私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

近況など(20241110)

2024年11月10日 14時00分54秒 | 個人的なこと

◇近況など(20241110)◇

 

久しぶりに近況など書いてみようと思います。

 

◇幸せの件

先月、幸せに気づいたこをと記事にしました。

まずは、その関連のことを書いてみようと思います。

「ああ、自分は幸せだったんだな」、「これからもずっと幸せなんだな」と気づいた訳なのですが、特に何が変わった訳ではないのです。

幸せかどうかにかかわらず、私はこれまで本心に取り組み続けてきていて、これからもそうしていくのみであり、私の生き方が何も変わる訳ではありませんから。

しかし上手く表現できませんが、幸せに気づいてから、何かじんわりとした幸福感があるというか、あるいは、もとからあったそのじんわりとした幸福感に気づいたというか、そういう微妙な感じの変化はあるような気がしています。

それと、これまで自分の中に、「幸せ」という言葉に拒絶反応するようなところがあったのですが、それが殆ど無くなったというか、大きく減りました。

トンガっていたところが、少し丸くなったようにも感じています。

 

一切皆苦との関連。

やはり、基本的なベースは一切皆苦なのです。

存在しているのが苦しく、辛いことには変わりないのです。

それでも、幸せなのです。

本質的に、幸せとは苦しみや辛さを伴うものなのだろうと改めて納得したところでもあります。

 

◇死後について

できることなら、死後は入滅により消えて無くなりたいと思っているのですが、どうなるかはわからないというところは変わりないのですが、ひとつはっきりしてきたところがありまして、そのことを書きたいと思っています。

消えてなくなることが叶わず、輪廻を繰り返す必要があるのなら、私はこの地球の今の時代に生まれてきたいと願っています。

それは、地球のこの時代が一番遣り甲斐あり、面白いと思うからです。

人生についても選べるのなら、選択可能な範囲で一番しんどい人生を選びたいと思っています。

なぜなら、それが一番遣り甲斐があり、面白いからです。

楽な存在や楽な人生は、退屈で勘弁です。

輪廻から逃れられないのなら、私はこの地球の今の時代を延々と繰り返していたいと思っています。

 

◇足の骨折の件

9月13日の足の骨折は、順調に回復中です。

現在はギブスも取れて、リハビリ中です。

数日前からごく簡単な作業ならこなせるようになってきました。

 

◇日本人の意識変化

ネットの様子を見ていると、スピと陰謀論ブームが起きていますが、一部でスピから悟りへのシフトが起こってきているように感じています。

他人軸でなく、自分軸で生きることの大切さへの言及も数多く見受けられるようになってきています。

日本人の一部に、意識変化が生じているようです。

この流れはさらに拡大しながら、当分の間続くのではないかと見ています。

私のブログのアクセス数やセッション依頼等は、余り伸びていませんが(笑)。

 

◇今後の活動について

youtubeを使ったライブ配信等、何か変わったことをやってみたいような気もしているのですが、どうもやる気が起きず、ほったらかしになっています。

最近やったことは、骨折して動けなくてヒマなので、このブログ記事のテキストデータをダウンロードしました。

そのうち、カテゴリごとにまとめて、noteで販売してみようかと思っています。

 

 

◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇自覚の要領をひとつにまとめた有料記事「自覚のヒント」のご案内はこちらです。
◇有料のスカイプ個人セッションのご案内は、こちらです。
 
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
 
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ツイート記事(202410~)

2024年10月28日 17時48分52秒 | その他
◇ツイート記事(20241010~)◇
 
<10月10日>
◇大悟を振り返って
ここ数日、無我の悟り(大悟)について何か呼び水になるような文章を書けないかと考えているのですが、なかなか難しくてまとまりません。
それで、自分が大悟したとき、どういう経緯を辿ったのかと自分の過去の足取りを振り返ってみました。
ちなみに、私が大悟に至った日は、2013年10月19日(土)でした。
自覚を始めて解脱に至るまで、思ったことや気づいたことをノートを書いてましたので、今でもそれを読むと当時の足取りをある程度追うことができます。
 
今までこのブログでは余り大きく取り上げて来なかったのですが、自分が受け入れの取り組みを結構熱心にやっていたことがわかったのです。
ここでの受け入れとは、自分自身を受け入れるというものです。
受け入れには二種類あり、一つは外側に対してのもので、もう一つは内側である自分自身に対してのものです。
外側に対しての受け入れは、外側に対して握り締めている囚われの手放しと関係していて、小悟に通じています。
内側に対しての受け入れは、自分自身に対して握り締めている囚われと関係していて、大悟に通じています。
囚われの手放しは、自覚によってそれに気づくことによっても生じるのですが、受け入れによっても生じのです。
 
その自分の足取りを辿っていてこれはと思ったが、大悟する19日の前々日の夕方の通勤電車の中で起きた、私に対する感謝でした。
電車の座席に座っているとき、自分がしている過去、現在のすべての経験について、それが経験できているのは私という存在があってこそなのだということに、ハッと気づいたのです。
その瞬間、私自身に対する大きな感謝の気持ちが湧き起こり、座席に座ったまま下を向いてボロボロと涙を流して泣きました。
自宅の最寄り駅に着いても涙が止まれず、下を向きながら遠回りをして自宅に帰りました。
 
