神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.89 コッカ 

2024-02-24 00:02:59 | 余録
 
        長善寺:甲府
 今日は、これまで書いてきた88回分を打ち出して、本文・写真資料類を見直しました。
 その作業で気が付いたことを、最初にお詫びかたがたちょっと書きます。
 (1)文字と写真について:機械まかせで入力をしてきたので、文字に一貫性がありませんでした。今後は、いま使用している「14ポイント」・「ゴシック」を基本とします。
    写真は、状況に応じて決めることにします。
 (2)貼り付け用に用意していた写真のうち、今後の使用予定がないものを削除したところ、貼付に使用したブログ本文の方からも消えてしまうらしいことがわかりました。
    ご希望の分があれば、お知らせください。再構成してみます。
 (3)本文のほかは、日付も・ハッシュタグも・カテゴリーも、およそのものです。今後もその予定です。
 (4)No.51より前は、49回書きました。最初の方でタイトルを変更した分を重複して数えてしまったのが原因と思われます。
 以上です。
 

       朴、しずかに
 昨日、マルクスの言葉を引いて書きました。
 「人間の本質は、その現実性においては、社会的諸関係の総体である。」でした。
 これは人間が社会的動物であること、社会的生活をおくっているということですが、その社会には無数の人がいて、また、世界にはそういう社会が多数(複数)あって、それぞれが内にも外にもつながりあって生活をしています。 
 そこでは、内では内同士で、内と外とは内と外とで、利害関係が生じます。
 そうすると、たとえば、内では、よく言われるように、樽の部材一つ一つでは使い物になりませんから、部材をまとめて一つの樽として機能するものにするためにタガが必要になります。
 これを人間に当てはめると、人間の社会の場合には、歴史的に社会の中の有力者が中心となって社会をまとめ上げる仕組みや制度(機構)を作り・それを公式化する法を作ります。それが国家です。
 言い換えると、人間社会は発展に応じて自らがまとまる装置を作り出すわけです。その際、社会の内側からの原因だけでなく、外の社会と結びつきが出て来ると、自らの社会を代表する人が求められます。つまり、外の社会から代表を求められることが、内の社会に代表を決めるような仕組みを作るように促しますから、その「必要性から」もまとまりとして対応することが求められることになります。
 これは、現に国際的にも経済対立や戦争を防ぐなどのため、国際関係維持の機構が作られていることでもわかります。
 その国家ができるとき、従事するのはだいたい「有力者」です。その有力者が人望のある人なら良いですが、あの「プー・・」とか「ネタ・・・」では困ったことです。そして、どの国にも自己保身からそれを支える人、ツッカイボウ役をして平気な政党があったりもするので、これが延命させ、困ったことが続く原因になります。「トラ・・」、「バイ・・」、「きし・」や周りにいる人たち、皆同じようなことで存在しています。
 国家は人間の社会が発展する中で必然的に生まれてきたものです。悪用するのは人間ですが、うまく利用できるのも人間です。よい知恵を出し合って運用できるようにしたいものです。

 日本の近代国家形成を考えるときに、神足らの事業は重要なことです。
『御料局測量課長 神足勝記日記 ―林野地籍の礎を築く―』日本林業調査会(J-FIC)にはその動きがはっきり書かれています。それが、地方社会に影響を及ぼしていったはずです。そういうことの探求のためにも、ぜひ多くの地方史家にも知っていただきたいと思っています。


 映える・・・。 
 




  
  
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No.88 落穂拾い 

2024-02-22 23:27:56 | 余録
 今日は落穂拾いですが、その前に一つ。

 
 突然ですが、マルクスが「フォイエルバッハに関するテーゼ」の中で
 「人間の本質は、その現実性においては、社会的諸関係の総体である。」
 といっています。
 
 むずかしいですねえ。
 これは「人間、誰でもみんな人さまのお世話になって生きている」ということ、つまり「人間は社会を作ってその相互の結びつきの中で生きている」ということです。

