永尾宋斤
宋斤句集刊行に就いて 神田南畝
宋斤句集はもっと早く刊行されるべきであった。否もっと早く刊行すべきであった。
率直に云えば昭和十九年五月居士物故の直後にも刊行すべきであった。勿論當時よりこの意思は十分持っていたのであるが、敗戦後の思うに任せぬ社会要請の阻まれて、焦燥しつつも実現に至らず遂に今日となった。しかし兎にも角も今回刊行されることになったのは何より欣しいことであり、亦いささか責任の荷を降ろした感である。
そこで本集の内容に就いてであるが、本来厳密に云えば居士の如く四十余年を一日の空白もなく作句に精進を続けたものには、已に數冊の家集が上梓されてあるべきが當然であるが、事実は一本すらおこなわれてゐないことは全く不思議のようである。固よりその間幾度か周邊の者の慫慂、 計画もあったが毎度実現しなかった。
これは居士が「句集は死後において上梓すべきもの」とする信を堅くも持してゐたことが支障の素因になってゐたことは否めない。この居士の信條には種々なる議論もあるが、要は厳しい自己批判に基く藝術良心が自然的に強いて句集とすべきを好まざる潔癖性となったのであろう。それだけに今回の撰抄に付いても生前の居士の意思に惇らざるよう十分の留意を拂ったのであった。
特に苦心したのは多數の遺句中より抄出範囲を何れに限界すべきかであった。正しく作句年代に従えば、カラタチ以前、カラタチ時代、同人時代、早春時代に分類すべきであるが、それは今回企晝したる刊行想定に副うべくもないので、全句集といったものは他日に譲り、一先ず早春創成期以来物故に至るまで發表された近詠中より撰抄することに定めたのである。
云うまでもなく早春は居士がその凡てを傾倒した句魂の凝結であり、毎号巻頭に収めた近詠はその徵象であったがためである。しかしその近詠四千餘から八百餘句に壓縮して抄出することは容易ではなかった.即ちその大部が割愛に忍びない好句が多かったことである。この為に思わざる時日を要した。漸くにして撰抄は終わったとしても猶且少なからざる當否の問題はあるものと思ふが、その大体に於て謬っていない自信は持ってゐる。従って居士の遺風を追慕するもの、句影に接せんとするものには凡てでないまでもその眞諦を知ることは出来ると思ふ。
しかし本集刊行を契機として将来同門支流のひとびとによって、居士を偲ぶ第二第三の句集が刊行さるヽ日のあるを希念して止まないものである。
因に本集上梓に際し、山崎冬尊、宮川宿木君は清記分類に、直原玉青君は装幀に、市川珖耳君は写真製版に、山下大庸君は題字鐫刻に、山崎布丈君、河合雲蹄君は編輯に、何れも同門の協力に據つたことは深く欣ぶと共にその厚志を謝するものである。
昭和24年春分の日
池鐙房書屋にて
神 田 南 畝