百歳に向かってもう一度歩いて世界一周

平成7年1月1日より歩いて世界一周に挑戦して居ますので引き続き続けますのでご照覧あれ!

燕雀安知鴻鵠之志哉

2013年02月06日 13時19分52秒 | 十八史略

 歩 い て 世 界 一 周  2月6日(水) 雪

 

日 数「日」

総歩数(歩)

総距離(m)

平均歩数(歩)

今  日

        1 

16,906

11,820

 

今  月

101,540

71,078

16,923

今  年

36

612,085

428,460

16,543

2005年から

2,968

41,930,804

29,351,563

14,127

70歳の誕生日から

6,500

123,880,940

86,716,658

19,059

 イツ・オランダ、ベルギー.、フランス.イギリスを経てアイスランドのレイキャビックに向かう、後 591,300m

本文

 陽城人陳勝、字渉。少与人傭畊。輟畊之隴上、悵然久之曰、「苟富貴、無相忘。」傭者笑曰、「若為傭畊、何富貴也。」勝大息曰、「嗟呼、燕雀安知鴻鵠之志哉。」至是、与呉広起兵于蘄。時發閭左、戍漁陽、勝・広為屯長。会大雨道不通。乃召徒属曰、「公等失期、法当斬。壮士不死則已、死則挙大名。王侯将相、寧有種也。」衆皆従之。乃詐称公子扶蘇・項燕、称大楚。勝自立為将軍、広為都尉。

読み

 陽城の人陳勝、字は渉。少きとき人と傭畊す。畊を輟めて隴上に之き、悵然たること久しうして曰わく、「苟くも富貴とならば、相い忘るること無からん。」と。傭者笑いて曰わく、「若傭畊を為す、何ぞ富貴とならんや。」と。勝大息して曰わく、「嗟呼、燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや。」と。是に至りて、呉広と兵を蘄に起こす。時に閭左を發して、漁陽を戍らしめ、勝・広屯長と為る。会大雨して道通ぜず。乃ち徒属を召して曰わく、「公等期を失し、法斬に当たる。壮士死せずんば則ち已む、死せば則ち大名を挙げんのみ。王侯将相、寧くんぞ種有らんや。」と。衆皆之に従ふ。乃ち詐りて公子扶蘇・項燕と称し、大楚と称す。勝は自立して将軍と為り、広は都尉と為る。

 解釈

 陽城の人、陳勝は字を渉と言った。若いときは他の人と一緒に雇われて耕作をしていた。ある時、耕作の手を休め、畑の中の小高いところに行き、長い間嘆いた様子を見せて、こう言った。「もし金持ちで身分の高い人物になったら、あなたのことを忘れないようにしよう。」雇われ人夫はこう言った、「君は雇われて耕作などしている、どうして金持ちで身分の高い人物になれようか(、いやなれない)。」陳勝はため息をついて嘆きながら、こう言った、「ああ、ツバメやスズメのような小鳥に、どうして大鳥の志がわかろうか(、いやわからない)。」その後、呉広と蘄県で挙兵した。当時は集落の左側に住む免役者までも徴兵して、漁陽郡の守備に動員することになっており、陳渉と呉広はその前線守備隊の小隊長だった。前線へ赴く途中、たまたま大雨が降って道を通れなかった。そこで、仲間を呼んでこう言った、「あなた方は到着の期日に間に合わない、これは秦の法律では斬殺の刑に当たる。壮年のあなた方が、死にたくないのならば、ここまでである。だが、死ぬ覚悟があれば、大きな名声を得ることも可能だ。王や諸侯、将軍や宰相に、どうして血統があろうか(、いやない。今こそは我々がそうなれるチャンスだ)。」そこにいた者は、みな陳勝の言葉に従ったそこで、公子扶蘇と項燕の名を詐称し、また、国を大楚と称した。陳勝は自立して将軍となり、呉広は都尉となった。

 陳勝と呉広

 陳勝は秦末の農民反乱の指導者。陽城(河南省)の人。字(あざな)は渉。雇農の出身。前209年、呉広とともに兵を挙げ、一時は 張楚国を建てて王となったが、6か月後鎮圧された。雇農から張楚国王となった人物。すごい!



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