 「ポツンと一軒家」に住んでいる人でも、まったく社会と無関係・無縁という生活を過ごせている人はいません。そのつもりで生きていたとしても、ひとたび災害があって孤立状態にでもなれば、事件として扱われます。
 なにかの理由で「もう人と付き合うのはイヤだ」という人もいますが、そういう人でもその時代の社会で生み出されたものを一切なにも使わずに生活している人はいません。
 むしろ、長い間に一軒だけになったとか、そこで生活するのが便利とか、楽しいとか、経済活動に都合がよいとか、必ず理由があります。
 そして、いずれの場合も、収入や必需品の調達などで社会と必ずつながりをもっていて、あるいはいろいろな技術などを習得していて、自分でそれをうまく使いこなせるような人というのがふつうです。そうでなければ生きられません。
 あのロビンソン・クルーソーをみればよくわかります。かれはイギリスでの生活を、限られた範囲でですが、再現しています。
 
 ところが、阪神淡路の震災以降こんどの能登地方の震災まで、洪水・氾濫、台風・竜巻など、またコロナの蔓延、鳥・豚などの伝染病など、順番待ちに近い状態で全国的に発生しています。
 その中では、直接に人的物的被害を受けた人が多数いる中に、個々には直接の被災を免れたという人ももちろんいますが、個々の運不運というようなことではなく、大事なことは、大規模災害が勃発すると、まずその地域社会の人々の「日常生活が寸断」されてしまうということです。そして、それは日本全国に様々な形で影響を及ぼすということです。
 冒頭の、マルクスのいう「人間の本質」つまり「人間は社会を作って、その社会の相互関係の中で生きているということ」を、われわれは災害によって知らされているわけです。
 しかし、それは、1ヶ月たっても、半年たっても、10年たっても、結局十分な対応を受けられないために、思うように元に戻らせることができないうちに、やがて次の災害や大事件が次々に発生しますから、次の対応を迫られ、やがて忘れられて、自然に「自助」にまかされていってしまう・・・。
 「人間の本質」が、現実の利害関係が優先されるために、見失われてしまっています。
 まあ、与党が「パーティー券」ですからね・・・。

 ああ、今日は「落穂・拾い」でした。順不同です。今日はこのブログ第88回ですから、ゲンをかついで8枚です。

 (1)アメンボウ:どこにいるかわかりますか?


 (2)多摩川で:カワウがウナギを飲み込み合っていました
 
 
 (3)雪の日:材料は「コ・ヒ・の・・」です。

   
 
 (4)雪の甲府盆地:トンネルをぬけると・・・・


 (5)セミの幼虫:動画もあり。


 (6)雁ヶ腹摺山:ほかの2つは「牛奥ノ・・・」、「笹子・・・」です
 

 (7)ヒガンバナ:むかしはものをおもはざりけり・・・。

 
 (8)仙岩峠:明治道がしっかり描かれています(これは借り物です)。
 
 では。





 
 
  





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No.87 高橋寛司 2

2024-02-21 23:38:05 | 勝記日記

 須賀尾:左方向は軽井沢 左上方向に須賀尾峠 
 
 「長野原草津口駅」から地図の左上の須賀尾峠に着くまで、休憩を兼ねて神足が歩いたと思われる旧道を探したり景色を見たりしましたが、それでも所要時間は2時間弱でしたからそれほどの難所ではないように思われるかもしれませんが、前回掲載の吾妻溪谷や丸岩に見られるように、沢筋が深く、そこを橋でつないで九十九折れに上る道なので、車道とはいえ急登で、ときどき追い越していく車もローで唸るようにして通過して行きました。
  
   峠で
 峠付近で丸岩へ行く道などあちこち見てからゆっくり下ると、20分くらいで須賀尾の入口につき、右かどに案内板、左向かいに「かどや酒店」がありました。
 店番の老婦人がいたので、アイスクリームを買い、そこで座って食べさせてもらいながら、
 「人探しできたのですけど、明治の頃の人で、高橋寛司という人です・・・」
 というと、きょとんとしているように見えました。それで
 「・・・息子さんは穂太郎さんといいます・・・」というとすぐに反応して、
 「穂太郎先生なら、この下の方です。みんな教わりました」と。

