絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

容疑者Xの献身

2009-12-29 | いろいろ
容疑者Xの献身を見ました。

私は小説を読んで、映画も見たつもりになっていました。
不思議ですね。小説を頭の中で、映像化していたのですね。
今夜、見始めてから、あれ??見てないやと気づきました。

この映画は、なかなか良かったですよ。
小説より映画の方がいいと思いました。
こんなことは珍しいです。
大抵は小説の方が良くて、映画を見るとがっかりするのですが。

設定も面白いですね。天才数学者の頭脳と湯川博士の戦い、その数学者の頭でも
最後の女性が自首してくることが読めなかった。湯川博士も真理と私情とが自分の中で戦う。

雪山のシーンは、小説ではなかったような気がしますが、どうだったか?
女性が勤めているお弁当屋さんに、昔勤めていたスナックか何かの人が来るようなことがあったんじゃなかったな?と思いましたが、違ったかな?

でも、最後に女性が自首してきて、二人が泣き崩れるシーンが感動的でした。
あのような涙のシーンはあまり好きじゃなかったのですが、今回は、見ていて一緒に泣きたくなりました。

数学者が計算通りにいかなかったのです。自分は女性のために真実の愛を実現したという満足感でいたのでしょう。自分は人生に絶望して首つり自殺をしようとしているところに、突然のように現れて自分の人生を明るくしてくれた。そのことに感謝していて、今回のことがその感謝を示すことになるという満足感があったのです。しかし、女性の気持ちはそれでは済まないということに、数学者が気付かなかったのですね。

ただ、訳もなく殺されたホームレスが可哀そうですね。
本を読んだ時、そのことが納得いきませんでした。

そうだ、死体をアパートからどのように処理したかが、映画では説明されていませんでした。湯川博士が言ったようにバラバラにして川に捨てたのでしょうか?最後のシーンは川からそれを拾い集めているのかなと思いましたが、天才数学者は、女性が殺したことを否認しているということでしたから、バラバラ殺人は認めていないことになりますね。

高校生の娘さんは、刑事の追究からどのように逃れたのかということも気がかりでしたが、その部分は説明されませんでした。



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エジプトをつかもう 5

2009-12-29 | 美術
ネフェルティティがツタンカーメンを育てていたということまで話しました。

ツタンカーメンは、8歳でファラオになり、18歳で殺されたということになっています。その間、実際の政治を行なったのは、アイという神官だったようです。

アメン神官だったアイは、元々はアメンヘテプ3世の妻だったティイの兄で、ミタンニからやって来た人だったようですが、大神官にまで上り詰めて、ファラオに口出しをする程になっていました。それが、アメンヘテプ3世が死に、アクエンアテンが亡くなると、また力を示すようになり、宗教改革でアテン神に変えられてしまったものをアメン神に戻します。そのために、ファラオの名前もツタンカアテンという名前だったものをツタンカアメンにしました。

大神官アイにとっては、ティイはよく言うことをきいたのですが、ネフェルティティは逆らう人だったので、牢に入れて権力を奪いました。

都もアマルナからテーベにもどしました。

そして10年間政治を行ないました。

ツタンカーメンはなぜ殺されたのかということは、なぞですが、今いろいろ調べているようです。後頭部を何かで殴られた後があるとか、しかし、レントゲンで調べたらそれは直接の死因ではなかったとか、吉村先生の説では酒に毒を入れられえて毒殺されたのではないかということです。

その年にできた最初の酒を飲むのはファラオで、その時だけは毒見がないということです。

ーーーー
ツタンカーメンは、墓が発見されて、たくさんの財宝が出て来たので、20世紀最大の発見として、一番有名なファラオになっていますが、王名表にはなかったとか?

