「明治維新の過ち」において
原田伊織氏は
独特の慧眼を示された。
特に
司馬遼太郎氏の自らの従軍経験からもたらされた
いわゆる
昭和初期の歴史の断絶論に関する叙述がユニークであった。
司馬氏の歴史の断絶論とは
昭和初期の
いわゆる大東亜戦争を惹起した
軍人や政治家、官僚の愚鈍さが異様であって
それまでの
日清、日露戦争を指導してきた日本のエリートとは異質な
歴史的間隙がそこにあるということだろう。
しかし
原田氏は
むしろ
日清、日露、大東亜戦争は
長州や吉田松陰の
稚拙な大陸への版図拡大路線
大日本主義の主張に沿ったもので
歴史的に一貫性、連続性があるという。
その通りである。
ただ
一つ気になるのは
原田氏が
民族なる生物学的、社会的な概念を多用していたことと
あまりに
感情的で断定が多すぎることである。
民族という概念は
身体、社会倫理、言語などの同一性を保持した一群の人々を示すものだと考えると
その概念は
本質的ではなく
二次的で偶有性なものである。
したがって
アーリア民族主義や日本民族主義などという説は
それ自体
生物学的、社会的な優秀さを誇示したいという
傲慢の罪を開陳したものに過ぎない。
野村秋介氏(新右翼)が
むかし
在日朝鮮人の方々への愛情を示しながら
なぜか民族主義者と自任していたことに
納得できなかったのは
私だけではあるまい。
また
長州と吉田松陰、高杉晋作等の皆様を
すべて悪のテロリスト集団と断定、断罪してしまうのは控えたい。
なぜなら
それは
神様の仕事であって
勝手に裁きをなすと手に怪我をする(老子)からだ。
実際に
吉田松陰に会ったことはないので
あまり
人の善悪は断罪できないはずである。
何れにせよ
最近の歴史本は
本質に遡及した良書が多いので
イデオロギーの桎梏、残滓から解放されて
研究を再開すべきである。
おわり
高橋研究員(研究テーマ:ヘレニズムとヘブライズムの本質と差異)
原田伊織氏は
独特の慧眼を示された。
特に
司馬遼太郎氏の自らの従軍経験からもたらされた
いわゆる
昭和初期の歴史の断絶論に関する叙述がユニークであった。
司馬氏の歴史の断絶論とは
昭和初期の
いわゆる大東亜戦争を惹起した
軍人や政治家、官僚の愚鈍さが異様であって
それまでの
日清、日露戦争を指導してきた日本のエリートとは異質な
歴史的間隙がそこにあるということだろう。
しかし
原田氏は
むしろ
日清、日露、大東亜戦争は
長州や吉田松陰の
稚拙な大陸への版図拡大路線
大日本主義の主張に沿ったもので
歴史的に一貫性、連続性があるという。
その通りである。
ただ
一つ気になるのは
原田氏が
民族なる生物学的、社会的な概念を多用していたことと
あまりに
感情的で断定が多すぎることである。
民族という概念は
身体、社会倫理、言語などの同一性を保持した一群の人々を示すものだと考えると
その概念は
本質的ではなく
二次的で偶有性なものである。
したがって
アーリア民族主義や日本民族主義などという説は
それ自体
生物学的、社会的な優秀さを誇示したいという
傲慢の罪を開陳したものに過ぎない。
野村秋介氏(新右翼)が
むかし
在日朝鮮人の方々への愛情を示しながら
なぜか民族主義者と自任していたことに
納得できなかったのは
私だけではあるまい。
また
長州と吉田松陰、高杉晋作等の皆様を
すべて悪のテロリスト集団と断定、断罪してしまうのは控えたい。
なぜなら
それは
神様の仕事であって
勝手に裁きをなすと手に怪我をする(老子)からだ。
実際に
吉田松陰に会ったことはないので
あまり
人の善悪は断罪できないはずである。
何れにせよ
最近の歴史本は
本質に遡及した良書が多いので
イデオロギーの桎梏、残滓から解放されて
研究を再開すべきである。
おわり
高橋研究員(研究テーマ:ヘレニズムとヘブライズムの本質と差異)