絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

年賀状を書いてます。

2009-12-27 | いろいろ
年賀状を書いています。
小栗くんのコマーシャルで、
「年賀状って大変だよね」というのがありました。
「だから、もらうと嬉しいんじゃん」ともう一人が言います。
小栗君はいい事言うねと返します。確かにその通りですね。

ーーーーーー

書いていると、ただの印刷では味気ないので、何か一言コメントを書いた方がいいなあと思います。しかし、250枚書くので、住所氏名を書くだけで結構大変です。その上、コメントとなると、---だから、なかなか書ききれません。

でも、もらってうれしい年賀状にしたいですよね。

自分でも、何か書いてあると嬉しいので、できるなら一言書きたいです。
それで、いつも12月30日くらいまで出さないでいます。

もっと、早く印刷をして、書き出しを早くすればいいのに、
いつもこのパターンです。

年賀状は、書ける幸せがありますね。
身内に不幸があると出せません。
喪中のはがきが届きます。
出してはいけない人として、区分けをしますが、
間違って書いてしまいます。
また、同じ人に二枚書いてしまうこともあります。

いろいろ大変です。

みなさん、いつも遅くなってごめんなさい。
先に誤っておきます。
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エジプトをつかもう 3

2009-12-26 | 美術
ピラミッドについて、語って行けば、まだいろいろありますが、それは、余話で話すとして、話を先に進めます。

古王国の首都は、メンフィスというナイル川の三角州のところでした。

それが、中王国になると、首都が上流のテーベになります。今のルクソールです。
今では、ルクソール神殿とカルナック神殿があって、観光客で賑わっているところです。

そして、神殿の時代になりました。しかし、ピラミッドが作られなくなったのかと言えば、そうではなく、有名なピラミッドが二つ作られています。
それは、私が誤解していました。生徒には、ピラミッドが作られなくなって、その代わりに神殿がつくられるようになったと話してしまいました。

生徒のみなさん、ここで訂正します。

また、新王国になると、ハトシェプスト女王で有名な葬祭殿が作られますが、中王国でも、そのハトシェプスト女王の隣に、葬祭殿を作った人がいました。
いま、名前が思い出せません。後で、調べます。
わかりました。メンチュヘテプ2世です。この人は、第11王朝を開いた人で、この人から中王国が始まると言われます。

ただ、この中王国は、短く終わってしまったようです。第11、12王朝でおわりました。でも260年くらいはありましたが、エジプトの長い歴史の中では、短く感じます。

ーーーーーー

そして、新王国になります。

新王国は、ハトシェプスト女王の話からです。
実は、トトメス1世という人がハトシェプストの父ですが、次のトトメス2世はハトシェプストと結婚したから、ファラオになれたのです。実は、エジプトでは、女系で進んでいきます。次のファラオは前のファラオの娘の夫ということです。

日本は、男系で天皇が続いていますね。エジプトではその逆でした。

まあ、娘の夫と言っても、結構親戚から選ばれることが多かったかもしれませんが。

ハトシェプストとトトメス2世との間に娘がいましたが、男の子はいませんでした。そして、トトメス2世の妾のイシスには、男の子がいました。それで、そのイシスの子をハトシェプストの娘と結婚させて、トトメス3世として、ファラオにすることに決まったのです。

そうしたら、まだトトメス3世が小さい時にトトメス2世が死んでしまいました。

そのために、ハトシェプストはトトメス3世の代わりに摂政となって政治を行なったのです。

ハトシェプストは、トトメス3世を嫌いいじめました。挙句の果てには、戦争で死ねばいいとまで考えて、ヌビアとの戦いの最前線に送り込んだのです。

また、本当は、自分に男の子がいれば、その子をファラオにしたかったようで、男の子がいないことを悔しく思い、トトメス3世を産んだ母のイシスにねたみを持ち、殺してしまいました。毒殺だったようです。それを実行したのは、ハトシェプストの側近と言われたセンムトでした。

このセンムトがあの葬祭殿を作った人だと言われています。


ハトシェプストは、トトメス3世を最前線に追いやって、その後は自分がファラオでもあるかのように振舞いました。人々の前に出るときも、付け髭をつけて男装をしたと言われます。

また、政治的には、平和外交をおこなったらしく、ヌビアでのいざこざはあったようですが、自分から兵を連れて戦いに出るようなことはなく、終始平和を好んだようです。だから、その間は、静かでした。