その妻は、アンケセナーメンと言って、とても仲の良い夫婦だったようです。

しかし、ツタンカーメンが亡くなってしまったので、二人の間に子供がなかったから、アンケセナーメンと結婚した人が次のファラオになるのです。

そのときに、ファラオになるのは、もうアイしかいないという感じでした。
しかし、アンケセナーメンはこのアイが嫌いです。というか、ツタンカーメンを殺したのがアイではないかと疑っていたのです。だから、その当時、敵であったヒッタイトに手紙を書いて、ヒッタイトの王子と結婚したいと伝えました。

ヒッタイトとは、今のトルコに住んでいた民族で、時々エジプトと戦争をしていた国です。

ヒッタイトはそれを罠だと疑いましたが、内容を見て信じます。それでヒッタイトの王子をエジプトに送りました。それを知ったアイは、部下を手配して、エジプト国境で王子を殺害しました。

アンケセナーメンの作戦は失敗に終わりました。

そして、泣く泣くアイの妻になりました。

ーーーー
だから、ツタンカーメンの後のファラオはアイがなったのです。

その後、アイには子がなく亡くなります。その後を継いだのは、アイの部下で軍隊の長であったホロエムフェブでした。そして、そのホロエムフェブも子かなく亡くなります。

そして、次のファラオになったのは、パラムセスでした。このパラムセスは、ホロエムフェブの部下で、ヒッタイトの王子を殺した実行犯のようです。なぜなら、その時に、国境警備を担当していたからです。

このパラムセスが第19王朝を開きます。(ツタンカーメンの頃は第18王朝でした。)有名なラムセス二世はこのパラムセスの孫です;。

パラムセスは名前をラムセス一世と変えて第19王朝を開きました。

ーーーー
ツタンカーメンの棺は外側の棺桶が一つだけ封印が切れていたそうです。
それは、アンケセナーメンがツタンカーメンの殺した犯人の名前を書いて棺に隠したので、その証拠を隠滅するために、アイが棺桶を空けて、その書いたものを取りだしたのではないかという説が出されています。

また、お墓の中には、矢車草がありましたが、それは麦の収穫の時期に咲く花で、酒による毒殺であったことを暗示するためにアンケセナーメンが入れたのだということも言われています。

死因が分からないので、いろいろな説が出されていますが、毒殺だとするとそういうことも可能性としてはありそうですね。

このツタンカーメンの墓は、王家の谷というファラオのお墓がたくさんある場所で発見されました。テーベの西、ナイル川の西側です。ハワードカーターという人が発見したそうです。スポンサーはカーナボン卿という人でした。
発見されてから、カーナボン卿を初めとして関係者が次々と亡くなりました。それでツタンカーメンの祟りだと言われました。





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ローマ人の物語15

2009-12-28 | 読書
ローマ人の物語15を読んでいます。

二部が終わって、西ローマ帝国が滅亡しました。
三部は、滅亡後のローマについて書いてあります。これから読みます。

しかし、ここまで読んでみて、平和であることの方が少ないのではないかと感じました。ローマの兵隊たちは、常に蛮族との戦いをして死の危険と隣り合わせです。
皇帝は、周りの誰かからいつ殺されるか分かりません。
農民たちは、蛮族という強盗殺人集団に常に狙われています。安心して暮らせるなどということはどこにもないようにさえ思えて来ます。

ローマが強くて、ライン川とドナウ川を防衛線にして、そこから侵入してくる蛮族を追い払うだけで平和が保てた時代は、パックスロマーナと言われるような平和がありました。だから、ローマ市などは城壁が壊れていても問題がなかったのです。
シーザーがローマに城壁は必要ないと言ったそうです。ライン川とドナウ川が城壁のようなものでした。

どこかが蛮族に攻められたらそこへ軍隊を送って、追い払うなり蛮族の本拠地まで攻め入って滅ぼすなり、いろいろなやり方があったのです。

ーーーー
しかし、滅亡寸前のローマは、蛮族にはやりたい放題にやられ、しかも強盗殺人集団が民族大移動でやってくるのですから、たまったものではありません。民族大移動とは、集団で移動してくるだけでなく、強盗に襲われることと同じなのです。殺されますから逃げるしかありません。