 予期せぬ反応に驚きながらさらに伺うと、穂太郎氏は書道の先生で、皆が教わったというくらい知られた人であること、上の地図中の「コスモ石油」より東へ下ったところに公民館があり、その近くに家があること、いまはだれも住んでいないこと、などを教えてくれました。
 途中、郵便局や金物道具店などで位置や状況を聞き、ようやく到着しました。
 家は、まだ人が住んでいておかしくない状態と思われましたが、やはり留守でした。そこで、隣家に入って伺うと、墓地は奥にあること、ご子息の巌氏が先の東吾妻町に住まわれていることを教えてもらえたので、とにかくお会いするべく急ぎました。そうして巌氏(83歳?)にも巡り合えたというわけです。
 しかし、巌氏は、進学のため早くに家を出たこと、なおかつ穂太郎氏が55歳で亡くなったため、ほとんど来歴などを聴く機会がなく終わってしまったこと、などを話されただけで、詳しいことはわからずじまいでした。
 なお、後日、巌氏からいただいたお手紙は達筆な毛筆書きでした。妹さんは中央の書道界でも知られた書道家である由ですが、名前を亡失した。
 
            岩櫃山:直下から 、
 もうちょっと書きます。
 高橋寛司について「わからないなりにわかったこと」は、『明治十年 進退録 三』(宮内公文書館蔵)の中の
「第二号 村瀬義孝外二十八名加田範彦外十九名当分雇ニ雇用ノ件」
「第二七号 当分雇藤田一郎外五十六名解雇ノ件」
 に名前が出て来ることです。
 残念ながら、私はこの辺りの事情に通じていないのでうまく説明できませんが、この時期、明治9年の熊本神風連の乱や、10年の西南戦争などがあり、東京・皇居の守りが手薄になる・なったので県令に推薦させてそれを一時採用したということらしいです。
 つまり、群馬県は「県令楫取〔かとり〕素彦」に命じて「群馬県平民高橋寛司」が採用されたわけです。
 この間に、高橋の場合は、どういう経緯でか、神足の同郷人(熊本県)の川上虎雄と知り合い、その縁でつながりができたと見られます。
 そして、要するに高橋寛司らは、就活のネットワークをたどり・たよって、あちこち駆け回った・まわり続けたわけです。これは「壮士」といわれた人たちの一端を示すものと思われますが、しかし、それでは家業に実が入らず、家族としては困ったものです。そういうこともあって、たびたび上京と帰郷を繰り返す高橋に対し、神足は、明治41年3月12日の項で、やって来た高橋に次のように言ったと書いています。
「高橋寛司に、郷地に在りて実業に専ら心を委すへきを勧告す。」

 まだ、高橋寛司に関して正確な像を描けているわけではありません。あくまで「材料提供」という程度です。
 巌氏から群馬県の「人物誌」のコピーを頂戴しました。私はまだ現物を見ていませんが、1300ページを超える大著です。そこには穂太郎氏のことも書かれています。寛司よりは詳しいですが、穂太郎氏のことも、書道の先生としてみんなが教わったというほどには調べられているとは言えません。ぜひ、郷土の正確な記録を頑張っていただきたいと思います。

 ここまでにします。

 
  花はみな「自分が主役」と咲いています。
    人もそうであるべき・・・
 

 
 
 
 
  





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No.86 高橋寛司 1

2024-02-21 00:06:48 | 勝記日記
 10年前の2014年9月、私は群馬県吾妻郡吾妻町の須賀尾に高橋寛司の足跡を尋ねて、孫にあたる巌氏(当時80歳余)にお会いできました。
 巌氏とは、私の高校の先輩になる関係とわかり、初対面とは思えないほど懇切にお話を伺うことができましたが、寛司についての詳しいことはわかりませんでした。これが今回の結論です。 