ただ、事態が変わるのは、トトメス3世が大きくなって帰って来たときでした。実権を取り返えされてしまったのです。
実はその前に、葬祭殿を作ったセンムトですが、その壁に自分の浮彫を作ったことを咎められて、失脚してしまいました。ハトシェプストとは男女の関係にあったともいわれる人でしたが、そのことが原因で追放されたようです。
そこへ、トトメス3世が帰って来たから、ハトシェプストは力でねじ伏せられるように、失脚しました。牢に入れられて、出られないまま死んだようです。
トトメス3世にしてみれば、子供の時にいじめ抜かれ、母を殺され、自分は戦いの最前線に行かされたのですから、当然のことでした。

そして、自分が権力を握ってからは、トトメス3世はどんどん戦いに出て行きます。今日では、歴史家から、エジプトにもナポレオンがいたと言われるくらい凄い人でした。

また、エジプトの歴史の中で唯一の女王と言うべきハトシェプストを憎んだトトメス3世は、葬祭殿などに作られたハトシェプストの浮彫などを剥がす作業を家来にさせました。

ここまでが、ハトシェプストとトトメス3世の話です。


つづく
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エジプトをつかもう 2

2009-12-26 | 美術
ギーザの三大ピラミッドは、クフ王のものが一番高いそうですが、見かけはカフラ王の方が高く見えませんか?

私は、おかしいなあと思っていたら、やはり高いのです。
それは、カフラ王の方が10メートル高い丘の上にあるからなのです。
それで、納得しました。

カフラ王のピラミッドだけ、化粧石が付いていますね。
作った時は、この化粧石が表面を覆っていて、きちんとした綺麗な面になっていたそうです。だから、今のようにがたがたではなかったのです。


では、なぜ今はないのでしょうか?

その説明をきちんと聞いた覚えがありません。地震で落ちたのでしょうか。
それとも他の物を作るために、持って行ったのでしょうか。
その両方でしょうか。

また、一番上に乗せる石をキャップストーンと言いますが、それもありませんね。
エジプト考古学博物館に一つありました。テレビで見たのですが、あれはどのピラミッドのものなのでしょうか?

吉村作治先生が、ピラミッドはお墓ではないという論拠は、ミイラが一つとして見つかっていないということです。それと盗掘にあったとしても、何か副葬品の一部や、ミイラの布の切れ端など残っていてもいいはずだというのです。まさか、泥棒が、盗んでいくときに、中を掃除して帰るとは思えません。だから、初めからミイラはないのだというのです。

どこかその近くで、クフ王の墓が発見されるのではないかと探しているようです。

また、お墓ではないという理由の二つ目が、一人の王が4つもピラミッドを作っているということがあるそうです。
たとえば、クフ王の父であるスネフェル王は、赤いピラミッド、屈折ピラミッド、ともう一つは崩れピラミッドだったかな?全部で3つ作っているはずです。

赤いピラミッド


屈折ピラミッド


崩れピラミッド


現在発見されているピラミッドは、60個くらいあるそうですが、その当時の王が80人いたので、80以上はあるでしょう。多分120個くらいあるのではないかといわれていますね。



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エジプトをつかもう

2009-12-26 | 美術
エジプトは、テレビで何度も扱われているので、私が触れなくても、みなさんよくご存知ですが、一応、私なりに、頭に入っていることを並べてみます。

1、エジプトは、古王国、中王国、新王国と分けます。
 
詳しくやると、ありすぎるので、とりあえず特徴的なことだけ覚えましょう。

①古王国  ピラミッドの時代です。
      ギーザの三大ピラミッド(クフ、カフラ、メンカウラ)
      スフィンクス、

②中王国  神殿の時代です。

③新王国  アマルナ美術の時代です。 
      ハトシェプスト女王 トトメス3世
      アクエンアテン、ネフェルティティ
      ツタンカーメン
      ラムセスⅡ世

④プトレマイオス朝の時代    クレオパトラ7世

エジプトは、30の王朝があったと言われますが、クレオパトラで終わります。
クレオパトラとは、ローマのシーザーと結婚した女王です。

ーーーーー
美術で扱うのは、まずはピラミッドです。

世界最初のピラミッドの話は、以前しましたね。
ジェセル王の階段式です。


  ジェセル王が夢に亡くなった父王が出てきて、手招きをしているので、これはなんだろうと家来のイムホテプに相談したところ、それはお墓を作れというお告げでしょうと言って、作ることになったそうです。