私の場合、大悟には、自分自身に対する受け入れからその感謝に至る体験の影響も大きかったのだろうと思います。
私は小悟に至る際も明け渡し体験(受け入れ)の影響が大きかったので、受け入れが優位になりやすいタイプのようです。
 
道は人それぞれですが、何かヒントになる方がおられるかもと思い、書くことにしました。
なお、上に書いた大悟する19日の前々日の体験は、その翌日にブログ記事にしていました。
リンクは、これです。
 
<10月13日>
◇中国は崩壊寸前か
ここ最近、世界情勢の変化のスピードがどんどん速まっていると感じています。
中国だけでなく、アメリカも急激に劣化して行っているようで、どんどん崩壊が近づいているように感じています。
そんな中、習近平が中国国内の内乱に対する準備を進めているというニュース動画を見つけました。
その動画のリンクは、これです。
 
その内乱とは主に民衆の暴動のことのようですが、おそらく軍の一部による反乱も相当警戒しているのではないかと思います。
最近の中国は、地方政府の役所が襲撃され、役人が惨殺される等の事件が頻発しているようです(正規ルートでの報道は無いですが)。
私の個人的なカンで言うなら、中国の人民統治はあと1、2年で崩壊するのではないかと考えています(3年は持たないのではないか)。
中国の人民統治が崩壊すれば、その心理的な影響がアメリカに伝わり、アメリカの人民統治も崩壊するだろうと考えています。
そうなれば、この日本も含めて、全世界の経済も統治も崩壊します。
 
さて、どうなるのでしょう。
 
<10月16日>
◇近況など
久しぶりに近況など書いてみます。
 
足の骨折の件
9月中頃に、農作業中の管理機の操作ミスにより右足首上(腓骨、外側の細い方の骨)を骨折し、現在療養中です。
骨折した部分が少し離れてしまっていて、手術を勧められたのですが、手術はイヤだったので(笑)、そのままギブスを巻いてもらって頑張っています。
そのせいもあって、骨がなかなかくっつかず、困っています。
ギブスの装着は5週間が限度らしくて、それでも骨が付かない場合は、そこから手術もあり得るとのことで、おそらく大丈夫でしょうが、少し不透明な状況です。
来週水曜に、ギブスを外してみて、まだ暫く療養継続となりそうです。
 
本来なら、農業の秋の収穫作業ど真ん中なのですが、やり始めたところで骨折してしまい、放置状態となっています。
今年の収穫は、大半は諦めることになるかも知れないと覚悟しています。
 
今後の農業の取り組みについて
農業を始めて今年で実質4年目なのですが、地方の山の中で小さな農家が農業で生活費を稼ぐのは構造的に無理なんだということは2年目の時点でわかっていました。
それでも、まだ農業について納得できないところがあるというか、僅かな可能性についてトライしてみたいようなところがあり、ここまでやってきました。
 
しかし、農業(と言うより、現代社会)が抱える構造的な種々の問題の壁は大きく、この4年目は私の農業に対する取り組みの節目になるのではないかと考えながら、取り組みを続けてきました。
基本的に無理な取り組みをしていますから、どうしても無理をして作業をしてしまう状況が多くなり、骨折事故を起こしてしまいました。
 
骨折とそれによる農業へのダメージは大きいですが、私の農業に対する取り組みに対する良い節目を作ってくれたように感じています。
自分の置かれた状況に冷静に向き合うことができた感じです。
世界経済もあと3年は持たず崩壊するのではないかと考えていますので、その点からも、農業だけでなくライフスタイルを含めたいろいろな面で、見直し、切り替えていくタイミングだと考えています。
 
来年からは、農業に割くエネルギーを半分以下に減らして、それ以外のエネルギーは、経済崩壊後の生活に対する準備と、それまでの生活資金獲得のためのアルバイトに当てて行こうと考えています。
サバイバルのための当面の主な取り組みは、以下のポイントです。
・食料の備蓄や方法の整理
・念願の鶏小屋の建築
・薪ストーブ用と風呂用の薪の準備
・簡易なソーラー発電設備
・狩りの準備(罠と簡単なハンティング)
・簡単な無線設備
 
ヒマつぶし
療養中でヒマなので、ネットの動画ばかりみてます。
ここ数日は、世界を旅している青年の動画を観ています。
〇リヤカーで北米、南米大陸縦断をしている青年の動画(リンクはこれです)
〇原付バイクで世界一周をしている青年の動画(リンクはこれです)
 
<10月21日>
◇悟りと夢の変化について(夢の中で心が動かない)
12年程前にあった明け渡し後、寝ている間に見る夢の様子が大きく変わったのですが、解脱後の変化として、夢の中で心が全くという程動かなくなったのです。
正確には、あーだこーだという思考は起こるのですが、感情や快不快等の情緒的な要素が殆ど無くなってしまったのです。
明け渡し前は、夢の中で誰かと格闘したり、高いところから落ちたりして、喜び、怒り、悲しみ等の喜怒哀楽や、恐怖心もあったのですが。
それが、明け渡し後から、夢の内容も比較的淡々とした内容のものが多くなり、喜怒哀楽や恐怖心等の心の動きも小さくなっていきました。
そして、解脱後は夢の中で心の動きが全くという程無くなってしまったのです。
 
