早春 俳人永尾宋斤

祖父で「早春」を大正15年2月に主宰・創刊した永尾宋斤の俳句・俳語・俳画などからひもといています

宋斤の俳句 「早春」大正十五年六月 第一巻五号より  近詠

2019-12-29 | 宋斤の俳句を大正十五年「早春」創刊〜昭和十九年休刊までひもとく
  近詠

      峡の風そみ入れる清水かな
      蝙幅のまだまだ出づる掘暮れぬ
      睡蓮を去り行く山の日なりけり
      立つ人や睡蓮雨に打たるゝに
      五月幟繭高値にてながめられ
      素袷のうちに己れの肌抱く
      蛾はあわれ二夜我が家の燈に慓く
      一重帯解きおとしたる輪の中に
      病葉の落つるもろ葉の静か中
      閃刀紙百年紙魚に犯されず
      夏の雲水に映って我に来る
      睡蓮を旦にさびしうつくしき
      蚊張賣の浮世ぬからぬ口甞めり
      玉虫の恐怖つゝまし死んでゐる
      主客立つ庭の泉の盈々と



早春 早春大正十五年六月 第一巻第五号 一題百句 宋斤 

2019-12-29 | 宋斤の俳句を大正十五年「早春」創刊〜昭和十九年休刊までひもとく



   一題百句

   一題百句を作る努力をすゝめる。
   題詠の本来のものでないことを云ふ人がある。 多作の弊を笑う人がある。
   一題百句の吟は二つの弊害を合わせたものである。しかし、一題百句をすすめる。
   これの効果は、作品ではない、作句中である。
   ともかくも、暇を見てやってみるがよい。良いも悪いもその後のことである。
   作句修練の途に於いて、一回や二回の百句吟の経験を持ってゐてもよい、この白熱的な時代はあって好いことである。
   一度一題百句を作ると、量ではない、質に於いての己の程度ほゞ解る。
   己れの眼と心の幅も奥行きも案外小さいことに気がつく。
   行き詰まった時の、頭の入れ替へに、作った百句の常套を捨てるための、その廃棄品を並べてみるだけでも必要である。