世一系を前提とした何時代の天皇がどうこうということを展開するのを見ます。それはそれで勉強にはなりますが、難しさを感じながら終わるということを経験させられたので、いつからか集めてパラパラとめくって終わりということが多くなりました。しかし、この本は興味深く拝読しました。

(3)今、この本全体の書評をするわけではなく、興味を引いたところを取り上げるだけですが、次のようなことです。
 本居宣長が『古事記伝』の序論、『直毘霊〔なおびのみたま〕』の冒頭などで天照大御神以来の天皇を論じている。そして、それがこれまでは独立させられて使われてきたが、これは「18世紀の徳川時代の言説として理解する」(106ページ)べきだということです。言い直すと、東アジアの世界史の中で、韓国やベトナムなどのように清の支配下組み込まれることなく、独自に天下を構成していた鎖国下の徳川日本の立ち位置、そこでの天皇存在の意味を認識したもので、宣長の「対中国的ナショナリズムの表現」(101㌻)だということです。

(4)少し繰り返しになりますが、宣長の時代は中国の大清帝国の最盛期にあたります。それまでの中国では聖人が国を治めるための道を説いてきましたが、それが却って乱世と易姓革命を引き起こしました。これに対して、わが国には聖人の道というようなものはなかったものの、天照大御神以来の皇国の神の道があったので、天下が乱れることなく治まってきた、と宣長が言っているといいます(98~9㌻)。
 実際には、日本にも戦国時代という長い混乱期はありましたが、ここで宣長がいっているのは、清に従属せずに、独自に政権を構成している徳川将軍に対する天皇の存在意味です。それを子安さんは「この時代に宣長は初めて日本という国家の永続的存立を保証し、それを意義づけるものが天照大御神に由来する天皇の連続的な存立にあることをいったのである。この天皇とは日本の統治主体ではない。統合的日本の祭祀的、儀礼的な最高主体としての天皇である。」(106㌻)とまとめています。
 
(5)つまり、宣長の天皇論〔「万世一系の天皇」という捉え方〕は、18世紀の東アジアの中で、「統治主体が徳川将軍と幕府にある時代における天皇の存在意味」(106㌻)を言ったものだということです。 戦国時代を経て徳川政権が樹立され、世の中が安定してきて、国民の間に一定の財力や知的蓄積ができて生きた時代の日本の自己認識、その産物だということです。

 またまた時間がなくなってしまいしたから、きょうは、山梨市にある根津記念館、甲州市の向岳寺・恵林寺の写真を載せることにします。これは、いずれもコロナの前の2019年の今頃のものです。

 1.庭園の塔
    

 2.庭園と灯籠:記念館から
      

 3.庭園から旧宅
   

 4.塩山の向岳寺で
   

 5.塩山の恵林寺の庭
   

 今日はここで。
   


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