一昨日の夜は、久しぶりにハードボイルドなちょっと激しい内容の夢を見たのですが、それでも心が動きませんでした。
どんな夢かと言うと、
私は何かの組織の一員になっていて、その組織は何かテロの標的になるリスクを警戒していて、私は、バスに乗り込もうとする人たちの警戒任務にあたっていたのです。
その任務中、バスに乗り込もうしている人のスーツケースの中に爆弾が仕込まれていることが直観的にわかったのですが、その直観とともに、その直後にその爆弾が爆発することも直観でわかったのです。
私はとのとき、そのスーツケースを持った人の直ぐ近く(2メートル以内)にいて、爆弾の爆発はもう止めることができず、どうしようもないことがわかったのですが、爆弾が爆発することに気づいたときにほんの少し驚きのような心の動きがあっただけで、それ以外は全くという程心の動揺がなかったのです。
まるでサイボーグのようでした。
そして、爆弾が爆発する瞬間に目が覚めたのです。
目が覚めても、全く動揺が残っておらず、呼吸も心臓の鼓動も全く通常の状態でした。
むしろ、爆弾が爆発した後のことを観れなかったので、残念な気持ちがありました(笑)
 
<10月28日>
◇崩壊前夜か
最近、現在の社会構造の崩壊へ向けた変化がどんどん明るみになってきていると思っています。
崩壊のタイミングは意外な程近い可能性もあると感じています。
まだそこまでは無いだろうとは思いますが、早ければ来年夏にすべて崩壊するということも全く無いとは言えないのかと考えています。
 
今度の展開の予想として。
米大統領選後に、中国を筆頭に、米国、中国の混乱が急速に進んでいくのではないかと思っています。
混乱の中身は、経済的なもの、政治的なもの、内乱的なもののすべてが起こってくるだろうと思っています。
またおそらく、主要メディアによる情報統制も世界的な規模で崩壊していくでしょうから、これまで伏せられていた重要かつ深刻な情報がどんどん明るみになっていくだろうと思っています。
例えば、主要各国の財政運営が既に破綻していてどうにもならない状況であることや、
DSと言われる組織の闇の取り組みなどが、明るみになっていくと思っています。
 
そのような混乱が急速に進むいずれかの段階で、民衆のパニックが世界規模で連鎖的に起こり、各国の人民統治が崩壊するだろうと考えています(2026年末までに起こるのではないか)。
そうなると、暫くの間、ライフラインの停止、食料を含めた物資の流通の停止が起こります。
 
補足です。
戦争について、現在あちこちで戦争が起こっていて、それをさらに拡大させようという闇の働きがありますが、
これが世界的な戦争に発展することはないと考えています。
世界的な戦争をする程の力は、闇の勢力にももう無いし、主要各国にも無いと思います。
例えば、中国には台湾や日本に戦争を仕掛ける力は残っていないだろうと考えています。
 
◇兵庫県知事選
個人的に、衆院選よりこっちの方がよっぽど面白いと思って観ています。
斎藤前知事が再度立候補するだけでも面白いのに、NHK党の立花氏まで参戦して、どうなるのか見ものだと思っています。
私は、これはメディアを含めた古い体制の崩壊が現れている典型的な例だと見てます。
 
 
◇悟り伝える意志
あるジャーナリストが政治家の姿勢について語っているのを聞いていて、
悟りを伝えることについても通じる部分があるなぁと思いました。
 
端的に言えば、悟りを伝える意志と覚悟ですね。
 
さて私自身にはその意志と覚悟がどの程度あるのだろうか、と我が身を振り返りました。
どうなんでしょ。
暫し考え、見つめ直してみたいと思います。
 
 
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
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私の体験談(解脱の悟り後のこと)(3)-幸せに気づくー

2024年10月19日 17時40分32秒 | 私の体験

◇私の体験談(解脱の悟り後のこと)(3)ー幸せに気づくー◇

 

昨日このブログに「幸せについて」という記事を書いたのですが、実はそれは私自身に起こったちょっとした気づきだったのです。

その気づきを体験談として記事にしてみたいと思います。

 

約12年前に明け渡しが起こったのですが、その当時は重度の自閉症で世話がとても大変な息子を抱え、家庭と仕事の負担に押しつぶされそうになりながら生きていました。

一般的な幸福からは程遠い、厳しく辛い状況にありました。

そのような中、明け渡しが起こり、その後暫くの間、頭の中が何が起こっても有難く思えてしまうという超おめでたい状態になり、このときおそらく、幸福感に関する感覚がかなりの部分吹き飛んでしまったようです。

その後に出会った自覚を通じて、一般的な幸せというものが囚われや執着にまみれた迷いの中にあることがわかったこともあり、幸せを求めなくなったというか、幸せを全くという程意識しなくなってしまいました。

それからの私は、自分のやりたいことにただ取り組み続けるだけで、自分の幸せ意識することなく生きてきました。

 

