システィーナ礼拝堂の天井壁画と最後の審判については、先日お話ししました。
そのときに、両サイドにある絵については、また後でと言って、そのままでした。
すこし、触れてみたいと思います。
この両サイドの絵は、14名の画家が選ばれて描いたといいましたが、その時は、ボッチチェリーが中心だったのかなと思います。ボッチチェリーは、一人で3枚描いています。正面に向かって右側がモーゼの生涯、左側がキリストの生涯だったと思います。
その他の画家たちは、画集を見るとわかりますが、私も暗記するほど掴んでいません。ただ、ラファエロの先生であるペルジーノがいました。それだけは記憶にあります。
そのとき、年齢的にも力的にも当然選ばれても不思議ではないレオナルドがいません。その理由は、定かではありませんが、どうも絵を描くのが遅いとか、自分で納得しないと途中でやめてしまうとか、心配だったので選ばれなかったのではないかと言われています。
要するに、協調性がなかったからでしょう。よく言えば、完璧主義だったので、決められた通りにはやってくれないということが原因でした。
ーーーーー
ただ、レオナルドとボッチチェリーは、同じベロッキョ先生の所で、働いていましたから、仲も悪くはなかったと思うのです。フィレンツェのサンタマリアデルフィオーレ教会のクーポラの上に球と十字架を立てるときには、一緒に携わったらしいのです。そのときは、二人とも若くて、ベロッキョ先生のところにいたのです。
ボッチチェリーは、レオナルドより8歳年上でしたから、ボッチチェリーが22歳でレオナルドが14歳だったのかな?そのくらいの年齢でした。
ボッチチェリーは、ベロッキョ先生のところにいたのは、数年で弟子というより、共同で仕事をする仲間くらいの感覚だったでしょう。
ーーーーーー
ボッチチェリーからしてみたら、まだレオナルドは駆け出しという感じで見ていたでしょう。しかし、28歳のとき、レオナルドが20歳で、画家組合に入ってきます。絵の力が優れていたので、20歳で入って来たのにはボッチチェリーも驚いたようです。その画家組合は、聖ルカといいました。
ーーーーーーー
だから、絵の力は優れていて、しかもボッチチェリーとの関係も良かったので、選ばれても良かったのですが、ボッチチェリーは誘わなかったのです。
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この話は、長くなるので、少しづつ話します。
つづく
そのときに、両サイドにある絵については、また後でと言って、そのままでした。
すこし、触れてみたいと思います。
この両サイドの絵は、14名の画家が選ばれて描いたといいましたが、その時は、ボッチチェリーが中心だったのかなと思います。ボッチチェリーは、一人で3枚描いています。正面に向かって右側がモーゼの生涯、左側がキリストの生涯だったと思います。
その他の画家たちは、画集を見るとわかりますが、私も暗記するほど掴んでいません。ただ、ラファエロの先生であるペルジーノがいました。それだけは記憶にあります。
そのとき、年齢的にも力的にも当然選ばれても不思議ではないレオナルドがいません。その理由は、定かではありませんが、どうも絵を描くのが遅いとか、自分で納得しないと途中でやめてしまうとか、心配だったので選ばれなかったのではないかと言われています。
要するに、協調性がなかったからでしょう。よく言えば、完璧主義だったので、決められた通りにはやってくれないということが原因でした。
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ただ、レオナルドとボッチチェリーは、同じベロッキョ先生の所で、働いていましたから、仲も悪くはなかったと思うのです。フィレンツェのサンタマリアデルフィオーレ教会のクーポラの上に球と十字架を立てるときには、一緒に携わったらしいのです。そのときは、二人とも若くて、ベロッキョ先生のところにいたのです。
ボッチチェリーは、レオナルドより8歳年上でしたから、ボッチチェリーが22歳でレオナルドが14歳だったのかな?そのくらいの年齢でした。
ボッチチェリーは、ベロッキョ先生のところにいたのは、数年で弟子というより、共同で仕事をする仲間くらいの感覚だったでしょう。
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ボッチチェリーからしてみたら、まだレオナルドは駆け出しという感じで見ていたでしょう。しかし、28歳のとき、レオナルドが20歳で、画家組合に入ってきます。絵の力が優れていたので、20歳で入って来たのにはボッチチェリーも驚いたようです。その画家組合は、聖ルカといいました。
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だから、絵の力は優れていて、しかもボッチチェリーとの関係も良かったので、選ばれても良かったのですが、ボッチチェリーは誘わなかったのです。
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この話は、長くなるので、少しづつ話します。
つづく