 じつは、高橋寛司は、明治9〔1878〕年から没年の大正9〔1910〕年までの折々に『神足日記』に出て来る人です。また、寛司没後はご子息の穂太郎(1901~1956)氏が、折々の挨拶などで勝記の晩年近くの昭和10〔1935〕年まで出てきます。
 しかし、明らかに御料局とは無関係であり、その生涯もはっきりしないので、『御料局測量課長 神足勝記日記 ―林野地籍の礎を築く―』日本林業調査会(J-FIC)の編纂では、全部を割愛しました。
 その寛司の情報を求めて私が須賀尾を尋ねたのは、神足が、明治17年と19年の巡回の際にここを通過して、その2回とも寛司を尋ねているからです。
 まず簡単にその時のことを書きましょう。
 明治17年は、すでにだいぶ前に、神足が「笹子雁ヶ腹摺山」に10月18日に上がったことを書きましたが、神足の巡回はその後も続いていて、長野県飯山を回ってから山ノ内町に戻り、白根山を越えて群馬県の草津・伊香保に至り、そこから、西に向かって吾妻の須賀尾にやってきます。
 下の写真は、写りが良くありませんが、途中で神足も見たはずの「岩櫃山〔いわびつやま802.6m〕」です。NHKの「日本百低山」で取り上げられたのでご覧になった方もあるかもしれませんが、やや険しいところもあるようです。
 なお、この時は、神足は、翌日に軽井沢へ向かい、さらに長野県・群馬県・埼玉県・群馬県と次々に巡回して本庄市に出て、帰京は12月8日でした。
  

 須賀尾に着いた神足は山木屋に宿を取り、寛司を訪ね、共に「鳥の湯なる温泉場に至り」、夜は「高橋の招請により同家に赴く」と書いています。
 温泉は下の「鳩ノ湯」でしょうか。そう思って、私も入ってみました。のんびりとできてよかったです。
       
 
 2回目の明治19年は、群馬県の碓氷峠を越えて長野県・新潟県を巡回、渋峠を越えて群馬県の草津に入り、長野原から須賀尾峠を越えて須賀尾に見入ります。
 須賀尾峠は、上の地図の左端にみえる「かどや酒店」のところへ北から降りてくる道をたどったところにあります。
 私も長野原駅まで行って、長野原からここをたどりました。私が歩いたのは車道です。途中ではところどころに旧道と思われる小道が林の中に見られましたが、すでに荒廃していて、歩ける状態とは思えませんでした。
 写真をご覧ください。
  まず、途中から見た長野原方面です。ダムに水没する地域です。高台移転と橋梁建設のようすが見えます。
 

 次に、途中から上を見ると正面に「丸岩(1124m)」が見えました。


 そして、ミニサイクルを押して9時に長野原駅を出発して、10時40分に須賀尾峠に着きました。
 

 私はここからミニサイクルで下りました。
 ミニサイクルは、現地へ着くまでは荷物になりますが、駅からここまで荷物を載せて運んでくれましたし、ここからはほとんどこぐことなく、上の地図の右端(大戸)まで運んでくれました。当日の日記に
 「須賀尾〔峠〕から大戸まで下り一辺倒でペダルいらずだった」
 と書いてあります。
 ここから須賀尾に入りますが、明日に回しましょう。
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No.85 村尾履吉

2024-02-19 23:51:28 | 勝記日記


 きょうは、村尾履吉という人に関わって少し書きます。
 
 村尾履吉氏は勝記の二女友子さんの夫だった人です。
 『御料局測量課長 神足勝記日記 ―林野地籍の礎を築く―』-』日本林業調査会(J-FIC)では、40年5月18日に結婚したことと、大正9年5月17日に亡くなったことのほかは、ほとんど割愛しました。
 その理由は、結婚直後から村尾氏と勝記の間で問題が生じ、両者の仲介の労を取った鈴木民作〔技手〕らを挟んで調停が図られるなどのことが度々ありましたが、その正確な理由がはっきりしないというのと、もちろん、家内の問題は測量事業とは直接の関係がないからです。