そして、昨日(10月18日)です。

ネットである方の動画を観ていて、自分の幸せに気づいたのです。

幸せとは、本心に取り組み、生きる、その営みそのものであることにと気づいたのです。

19歳の頃、全てが無意味に思え、虚無感に苛まれ苦しむ中、「生きよう」と思い立ったときから、私はいつも幸せだったのです。

どんなに辛く、大変なときも、ずっと幸せだったのです。

 

自分が幸せのど真ん中にずっといたとは、盲点だったというか、気づきませんでした。

これからは、この幸せを味わいながら生きていきたいと思っています。

 

 

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幸せについて

2024年10月18日 11時32分27秒 | 生きるヒント

◇幸せについて◇

 

私たちは皆、幸せを求めています。

そして、多くの方は幸せになろうとして、外側に向けて幸せを求めてしまいます。

しかし、そうした取り組みによって本当に幸せになれるのでしょうか。

私は大いに疑問を感じます。

 

では、幸せは何処にあるのか。

私の答えは、こうです。

 

人が自身の本心に取り組み、生きるとき、その営みそのものが幸福になる。

 

 

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一切皆苦と存在苦

2024年10月11日 10時00分48秒 | 悟り
◇一切皆苦と存在苦◇


一切皆苦とは、一切が苦ということですが、わかりやすく言えばその中身の多くは存在苦です。
存在苦とは、存在していることそのものが苦、あるいは存在そのものが苦であるということです。

とは言っても、多くの方々はこの存在苦に意識が向くことはありません。
まだまだ経験したいことが沢山あり、経験すること、存在することへの執着が強いからです。
存在苦を感じるようになるのは、おそらく前世で一度あるいは何度か大悟を経験してからだろうと考えています。

なぜなら、小悟者の多くは何らかの絶対的あるいは恒久的なものに対する囚われがあり、そのことが存在への執着を物語っているからです。
また、大悟者についても、一度目の大悟では一切のことがらに対してフラットになり、楽になるだけなのだろうと思うのです。
存在苦を感じ始めるのは、おそらく、大悟後の営みにより虚無が身に染みてきてからのことだと思うのです。

例えば、幼少の頃から深い虚無を感じているような方は、ここで言う存在苦がわかるかも知れません。


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仏教における縁起をめぐる誤りについて

2024年10月05日 17時58分08秒 | 悟り

◇仏教における縁起をめぐる誤りについて◇


先日、釈迦が縁起をどう捉えていたかについて調べていたのですが、その過程で南伝系も大乗系も含めて仏教の大半というか、おそらくほぼ全ての系統において、縁起の捉え方を間違っていることがわかりました。
余りの状況に愕然とし、どうでもよくなり、仏教に言及する気も無くなったのですが、気を取り直して最後に、縁起をめぐる仏教が抱えている問題点について書いておこうと思います。

まずは、仏教の縁起に関する誤解について。
先日の記事「龍樹は縁起を誤解している」の中で書いた通り、私という存在は意識であり、その意識は、微細に見ると識が映画フィルムのコマのようにパッ、パッ、パッと連鎖的に連なって生滅することで展開しています。
識は、各瞬間における認識であり、五感に思考や感情を含めた六根を通じて起こってくる現象と、その現象を認識する認識作用が一体不可分に結合したものです。

縁起という言葉、あるいは概念は、おそらく釈迦よりも前からあったのだろうと私は考えています。
そして、先人たちは、連鎖的に生滅する識の連鎖を縁起と言っていたのではないかと私は考えています。
つまり、縁起の本来の意味は、因果関係のことではなく、識の連鎖のことだったのではないかと考えています。
この点について、釈迦が縁起をどう捉えていたかは、今となってはわからないようです。

しかし、釈迦の後に編纂された縁起に関する仏典の多くは、縁起を因果関係として捉えてしまっています。
ここに、大きな誤解があるのです。
しかも、それらの仏典はその誤解のある縁起という考え方を、無常や無我等と同等か、それ以上の扱いをしてしまっており、間違いを深めてしまっています。

なぜなら、因果関係という考え方は無我(一切に実体が無い)という悟りと整合せず、反しているからなのです。
これをどうしたらわかりやすく説明できるのかと、ここ数日考えていたのですが、上手い説明が思い付きません。
これを理解するためには、無我の悟りに伴う不可知(知の限界)を知るしかないのですが、少し試してみます。
因果関係とは、ものごとには原因と結果があるという考え方です。
しかし、ものごとの原因を追究することは、根本的に不可能であり、不可知なのです。
例えば、この世界(宇宙)はなぜ生じたのかや、私という存在はなぜ生じたのかは不可知なのです。
そのような大きなことだけではなく、もっと身近な様々なことについて、実のところはすべて不可知なのです。
例えば、1+1がなぜ2なのかも、海の色をなぜ青と言うのかも、根本的なところでは不可知なのです。

つまり、因果関係はそもそも根本的に不可知であり、悟りの対象にもなり得ないのです。

そして、因果関係という意味での縁起が真理となることもあり得ないのです。

 

<追記(20241110)>

上の文章の一番最後の一文を追加しました。

 