  その頃のお墓はマスタバと言って、上から見ると四角い形で側面は台形に見えるような形をしていましたが、それを何段も重ねて作ることをイムホテプが考えたようです。イムホテプは、メソポタミア出身で、ジッグラトを知っていたのでしょう。ジッグラトを真似して作ったようです。

その階段式は、6段で、60メートルくらいの高さです。

真上から見ると長方形ですね。その後のピラミッドはどれも正方形ですから、これは特徴がありますね。

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有名なピラミッドは、ギーザの三大ピラミッドです。


クフ王、カフラ王、メンカウラ王のものですが、並び方がまるでオリオン座の三つ星と似ていて、しかも大きさが、その星の明るさに比例すると言われるので、それを意識して作ったのではないかという説があります。

メンカウラ王の時代には少し国力が衰えたからだという考えもあり、定かではありません。

ただ、カフラ王のピラミッドだけ、スフィンクスがあるのが、不思議です。このスフィンクスはカフラ王の顔をモデルにして作られたという説明を聞いたことがありましたが、実は、作られた年代がどうもピラミッドよりはるかに古い時代だったのではないかという説が出てきて、いまは、むしろそちらの方が有力になりつつあります。


三つのピラミッドは、頑丈な岩盤の上に作られているので、崩れないのだと聞きました。作る時の様子がいろいろ考えられていますが、最初の土台は、溝を将棋盤のように掘って、水を流し、水平を作ったら、そこに線を引き、その線より上の部分を削って、溝の中を埋めて、しっかりした水平の土台を作ったと言われています。

その後の作り方については、いろいろあります。

1、長い坂を作って、引っ張り上げたという説、

2、螺旋状にして、ピラミッドの周りをぐるぐる回りながら、石を上に上げたという説。
3、おもりを付けて、反対側から引き揚げたという説

など、いろいろ語られています。

最近のテレビで扱われたのは、3番目の説ですが、それと組み合わせるような方法で、ピラミッドの少し内側にトンネルのような通路があって、それが上に石を運ぶ道だったのではないかといわれるようになりました。
まだまだ、これから、わかってくることがたくさんあるようです。

吉村先生は、ピラミッドはお墓ではないと言っていますが、エジプト考古学庁のザヒ博士は、お墓だと言っています。

このピラミッドだけを取っても、話題がありすぎて困るくらいです。

これから少しづつ話して行きます。

つづく。
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ボッチチェリー2

2009-12-25 | 美術
システィーナ礼拝堂のボッチチェリーの絵を紹介します。

まず、モーゼの生涯です。

この絵は、モーゼの試練です。



この絵は、反逆者たちの懲罰という絵ですが、モーゼが凱旋門の前で、反逆者たちに罰を与えています。
しかし、おかしいことがあります。
それは、この凱旋門がコンスタンチヌス帝の凱旋門だからです。尤も、凱旋門自体がおかしいかな?モーゼの時代にこのような凱旋門はなかったでしょうね。
コンスタンチヌス帝の凱旋門は、もうこのブログでは何回も紹介しましたが、1960年のローマオリンピックの時に、マラソンのゴールで使ったもので、裸足のアベベが金メダルを取ったことで有名になりました。
その凱旋門は、313年にミラノ勅令を出したコンスタンチヌス帝のために作られたものです。すでに出来上がっているものを利用して、彫刻などを組み合わせて作ったと言われるので、いろいろな寄せ集めの部分があって興味深いものです。

しかし、モーゼは、BC1000年くらいの人ですから、それがあるわけありません。ルネッサンスのボッチチェリーが想像で描いたものです。勝手に使ってしまったということですね。

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そして、キリストの生涯です。



これらの絵は、ミケランジェロが天井画を描かされる25年も前に描いたものです。完成は、1483年です。ラファエロが生まれた年ですね。

ボッチチェリーは、一年で絵を仕上げ、フィレンツェに帰ってしまいました。

注文したのは法王シクストゥス4世で、画家を選んだのはロレンツォ豪華王だと言われています。リーダーは、やはりボッチチェリーでした。

因みに、この建物がシスティーナ礼拝堂といわれますが、それはこのシクストゥスから取っているようです。
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