聖なるものがなぜ差別される側に転落するのかという
人類学的テーマは
私のライフワークである。
聖なる民
ユダヤ人がなぜ
ディアスポラの民となり
誤解され
ポグロム、ゲットー、アウシュビッツの暗黒へ放擲されたのか。
宗教、芸能に関わる浮遊する知識人が
畏敬や賞賛の対象から
偏見と差別の対象に堕ちたのはなぜか。
巫女や予言者的体質を有する常に異なる人々
まれびとが
近代社会では病人や障害の範疇に括られ
被差別の対象となったのはなぜか。
女性や障害を持って出生した人々は
むしろ聖なる人々として尊敬を受けていたが
なぜ
近代社会では差別されるようになったのか。
では
差別の理論分析はどうだろうか。
日本の近代社会において
士農工商穢多非人という身分社会が解消されたということは
実定法や行政においては
被差別の差別の実体、本質は解消されたことを意味する。
マルクス主義での問題の分析と解消の理論でも
経済的土台、階級的基盤が根底から消失した以上は
明治以降の近代資本主義社会において
封建遺制、身分制度の残滓としての問題は
存在しえないこととなる。
つまり
共産党系の解放理論では
問題はそもそも解消された事なのである。
かえって
解同系理論では
観念としての差別の残存というテーゼが唱道され続けたのである。
その意味では
共産党系のほうがマルクス主義に忠実であり
答えもシンプルである。
マルクス主義では
日本に同和問題は存在しないという結論になる。
経済と階級の土台から遊離した
観念の普遍性というテーゼは
まさに観念論だからだ。
では
マルクス主義ではない
形而上学や観念論、神学的世界観から
差別という感情や社会倫理は
如何に分析されるか。
同和問題の本質は
住居以前に
職業差別や民族差別(身体的、文化的、宗教的差異)を複合的に含んだものであり
共通理解が困難な人々への
畏怖や恐れといった感情の
差別、蔑視感情への転換である。
しかし
差別という名辞は
偶有性であり実体を伴わない。
それは相対的で表層的な差異でしかなく
人間の本質は霊魂の普遍性と身体性における相対性を特徴とするものであるために
職業差別や民族差別の本質や実体は存在しないという結論に至る。
すなわち
マルクス主義でも
神学的な形而上学でも
被差別という問題の本質は
何らの実体もない(存在論)
認識論の誤謬
認識主観における偏見、イドラの存在
鏡が曇っているという事実があるだけなのである。
私の今の仕事は
清掃でありごみ拾いである。
それは
き、人に非ずの身分の仕事である(昔ならば被差別民である)。
だからどうしたである。
私は私の仕事とミッションに矜持を持っているし
なんら自らを卑下しない。
その仕事は
聖なる仕事であると自負し
常に自信満々である。
かって
ゲットーに住んでいたとか
被差別に住んでいたとかは
どうでもよい過去だ。
卑しい仕事
低い身分などはない。
職業に貴賎なしとは
本会の経営理念である。
被差別問題の
解決の方策は
その地域に住んでいた人々が
自らの出自を露わにして
出世する以外に見当たらない。
それは
昔の貧乏話に過ぎない。
おわり
高橋記(日本の下層社会)
人類学的テーマは
私のライフワークである。
聖なる民
ユダヤ人がなぜ
ディアスポラの民となり
誤解され
ポグロム、ゲットー、アウシュビッツの暗黒へ放擲されたのか。
宗教、芸能に関わる浮遊する知識人が
畏敬や賞賛の対象から
偏見と差別の対象に堕ちたのはなぜか。
巫女や予言者的体質を有する常に異なる人々
まれびとが
近代社会では病人や障害の範疇に括られ
被差別の対象となったのはなぜか。
女性や障害を持って出生した人々は
むしろ聖なる人々として尊敬を受けていたが
なぜ
近代社会では差別されるようになったのか。
では
差別の理論分析はどうだろうか。
日本の近代社会において
士農工商穢多非人という身分社会が解消されたということは
実定法や行政においては
被差別の差別の実体、本質は解消されたことを意味する。
マルクス主義での問題の分析と解消の理論でも
経済的土台、階級的基盤が根底から消失した以上は
明治以降の近代資本主義社会において
封建遺制、身分制度の残滓としての問題は
存在しえないこととなる。
つまり
共産党系の解放理論では
問題はそもそも解消された事なのである。
かえって
解同系理論では
観念としての差別の残存というテーゼが唱道され続けたのである。
その意味では
共産党系のほうがマルクス主義に忠実であり
答えもシンプルである。
マルクス主義では
日本に同和問題は存在しないという結論になる。
経済と階級の土台から遊離した
観念の普遍性というテーゼは
まさに観念論だからだ。
では
マルクス主義ではない
形而上学や観念論、神学的世界観から
差別という感情や社会倫理は
如何に分析されるか。
同和問題の本質は
住居以前に
職業差別や民族差別(身体的、文化的、宗教的差異)を複合的に含んだものであり
共通理解が困難な人々への
畏怖や恐れといった感情の
差別、蔑視感情への転換である。
しかし
差別という名辞は
偶有性であり実体を伴わない。
それは相対的で表層的な差異でしかなく
人間の本質は霊魂の普遍性と身体性における相対性を特徴とするものであるために
職業差別や民族差別の本質や実体は存在しないという結論に至る。
すなわち
マルクス主義でも
神学的な形而上学でも
被差別という問題の本質は
何らの実体もない(存在論)
認識論の誤謬
認識主観における偏見、イドラの存在
鏡が曇っているという事実があるだけなのである。
私の今の仕事は
清掃でありごみ拾いである。
それは
き、人に非ずの身分の仕事である(昔ならば被差別民である)。
だからどうしたである。
私は私の仕事とミッションに矜持を持っているし
なんら自らを卑下しない。
その仕事は
聖なる仕事であると自負し
常に自信満々である。
かって
ゲットーに住んでいたとか
被差別に住んでいたとかは
どうでもよい過去だ。
卑しい仕事
低い身分などはない。
職業に貴賎なしとは
本会の経営理念である。
被差別問題の
解決の方策は
その地域に住んでいた人々が
自らの出自を露わにして
出世する以外に見当たらない。
それは
昔の貧乏話に過ぎない。
おわり
高橋記(日本の下層社会)