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存在に関する情報

2024年10月04日 21時50分17秒 | エッセイ
◇存在に関する情報◇


9年程前に見た夢の体験から、私たち存在に関する興味深い情報をいくつか読み取ることができますので、今回はそれを記事にしておこうと思います。
ひょっとすると、この情報がどなたかの役に立つかも知れないと思っています。
その夢の体験はブログ記事にしておりまして、リンクはこれです。

私は12年程前に明け渡しを体験した後から、身体の無い存在になっている夢を頻繁に見ます。
その身体の無い存在とは、本当に身体が無く、視覚だけがあり、意識としては薄っすらとした自我(思考や発意、感情等)があります。
存在の大きさはおそらく点のような小さいもので、透明です。
私は、そのような視点だけの存在になって、人々の様子や景色を眺めている夢を頻繁に見ます。
多くの夢は特筆するようなことは余りないのですが、上でリンクを貼った9年前の夢は、とても変わっているというか、面白いのです。

簡単にどんな夢かと言うと、
視点だけの存在になっている状態から、夢の中の身体のある他の人物と一体化し、その状態のまま暫く時間を過ごした後、再びその人物と分離したのです。
以下、その夢から読み取れる情報について書きます。

◇視点だけの存在があり得る
おそらく夢と現実は本質的な違いはありませんから、夢の中で起こることは現実でも起こり得ると考えています。
ですから、この現実世界でも、身体の無い視点だけの存在があり得るのだろうと考えています。

◇視点だけの存在が他の人物と一体化したり、離脱する可能性
この現実世界においても、視点だけの存在が肉体のある他の人物と一体化したり、離脱するという現象が起こり得ると考えています。
ちなみに、夢の中で、視点だけの存在である私(慧空)が他の人物と一体化したときは、それまでの慧空という認識は消失し、その人物になり切っていました。
しかし、その人物としての自我の働きは私が担っているという感覚でした。
つまり、その一体化している間、私は傍観者ではなく、その人物として主体的に活動していました。
そして、その人物から分離した後は、再び慧空としての感覚が甦りました。

◇一個の肉体に複数の意識存在が同居している可能性がある
夢の中で、その人物に私が一体化する前から、その人物は普通に活動していましたので、既に何らかの意識存在が入っていたのだろうと考えるのが妥当だと思います。
だとすると、私がその人物と一体化していた間は、その人物には複数の意識存在が入っていた可能性があると考えるのが妥当だろうと思います。
そして、これは現実世界においてもおそらく同じであり、私たちの肉体には複数の意識存在が入っている可能性があると思います。

ここで興味深く、かつ謎なのが、一つの肉体に複数の意識存在が入った場合、肉体のコントロール等の活動の主導権はどうなっているのだろうということです。
私は夢の中で、視点だけの存在のときも、他の人物と一体化しているときも、主体的な自我感覚(主導権)は自分にあったように思います。



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ツイート記事(20240905~)

2024年09月30日 11時54分02秒 | その他
◇ツイート記事(20240905~)◇

<9月5日>
◇今回の米騒動の関連
今回の米騒動は、裏で誰かが仕掛けたものだと考えています。
奴らがどこまで意図しているかはわかりませんが、今回の件はインフレと食糧危機の切っ掛けになるのではないかと考えています。
インフレは間違いないのではないかと考えています。
政府はカネを刷りまくり、市場に垂れ流しつづけてきてますから、インフレは必然であり、切っ掛けがあれば直ぐに起こります。
インフレが起きても、垂れ流したカネを吸い上げるのも無理ですし、金利を上げるのも無理ですから、どうしようもありません。
食料危機については、いずれ奴らが何か仕掛けてくるのではないかと考えています。
来年あたりか。

来年あたり国内が混乱するかもしれませんが、経済や人民統治が崩壊するのは、巨大地震でもない限り、日本が最初ではないと考えています。
主要国の中では、中国かアメリカが先で、その後、それが他の主要国に連鎖するのだと考えています。

<9月11日>
◇丁寧に生きる
私はブログで丁寧に生きてくださいなんて偉そうに書いていますが、自分はどうなんだろうと、今日ふっと我が身を振り返りました。
現在の私は日常生活では結構短気なところがあり、めんどくさがりで、結構雑というか荒っぽいところがあります^^;
ひょっとして、人には偉そうなことを言っておきながら、生き方も結構荒っぽいのかもしれないなぁと思ってしまいました。

それに、生き方の丁寧さってどう捉えたり、評価したらいいのかとも思い、難しい問題だなぁと思いました。
何か思い付いたら、また書くことにします。

<9月14日>
◇兵庫県知事の件と印象操作
兵庫県知事の辞職問題で騒がしくなっていますが、この件はおそらく奥があり、複雑な利害が影響しているのだろうと考えています。
実は私も、つい最近まで報道を殆ど鵜呑みにして兵庫県知事はしょうがいないヤツだと考えていました。
しかし、頑なに辞職をしない知事の様子や、核心的な情報が出てこない状況など、どうも不自然なところが多いなと思っていました。
そして、つい先日、ネットを見ていたらそれらしい裏側の情報が目に留まりました。