どこにも逃げようが無くなって、死ぬしかないという状態に追い込まれます。
だから、この世には、幸せに生きる場などないとキリスト教の司教たちも言いました。死んで天国で幸せになるしかないというのです。
この時代に、聖アウグスチヌスがいて、「神の国」を書いたのもそういう背景があったからなのですね。

フン族という東からやってきた獣のような民族に攻め込まれて、西ゴート族が大移動を始めて、他の民族もやはりフン族に殺されないように、逃げだすわけですが、逃げるとは、自分たちより弱いガリア(今のドイツ、フランス、スペイン)へ攻め込むということでした。強い物が弱い物を殺し、奪い、荒らし回って、去って行くのです。それを次々と繰り返すのです。そして、行くところが無くなると、民族同士でガリアを奪い合うということになります。みんな自分たちの居場所を求めて移動したのですね。

バンダル族などは、争いのために援軍を求められたのをいいことに、兵隊を送るだけでなく、民族ごとやってきて、そこを奪ってしまいます。だから北アフリカまで行ったのです。

そして、北アフリカから、船でいろいろな海岸の町に行っては荒らし回る海賊になりました。

それを取り締まるなり、仕返しをするなりというのが、ローマの軍隊の役目だったでしょうけれど、ローマも終わりごろになると、その力さえありません。

無法地帯です。無政府状態という言葉がありますが、こういうことを言うのでしょうか?

ーーーー
476年に最後の皇帝が、皇帝の地位を追われると、もう誰も皇帝になりたがる人がいませんでした。最後の皇帝は、ロムルス、アウグストゥスという名前だったそうです。ローマ建国のロムルスト同じ名前ですね。

この時代に、西ローマが滅んだそうですねとインタビューしたとしたら、そうですか?なんだかわかりませんねと答えるだろうと塩野さんは言っていました。また、もっと面白いのは、「まだ、ローマ帝国は続いていたのですか」と答えるかもしれないというのもありました。その方が面白いですね。

西ローマ帝国は、自然に消えて行ったような終わり方をしたそうです。
傭兵隊長オドアケルが、西ローマを滅亡させたということになっていますが、攻め込んで皇帝を殺したとかそういう大事件があったわけではなく、最後の皇帝は、お金を与えて、隠居させたような感じで終わっているのです。
もし、オドアケルが皇帝になると言えば、まだ続いたのかもしれませんが、オドアケルは皇帝になりませんでした。他の人を皇帝にしようともしませんでした。そのため、この時をもって、西ローマ帝国の終わりというのだそうです。

東ローマ帝国は、まだ続きます。1453年まで続きますので、歴史家の中には、ローマはそのときまで続いたのだという人もいるそうです。
その1453年とは、私はレオナルドが1歳のときだと覚えました。

ーーーー
10巻が途中なのと、11巻を読んでいないので、この15巻が終わったら、それを読んでみたいと思います。
こんなに長いシリーズを全部読むのは、初めてかもしれません。だから終わらせてみたいですね。
それでも、読んでいると、これはほんの一部にすぎないという気がします。塩野さんの調べたことはこの10倍はあるでしょうね。そんな気がします。

もっと詳しく知るには、そのパーツ毎に他の人が書いたものがあるのでしょう。原文が読めたらもっと知ることができるのにとも思います。
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今日の集まり(ヨーカ堂にて)

2009-12-28 | 日記
深谷のヨーカ堂に来ました。

ドトールコーヒーで、アイスコーヒーを飲んでいます。

今日は、ここに集まって、話をしようという会ですが、
言いだしたAさんが、来られなくなりました。
子供が熱を出して、実家に戻れなくなってしまったからです。

Aさんは、愛知県に住んでいるので、実家に戻るから会いましょうということでした。それなら、みんなに声をかけて、忘年会みたいに会いましょうということだったのですが、残念です。