 そのうえで、日記を編纂しての私の「印象」では、もめた「非は村尾氏にある」です。
 重ねて言いますが『勝記日記』に記されている限りでです。
 たとえば、友子さんが里帰りをして18時に帰宅予定であったものが、それより前でなく、遅れて帰ってきたことがありました。それを、時間を守ら守らないと考えたか、途中でなにか〔内緒・不義でも〕あったと考えたか、その辺がよくわかりませんが、少なくとも友子さんの身を心配してというよりも、勘繰る。そして、そういう躾〔しつけ〕をした親の育て方・・・というようなことで一方的に腹を立てる。それも、どうも勝記氏の我慢を超えるようなひどい言葉で言い立てたらしいのです。しかも、一度ならずそれがあったようです。
 これには、結婚後になかなか子ができなかったことも理由があるように見受けられましたが、ともかく正確なことがわかりませんから、勝記にとっては重大な親族問題でしたが、思い切って割愛しました。
 なお、友子さんの死についての勝記の考えがわかる5月17日のところは丸々残しましたから、これで推し量ってください。



 調べたところ、村尾履吉氏については、関東大震災の際の朝鮮人被害者の埋葬で顕彰されるという別面があることがわかりました。
 これは、神奈川県歴史教育者協議会のホームぺージに掲載されていることですが、同会が2014年11月29日に横浜市にある三沢墓地などを調査しました。
 それを一部紹介しましょう。
 「三沢墓地は、関東大震災で亡くなった朝鮮人の遺体が積まれていた空き地での跡です。道を隔てた向
 かい側は当時海軍大佐だった村尾履吉氏の広い邸宅となっており、村尾大佐は近隣の方に閣下と呼ばれ
 る人望のある人だったそうです。
  ・・・村尾氏は乱雑に扱われれる遺体を見て心を痛め、翌1924年9月1日そこに木搭を建て、近くの陽光院という寺で犠牲者を追悼する法要を営みました。
  ・・・その後1933年に、村尾履吉氏は三沢墓地の朝鮮人埋葬墓地の近くに2坪の土地を買い、朝鮮人墓地を建設しました。」
  戦後後,1945年5月村尾氏は亡くなりますが、家を継ぐ男子がなかったこともあり、その遺骨は5年間自宅に於き、その後自ら建てた朝鮮人墓地に埋葬するように遺言しました。」
 
 さて、遺体が自分の家の向かいに無造作に積まれるといったことがあれば、人間の遺体でなくとも、なにかをするのではないでしょうか。ましてや9月のことです。何もせずには住めない・・・。どうでしょうか。
 それから、この最後の遺言はどういう意味でしょうか。
 よく分かりませんが、関係者は、この朝鮮人墓地を村尾家の墓地に改装して村尾氏の遺骨をおさめ、朝鮮人の遺骨は東北区菊名にある蓮勝寺に移転させたということです。
 ?納得いきますか?
 関東大震災は大正12〔1923〕年9月です。友子さんは大正9〔1920〕年に亡くなっています。
 村尾氏が友子さん亡き後にどんな思いで生活していたかを知るすべはありません。また、多数の被災者を悼んで追悼するのは立派です。しかし、それをもってしても「人望がある人」という判断になるのかどうか、いささか違和感があります。
 というのは、勝記のご子息勝孝氏の『勝孝日記』昭和15年9月23日の項に次のようにあります。
 「・・・豊岡を経て・・・10時江原着。・・・11時、三方村芝の村尾・・・宅を訪ね、亡姉村尾友子墓に参
  詣。墓所浄土寺にて昼食の馳なしになり・・・」
 
 調べたところ、豊岡市飯高町芝に浄土寺がありました。ここに村尾家の墓所があり、友子さんはそこに埋葬されたのでしょう。それなのに、村尾氏は友子さんの近くに葬るようには遺言しなかったようですし、あるいは、自分の近くに友子さんを改葬するようにも遺言しなかったようです。
  はて、このあたり、どう理解すればよいでしょうか・・・。

  
 
    ・・・
 
 
 
  
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