報道等では、知事はとんでもない問題人物とされていますが、おそらく真実は違っていて、
知事の言動にも問題は無いことは無かったのでしょうが、マスコミの印象操作が相当入っているのだろうと考えています。
知事はいくつかの利権問題の是正に取り組もうとしたいう情報があり、今回の騒動の根っ子はそこだろうと考えています。

で、何が一番言いたいのかと言うと、
マスコミ等による私たちの印象操作はかくも簡単に行われてしまうのだということです。
改めて、愕然とした次第です。

<9月16日>
◇心に刺さることを書きたい
私はこのブログを何年も熱心に書いているのですが、どうして書いているのかが自分でもよくわからいところがあるんです。
でも、やろうとしていることはそれなりにハッキリしていて、
一つは、悟り世界の地図のようなものを誰でもアクセスできるように、そして誰でもそれなりにわかるような形で開示することです。
もう一つは、心に刺さることを書きたいということです。
特に二つ目の心に刺さることを書きたいという気持ちは強いものがありまして、何をどう書いたらより心に刺さるのだろうと日々考えています。
この熱心さは何なんでしょうねw
人のことなんて放っておけばいいのに^^;
性分なのでしょうねぇ^^;

普通は一人で悟った人の多くはそのままひっそりと死んでいくのだと思うのです。
解脱に関する情報が文献等に殆ど残っていないのは、そういう理由もあるのではと思うのです。

最近、自分自身について気づいたことがありまして、
私はどうやら人が好きなようなのです。
むしろ、人が嫌いなのかと思っていたところがあるのですが、どうやら逆で、人が好きみたいなんです。
あと、動物や植物も好きみたいです。

その辺りのことも、私のこのブログ活動に関係しているのかなと思ったりもしています。

<9月17日>
◇骨折する
個人的なことなのですが、先週金曜日に農作業中に事故ってしまいまして、右足首の上を骨折してしまいました^^;
事故ったときに、足首からバリっと小さな音がした感じだったので、もしかしたら骨折もあるかと思って、今日になって、念のために病院に行ったのですが、見事に折れてました^^;
昨日は無理やりネギの土寄せ作業をしたのですが、痛いし、身体はしんどいしで、こりゃダメだと観念して医者に行くことにしました。
明日、総合病院に行ってCT撮って手術が必要かどうか診断してもらい、治療方法を決めることになります^^;
私としては、基本、手術はしない方針ですが、様子次第かなぁ。

農業の収穫作業が始まったところで、こんなことになってしまい、状況としてはかなり厳しい状況なのですが、
なってしまったものは仕方ない、出来ることをやっていくのみ、という具合に、とても落ち着いています。
普通の人とは大分違っているだと思います。

しかし、事故を起こした13日の金曜日は、身体が限界を超えるしんどさの中、無理やり作業を続けていたんです。
自分でも、今日はもう作業をやめた方がいいんだろうなぁと思いながら作業を続けていたんです。
そして、朦朧としながら力の強い管理機の作業を始めたところで、機械の操作を誤ってしまい、機械に脚を敷かれてしまいました。
限界だと思ったところで、作業を止めるべきでした。
少なくとも危険を伴うような機械作業は止めるべきでした。
反省しています。

<9月19日>
◇骨折の件の続き
一昨日、先週金曜に足を骨折したことを書きましたが、その続きを書いておきますね。
昨日、総合病院に行ってCTを撮って診てもらったのですが、骨折した部分が少しずれてしまっているので、やはり手術を勧められました。
でもよく話を聞いていると、手術無しでギブス固定して様子を見るという選択肢も無くは無さそうだったので、手術をしないでそのままギブス固定してもらうことにしました。
但し、様子観察して途中で骨折部分がさらにズレるようなら手術するという方針になっています^^;
医者は、手術無しでお願いしますと言うと、えっというような意外そうな顔をしていましたw

上手くすれば、4週間程でギブスが取れるとのことでした。

余談ですが、
骨を折った直ぐ後から、軽い吐き気のような気持ち悪さが断続的に続いています。
骨折すると吐き気がするというのは、中学の頃に骨折した友達が二人いて、彼らから聞いていました。
管理機に足を敷かれたときに、足首からバキッという音がしたし、その直ぐ後から軽い吐き気も続いていたので、医者に行く前から、ひょっとして骨が折れているかもと思っていました。
骨折しているのに、病院に行かずに無理やり農作業をやってみたりしていた自分が可笑しくなりますw
折れてないと思いたかったのだと思いますw
いつまで経っても、子供っぽいというか^^;

<9月20日>
◇中国天津のUFO事件?
足を折って暇なので、ネットばかり観てますw
それで改めて気づいたのですが、ここ最近はUFOっぽい映像ってネットにいくらでも溢れてるんですね。
普通の人たちがスマホで撮ってネットにどんどん上げている感じ。
ひと昔よりも目撃情報等が大分増えてるんだなと思います。
本当にそれらがUFOかどうかは、ハッキリしないんですけどねw

そんな中、見つけたつい最近の凄いUFO事件があるんです。
この前の9月11日、12日の夜に、中国の天津空港上空に複数のUFOらしきものが飛来し、1時間程留まったため、飛行場が使用不可になり、多数のフライトの遅延やキャンセルが発生したとのことなんです。
都市部での事件なので、映像も多数ネットに上がっています。
二つ程、リンクを貼っておきますので、興味のある方はどうぞ。

日本人ジャーナリストらしき人の報告動画 : リンク
アメリカ人(?)がアップした動画 : リンク

これですが、どうなんでしょうねぇ?
本当なら凄いニュースですが。
もし本物だとして、彼らの狙いは何なんでしょうね?