しかし、このブログでも案内してしまったので、果たして何人来るかわかりませんが、私は待つことにしました。

来られなくなった連絡は、他にもHさんとOさんがいます。やはり子供が風邪のようです。

丁度、子供が1歳くらいのメンバーなので、子供次第ですね。

ーーーー
明後日のなかまちは、20名くらい集まるようです。
そちらは、出欠が必要なので、ほとんどが来るでしょう。
楽しみです。

今日のメンバーは、Aさんが実家に帰ってきたら、またやりましょう。

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エジプトをつかもう 4

2009-12-27 | 美術
新王国時代のハトシェプストのことを話しました。

次は、アクエンアテンとネフェルティティの話です。

ハトシェプストとトトメス3世の時代から、三代後かな?
アメンへテプ3世という人が出て来ます。
その時代にはアメン神が強くなって、その神官が威張り始めていました。
場合に寄ると、ファラオに口出しする程でした。それが嫌になって、アメンへテプ3世は、自分の住む家を移動したほどです。
ネフェルティティは、16歳でこのアメンへテプ3世の第二夫人として、ミタンニからやってきました。アメンへテプ3世の正妻はティと言って、40歳くらいでした。この人もやはりミタンニから来た人です。

ちょっとおかしいと思いませんか?エジプトは女系のはずです。ならば、妻はファラオの娘のはずですよね。ですからこの時は、例外ですね。

その時代は、ミタンニとの関係で政治的にそうしなければならない状態だったのかもしれません。また、アメンへテプ3世が、綺麗な女性に目がなくて、惚れ込んでしまったからかもしれません。

とにかく、ミタンニから妻を二人迎えたことになります。

ーーーーーーー
ネフェルティティを迎えて3年後にアメンへテプ3世は、46歳くらいで亡くなりました。その後を継いだのが、アメンへテプ4世です。そして、ネフェルティティはその妻になりました。アメンへテプ4世は、ミタンニに留学していたことがあり、子どもの頃のネフェルティティを知っていたのです。密かに恋心を持っていたとも言われます。

このアメンへテプ4世も、アメン神官のことが気に入らなくて、首都をアマルナに移動してしまいます。そして、信じる神様をアメン神からアテン神に変えてしまいました。その裏には、ネフェルティティの入れ知恵があったともいわれます。

テーベの神様であるアメン神を捨てることなど、この地で生まれたものには考えられないことでしたが、ネフェルティティはミタンニから来た人です。そのくらいはどうということはなかったでしょう。とにかく、夫であるファラオより権力を振り回す神官たちが許せなかったのでしょう。

だからアメンへテプ4世は宗教改革を行って、アメン神官の力を弱めようとしたのです。そして、名前をアクエンアテンとしました。これは、アテン神に選ばれたものという意味で、アテン神とは太陽のことです。

普通は、太陽神はラーといいますが、太陽の状態によっていろいろな呼び方があるようです。このアテンとは、太陽が南中をした最も強い光の状態のことです。

ーーーーー
この時代の美術がアマルナ美術と言われますが、それまでのパターン化した彫刻とは違って、とてもリアルに作られています。本当にそうなのだろうかと疑うほど、
アクエンアテンは不格好な体つきをしています。ネフェルティティの彫刻はその逆で実に凛々しく美しく作られています。
    

ーーーーーー
アマルナに遷都した後、アクエンアテンは病気になり、寝込んでしまいますが、アメン神官たちは、それはアメン神の祟りだと言いました。そして、原因はネフェルティティだから、遠ざけた方が良いと言われました。

ネフェルティティは残念ですが、アクエンアテンから離れます。そして、何をしていたかというと、次のファラオを育てていました。それがツタンカーメンでした。
ツタンカーメンは、その頃は、ツタンカアテンと言いました。アテン神です。

それが、その後、アクエンアテンが死んでしまって、再びアメン神に戻すように神官たちから言われます。そのために、ツタンカアテンはツタンカアメンに名前を変えられました。

だから、今は、ツタンカーメンと言われています。

これが、アクエンアテンとネフェルティティの物語です。

つづく

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