コッペパン?:青梅・赤ボッコで
御料林を研究するとはどうすることでしょうか。
たとえば、私は『御料局測量課長 神足勝記日記 ―林野地籍の礎を築く―』日本林業調査会(J-FIC)の「解題」(24ページ上)で、2点を述べました。
ひとつは、戦前の日本の国有林〔官有林〕が3つの省の管理下に置かれていたことを指して、その性格の違いを区別して捉える必要があるということです。
「・・・同じ林業従業者でも、〔御料局の職員と〕農商務省山林局の職員と
は決定的に区別されなければならない。」そして「戦後の林政統一の見方
も、「内務省所管の北海道の山林」・「農商務省所管の内地の山林」・「宮
内省所管の御料林」の三者が合体されたという平板な見方では不十分であ
る。」
これは、単に所管が分けられていたのでなく、北海道は北の守り、本州は国土保全ほか、御料林は宮内省の財政収入源、などのためでしたが、それが戦後の統合によって何が可能となって、どうなって行ったかという見方が必要ということです。
そして、ふたつ目は、山林・森林はその属性を人間社会が利用することによって本来の自然にはない別の役割を担わせられることがあるということです。
「山林(森林)は一義的には自然科学の問題だが、社会科学としても多様な
側面を見せる。たとえば、ヴァイマールのブーヘン・ヴァルトは広大なブナ
林であるが、ナチスのために収容所を隠ぺいするための林(軍事施設)とさ
れた。」
これは、歴史的経緯はいまおいて、とりあえずブナがブナとして生育していたところへ人間が軍事施設を作ったことによって、ブナが軍事施設隠蔽の役割を担うものとして生育を管理されたこと、強いられたことを意味します。
そして、戦後、収容者は解放されましたが、収容所が歴史的産として残されることに伴って、ブナ林も「付属施設」として保存・成育を管理されています。
これは「ブーヘンヴァルトの収容所施設が戦争遺産として記憶される限り、永遠に自然のブナ林として存在する道を失わしめている」ことになります。
木は自然的材質としてはいつでも木ですが、人間が持つと「人間臭い木」となります。
話が変わりますが、宮本常一『私の日本地図3 下北半島』(未来社)の「あとがき」272ページに次のことが書かれています。
「下北半島の国有林のうち、むつ湾沿岸の部分は、明治9年の官民有区分の
台帳によると、皇宮付属地として区別せられている。すなわち御料林の中に
編入せられているのであるが、これが野辺地までの間に4万ヘクタールあっ
たといわれている。一般国有林の場合は払下げ運動がある程度まで成功して
いるが、御料林は実に困難で、そこの住む人たちの生活を実に大きく圧迫し
た。野辺地から大湊までの間が、いかにも荒涼としてあれはてた感を深くす
るのは、そこに住む人たちの怠惰によるものではなく、国家の住民に対する
圧迫によるものであったことを忘れてはなるまい。」
細かいことは除いて、宮本が言っていることのうち2点について注目しました。
ひとつは、御料地・御料林は要するにまず収入林ですが、明治9年の時点で下北に皇宮地を設けることがどのようなネライでなされたのかということです。そして、むつ湾と八戸を中心を思わせる配置は何による・だれの判断なのかということです。
御料地の設定は、いかにも一挙に短時日になされたかの説が根強いですが、じつは相当な期間のやり取りがあってなされています。その一端は、上記の『神足勝記日記』の「解題」にも書きましたが、まだまだ分かっていません。
それを見極めるまでは、研究としては終わりになりません。
もうひとつは、後半の「・・・荒涼としてあれはてた感を深くするのは、・・・住む人たちの怠惰・・・ではなく、国家の・・・圧迫によるもの・・・」と告発しているところです。
神足たちの事業の経過や成果を克明に知ることと、それによって出来上がっていった皇室財産令などの整備化がどのような問題につながって行ったのか、そういうことを克明に調べあげることは地域発展の上から特に重要です。
しかし、県史・市町村史などを見る限りでは、まだいくらかの収集した資料を列挙している程度とか、どこそこに御料局〔帝室林野局〕の出張所があったという程度のものがほとんどです。
権威主義に陥ることを避け、中央におもねることなくつぶさに〔リアルに〕
地域を見ることがこの分野では特に重要です。
宮本も上の本で告発をしているものの、なにかを具体的に述べているわけではありませんが、それでも重要な発言です。
『神足日記』が地方史の解明の手掛かりになることを期待しています。
空高く風に泳ぐ朴
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