オーガストダーレス
1926年、『ウィアード・テイルズ』誌に短編「蝙蝠鐘楼」(Bat's Belfry)を発表してデビュー。同年ハワード・フィリップス・ラヴクラフトと知り合い、文通のみの関係ながら、1937年に彼が死去するまで親しく交流を続けた。1930年頃からはラヴクラフトの助言を受けつつ『風に乗りて歩むもの』など後にクトゥルフ神話として知られることになる作品を発表している。後輩であるロバート・ブロックの指導をラヴクラフトから任されるなど、彼の信頼が厚かった。
1939年、ドナルド・ワンドレイ(英語版)とともに出版社「アーカム・ハウス(英語版)」を設立。生前は不遇であったラヴクラフトの作品集の出版が主目的とされるが、フリッツ・ライバーやレイ・ブラッドベリなど多くの著名作家がここから単行本デビューを果たした。ブラッドベリがダーレスのことを「僕の人生を変えてくれた」と語り、またラムジー・キャンベルが「自分にとって彼はただの師ではなく、ずっと巨大な存在だったと回想するなど、後進の育成と怪奇幻想文学の発展に大きな功績があったとされる。ダーレスの勧めでクトゥルフ神話作品を書くようになったコリン・ウィルソンは「ダーレスはラヴクラフト以上に重要な存在だったのではないかとも思う」と評価している。
また、「ラヴクラフトの残した作品群を『クトゥルフ神話』として体系化する」「ラヴクラフトの残したメモから新作を書きあげ、それをラヴクラフトとの共著として発表する」活動で知られている。たとえばラヴクラフトの断章"Of Evill Sorceries Done in New-England of Daemons in no Humane Shape"(ニューイングランドにて異形の悪魔のなせし邪悪なる妖術につきて)に基づいた長編『暗黒の儀式』などがある。
これらラヴクラフトにまつわる活動については、功罪2つの側面があるとされる。「埋もれてしまう可能性もあったラヴクラフトの作品群を『クトゥルフ神話』として世に知らしめた点」や「新たな作家たちの神話世界への参入を容易にした点」は、ダーレスの功績として評価されている。一方、カール・H・トンプソンが1947年に"The Will of Claude Ashur"を発表したとき、その作中でミスカトニック大学や『ネクロノミコン』が勝手に使用されたことを問題視し、トンプソンのエージェントを務めていたラートン・ブラッシンゲームにワンドレイとの連名で抗議する書簡を送っている。このような振る舞いは作家の神話体系への新規参入を掣肘するものであったと批判されることもある。
かつては、「『クトゥルフ神話』を体系化する際、ダーレスの個人的な解釈から善悪二元論や四大元素などの要素を付与した結果、ラヴクラフト作品の持つ本質的な要素(例えばコズミック・ホラーなど)が歪曲化された」あるいは「『旧支配者と旧神の対立構図』についてラヴクラフト自身が提唱した事であるかのような記事を捏造した」として糾弾されることもあった。しかし今日では、「旧支配者と旧神という二元論的対立」の根拠となるものとして、ハロルド・ファーネイジがラヴクラフトからの書簡に「私の作品は『かつて世界を支配していた種族は黒魔術を実践したために追放されたが、外世界から再び地球を支配することを目論んでいる』という伝承に基づいている」という言葉があったとダーレスに紹介していたことが分かっている。ただし、実際にラヴクラフトがそう述べていたかどうかは明らかにはなっていない。また、旧神についてもラヴクラフトがその存在を認めていたどころか設定に一枚噛んでいた事も判明している。
ホラー作品の執筆や編纂活動は有名だが、著名なシャーロキアンでもあり、ベイカー・ストリート・イレギュラーズの古参メンバーだった。シャーロック・ホームズのパスティーシュである「ソーラー・ポンズ」シリーズを発表し、これは数多いホームズ・パスティーシュの中でも著名なシリーズ作品として高い評価を得ている。
1971年7月4日、心臓発作のため死去。そのときサンフランシスコで開催されていたWesterconに出席していたE・ホフマン・プライスは、参加者の動揺を恐れた大会の運営委員がダーレスの訃報をしばらく伏せようとしたと証言している英国幻想文学協会(en:British Fantasy Society)は、幻想文学の分野におけるダーレスの功績を記念して、彼の死の翌年である1972年にオーガスト・ダーレス賞(1976年以降、英国幻想文学大賞として改称・再編)を制定した。
wikipediaより抜粋
彼らの作品は空間の認識で興味深いものがあり
難解な物語が多く興味深い
古い本たちだけど今もファンがいる