歩 い て 世 界 一 周 1月27日(日) 雪後晴れ
日 数「日」 |
総歩数(歩) |
総距離(m) |
平均歩数(歩) |
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今 日 |
16,986 |
11,890 |
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今 月 |
27 |
442,710 |
309,897 |
16,397 |
今 年 |
27 |
442,710 |
309,897 |
16,397 |
2005年から |
2,9538 |
41,761,429 |
29,233,000 |
14,118 |
70歳の誕生日から |
6,490 |
123,711,565 |
86,598,096 |
19,062 |
ドイツ・オランダ、ベルギー.、フランス.イギリスを経てアイスランドのレイキャビックに向かう、後 709,863m
燕人立太子平為君。是為昭王。弔死問生、卑辞厚幣、以招賢者。問郭隗曰、「斉因孤之国乱、而襲破燕。孤極知燕小不足以報。誠得賢士与共国、以雪先王之恥孤之願也。先生視可者。得身事之。」隗曰、「古之君、有以千金使涓人求千里馬者。買死馬骨五百金而返。君怒。涓人曰、『死馬且買之、況生者乎。馬今至矣。』不期年、千里馬至者三。今王必欲致士、先従隗始。況賢於隗者、豈遠千里哉。」於是、昭王為隗改築宮、師事之。於是、士争趨燕。楽毅自魏往。以為亜卿、任国政。已而使毅伐斉、入臨淄。斉王出走。毅乗勝、六月之間、下斉七十余城。
燕人太子平を立てて君と為す。是れ昭王たり。死を弔ひ生を問ひ、辞を卑くし幣を厚くして、以て賢者を招く。郭隗に問ひて曰はく、「斉孤の国乱るるに因りて、襲ひて燕を破る。孤極めて燕の小にして以て報ずるに足らざるを知る。誠に賢士を得て与に国を共にし、以て先王の恥を雪がんこと、孤の願ひなり。先生可なる者を視せ。身之に事ふることを得ん。」と。隗曰はく、「古の君に、千金を以て涓人をして千里の馬を求めしむる者有り。死馬の骨を五百金に買ひて返る。君怒る。涓人曰はく、『死馬すら且つ之を買ふ、況んや生ける者をや。馬今に至らん。』と。期年ならずして、千里の馬至る者三あり。今王必ず士を致さんと欲せば、先づ隗より始めよ。況んや隗より賢なる者、豈に千里を遠しとせんや。」是に於いて、昭王隗の為に改めて宮を築き、之に師事せり。是に於いて、士争ひて燕に趨く。楽毅は魏より往く。以て亜卿と為し、国政に任ず。已にして毅をして斉を伐たしめ、臨淄に入る。斉王出でて走る。毅勝ちに乗じ、六月の間に、斉の七十余城を下す。
【先ず隗より始めよ】という諺は前々から知っていた。その意味は何かを上司に進言した者に対して、上司は「それは良いことだ。先ずお前からやって見よ」というように使う言葉だと、解釈していた。
十八史略を改めて読んで見て、全く違う場面で使っていることを知って驚いた。【もし王が優れた人材を燕に招致したいと思うならば、まず私、隗から優遇し始めてください。このことを聞けば、、私より賢いものが、どうして千里を遠いとして、燕に来ないでしょうか、いや来るにちがいありません。」と。昭王は郭隗の為に立派な御殿を改築し、彼に師事した。そうしたら、天下の賢士は争って燕にやって来た、という話だ。
しかし今も「隗より始めよ]という言葉はこうした時に使っているのだろうか?