ところで、実は私もUFOに間違いないだろうというものを観たことがあるんです。
もう10年くらい前のことで、このブログに付設の掲示板にも書いたんですが。

でもアレですね、もしUFOなんだったら、ちょろっと姿を見せるだけなんてまどろっこしいことせずに、
新宿の都庁ビルの真上に、デカデカと姿を現すというくらいのことはやってほしいところです。
中途半端なんですよ!w

<9月26日>
◇ヒマ過ぎて(T_T)
足を骨折して動けず、ヒマ過ぎて困っております。
まだ骨が繋がってこないので、下手に動いて骨折部分がズレると手術しないといけなくなるとイヤなので。
ネット観るのもすっかり飽きたし
ブログ記事も、今のところ書きたいこと無いし

先日書いた仏教に欠けているもの(1)で、釈迦の経典類は読んだことが無いと言うと、
noteのコメント欄で南伝仏教の経典を読んでみたらと言われたので、ヒマだから、どんなものかとネットで調べました。
分厚い本で70巻もあることがわかりましたw
ヤフオクで中古本70巻まとめて46万円で売っていましたw

そんなんじゃ、読むのは無理なので、核心部分を抜き出したいい本はないかと考えています。
もしご存知の方がおられたら、教えていただけるとありがたいです。

<9月27日>
◇南伝仏典の件
昨日ヒマなので、ネットで少し調べていました。
多数ある仏典のうち、より核心的な部分が含まれた仏典を探して、それだけを読めたらいいと考え、それを探すために、
釈迦から始まる部派の特徴と系図を調べたりしていました。
調べ始めて直ぐにわかったのが、釈迦の死後、直ぐにめちゃくちゃになり、カオスになってしまっていることでした。
例えば、釈迦の死後直ぐに、一切有部という部派が有力となり、その後も強い影響を残しているのですが、これが全然ダメなのです。
「有部」という名前からして、ダメなのは直ぐにわかるのですが、それが悲しくなる程のポンコツぶりなのです。
超かいつまんでどうダメなのかと言うと、輪廻転生を説明しようとして、転生を超えて存在が続いていくための不滅の要素(彼らは、それを梵と言ったりするようです)を考えてしまうのです。
そういう訳で、南伝仏典を読もうとするのは、止めました。

◇私を捉えずに悟れるのか?
私(慧空)自身は、私を捉えた上で、無我(一切に実体が無い)を悟り、それに続いて苦を悟ったので、私を捉えずに、無我、苦を悟ることができるのかがよくわからないのです。
例えば、龍樹は無我を悟っていたのかも知れないのですが、彼はどのようにして無我を悟ったのだろう?

◇龍樹について
10年くらい前のことで大分忘れてしまっていましたが、龍樹については、中村元氏の確か「龍樹」という本を読んで、彼の理解がどういうものかは大体知っていたのです。
その龍樹に関する本も、読んだ後直ぐに捨ててしまったので、記憶もかなり薄れてしまっていました。
今日の夕方、龍樹の中論についてネットで調べていて思い出したのですが、彼は、哲学者であって覚者ではないと判断したのを思い出しました。
残念ながら、彼は、無我を悟ってないのです(こんなことハッキリ言っていいのかw)。

彼が無我を悟ってないことは、ハッキリしているんです。
彼は、釈迦が説いた縁起に基づいて、一切無自性であり、空であることを論証しているのです。
これでは、論証になってないのです。
本当に論証するのなら、論理展開の土台になっている縁起についてまず論証しておく必要がありますから。

しかし、縁起を論証することは本質的に不可能なのです。
ですから、無自性や空、無我についても論証することは不可能なのです。
これらは、そもそも論証の対象となるものではなく、悟るものなのです。

それがわかっていない彼は、空も、無自性も、縁起も、無我も悟ってないのです。

中論のその他の内容も、改めてネットでちらほらと拾い読みしましたが、根っ子のところがわかってないので、間違いも多いし、本質的に言及不可能(不可知)なことについて断定的に言ってしまっている部分もあり、少し見ただけであちこちにアラが見えます。
例えば、滅苦のこともそうで、彼は苦を滅することができると思い込んでしまっています。
解脱後のことも、解脱したら何も無くなると決めつけてしまっているようです。
その他、あちこちにアラはありあす。

<9月28日>
◇釈迦が縁起をどう捉えていたか
本日書いた記事で、龍樹が縁起について誤解していることを指摘し、釈迦も同様な誤解をしている可能性を指摘しました。
足を折って動けなくてヒマなので、そこのところをネットの限られた情報を当たってみました。
どうやら今となっては、釈迦が縁起をどう捉え、どう説いていたかは、よくわからないようですね。
釈迦のボロを見つけてやろうかと思ったのに、残念でしたw


