H Jungle With t - Friendship 1996
私は
昔
関西にいたとき
よく「朝まで生テレビ」を観たものです。
いまも放映されているのかは知りませんが
とやまの地上波では観れません。
この番組は
右翼、同和問題、天皇制など
タブーに斬り込む前衛番組で
嬉々として観ていました。
その中で
独特な慧眼を発揮しておられたのが
西部邁先生でした。
また
文藝春秋社の「諸君」も
よく読んでいました(廃刊)。
私の学的営為や
社会事業への繋がりのなかで
重要な示唆を与えて頂いたことは
事実です。
私は
幾つかの著作も渉猟し
新左翼や保守思想の流れのなかで逢着した境地を
一般大衆の現実へ繋げたいと思っていました。
私は
全学連や全共闘といった新左翼や伝統左翼
新右翼や伝統右翼といった
イデオロギーと党派性に拘泥する諸氏の営為が気になっていました。
いうまでもなく
テロや暴力革命は神学的道徳と実定法において違法であり
容認できません。
しかしながら
三島由紀夫氏や
野村秋介氏の生き様といったものは
私の人生において
大きなインパクトを与え
以後の深い思索と
社会事業、NPO的な事業へと繫がるわけであります。
すなわち
社会の不条理と
社会的弱者への視座
現実的な権力への意志や事業欲といったものは
無力な論壇へのアンチテーゼでもありました。
すなわち
諸君や正論
前衛や世界などに集結している論客が
どれほど現実の政策や大衆に貢献しているのかという疑念であり
三島の如くの
知識人への懐疑、不信感です。
ある意味
イデオロギー的な対立や論争が
全く政治と大衆の福祉に貢献していないことに
義憤を感じたがゆえに
政治と宗教を敢えて除いた
非営利活動へ突入していった訳です。
西部先生の歩みは
屈原の如く
終焉を迎えました。
しかし
その志は残された世界が引き取り
現実の世界を変える力へと変えねばなりません。
ごく先日
本屋で西部先生の新著を見かけ
まだ頑張っていることに安堵した矢先でした。
私は
出世して西部先生に会うつもりでした。
しかし
先生はトリックスターとして
生と死を越境され
自ら人身御供となってしまわれたようであります。
鎮魂と慰霊の祈りを捧げます。
高橋記
昔
関西にいたとき
よく「朝まで生テレビ」を観たものです。
いまも放映されているのかは知りませんが
とやまの地上波では観れません。
この番組は
右翼、同和問題、天皇制など
タブーに斬り込む前衛番組で
嬉々として観ていました。
その中で
独特な慧眼を発揮しておられたのが
西部邁先生でした。
また
文藝春秋社の「諸君」も
よく読んでいました(廃刊)。
私の学的営為や
社会事業への繋がりのなかで
重要な示唆を与えて頂いたことは
事実です。
私は
幾つかの著作も渉猟し
新左翼や保守思想の流れのなかで逢着した境地を
一般大衆の現実へ繋げたいと思っていました。
私は
全学連や全共闘といった新左翼や伝統左翼
新右翼や伝統右翼といった
イデオロギーと党派性に拘泥する諸氏の営為が気になっていました。
いうまでもなく
テロや暴力革命は神学的道徳と実定法において違法であり
容認できません。
しかしながら
三島由紀夫氏や
野村秋介氏の生き様といったものは
私の人生において
大きなインパクトを与え
以後の深い思索と
社会事業、NPO的な事業へと繫がるわけであります。
すなわち
社会の不条理と
社会的弱者への視座
現実的な権力への意志や事業欲といったものは
無力な論壇へのアンチテーゼでもありました。
すなわち
諸君や正論
前衛や世界などに集結している論客が
どれほど現実の政策や大衆に貢献しているのかという疑念であり
三島の如くの
知識人への懐疑、不信感です。
ある意味
イデオロギー的な対立や論争が
全く政治と大衆の福祉に貢献していないことに
義憤を感じたがゆえに
政治と宗教を敢えて除いた
非営利活動へ突入していった訳です。
西部先生の歩みは
屈原の如く
終焉を迎えました。
しかし
その志は残された世界が引き取り
現実の世界を変える力へと変えねばなりません。
ごく先日
本屋で西部先生の新著を見かけ
まだ頑張っていることに安堵した矢先でした。
私は
出世して西部先生に会うつもりでした。
しかし
先生はトリックスターとして
生と死を越境され
自ら人身御供となってしまわれたようであります。
鎮魂と慰霊の祈りを捧げます。
高橋記