<9月30日>
◇仏教について
一昨日、仏教が縁起をどう捉えているかを調べていたら、南伝系も大乗系もその殆どが(ほぼ全部か)、縁起を誤って捉えてしまっていることがわかり、その余りの悲惨さに、力が抜けたというか、愕然としています。
もちろん、仏教にもいいところはあるんです。
それは、無常無我苦です。
ここだけは、間違い無い。

しかし、その無常無我苦も、本当にそれを悟っていたものはどれくらいいたのか、大いに疑問を感じています。
なぜなら、他の多くの誤った概念や誤解が訂正されることなく、そのまま伝わってきていますから。
苦は悟らずとも、無常無我を悟れば、仏典中の縁起等の捉え方について誤解があることはわかるはずなのです。

仏教がボロだらけだということがわかってしまったので、
叩き甲斐がないというか、力が抜けたというか、
仏教についてどうでもよくなってしまいました。

◇10月下旬の選挙
間違いなく、いろいろと急いでいるようですね。
おそらく、裏で計画に基づく指令が出ているのだろうと思います。
イスラエルもやる気満々だし。
奴らの意図としては、まずは戦争させたいのかなぁと見ています。
その後に、世界を管理社会に移行させたいのだろうと考えています。

しかし、私はその計画は途中で頓挫し、コントロール不能となり、崩壊するだろうと見ています。
果たして、日本が戦争を始めるところまでもっていけるかどうか。
種々の理由で、無理なんじゃないかと考えています。
イスラエルやウクライナは、バリバリとやっていますが、日本はそう簡単じゃないだろうと考えています。


 
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
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龍樹は縁起を誤解している

2024年09月28日 08時26分16秒 | 悟り
◇龍樹は縁起を誤解している◇


この記事は、昨日の記事の補足です。
龍樹が縁起を間違って解釈しているので、そこを指摘しておこうと思い、書くことにしました。
この縁起の解釈を間違っているのは、龍樹だけでなく、ひょっとすると釈迦もそうなのかもしれないと考えています(しかし、私にはそこまで調べる程、興味がありません)。

私とは意識であり、世界そのものなのです。
その意識の展開を微細に見ると、映画フィルムのコマのように断続的に分かれており、その最小単位のコマがパッ、パッ、パッと連鎖的に連なり展開することで、意識の展開が起こっていることがわかります。
その意識の展開の最小単位のコマのことを、私は識と呼んでいます。
識と識の間の間隔は、私の体感で言いますと、短くて1000分の1秒から長くて10分の1秒程度です。
なお、識の展開は、意識の集中度を極限まで高めると、実際に体験することができます。

次に、識と縁起の関係についてです。
識は、一つ前の識が契機となって次の識が起こるという具合に連鎖的に連なって起こることが多いです。
つまり、全部についてではないすが、一部の識の連なりについては、前後の識の間に何らかの因果関係を持ち込むことは可能です。
言い換えれば、識の連なりについて、全部ではないが、一部については前後の識の間から何らかの因果関係を推測することは可能なのです。
例えば、車の運転をしていて、焼き肉屋の看板が目に入ったのを契機に、食べたいという食欲がわき、空腹感が生じ(あるいは、空腹感に気づき)、食べようと考え、車を操作して焼き肉屋に入る等の展開がそうです。

このように、識の前後において因果関係のようなものを推測できることがあるため、先人たちは、識の展開について縁起と呼ぶようになったのだと、私は考えています。
しかし、この縁起という呼び方は非常に危うく、誤解を呼びやすいのです。
起こっているのは、幻のような識の展開だけなのです。
識はただ起こって、消えていっているだけなのです。
識は、因果関係に基づいて起こっているのではないのす。
因果関係は、人が後から持ち込んだものなのです。

その証拠に、識と識の間には取り立てて因果関係という程の明確な関係性は無いのです。
確かに、上述したように識の一連の連なりの中に前後の識の間にそれなりの因果関係を推測できるケースがありますが、その場合でも、前後の識の間の関係は一義的に定まったものではなく、かなり不確定な部分が含まれていて、一つ前の識に対して次の識がどう転ぶかはサイコロを振るようなランダムな部分があるのです。
さらに、一連の流れとして識の展開が起こっているときは、不確定ながらも前後の識の間にそれなりの因果関係を当てはめることが可能ですが、識の展開はそのような一続きの流れのようなものばかりではないのです。
途中で、突然流れが変わってしまい、そのまま全く違う流れになってしまったり、識の内容がランダムにあちこち、飛び飛びになりながら、展開していくということも多々あります。
むしろ、後者のケースの方が多いかもしれません。
そのように、識の展開の流れが突然変わってしまうときなどは、識の前後において因果関係など全く無いのです。
例えば、何かをしているときに、急に別のことを思い付いたときなどがそうです。

このように、連鎖する識と識の間に因果関係があるというのは、百歩譲っても言い過ぎであり、誤りなのです。
識の連鎖は、因果関係に基づいて起こっているのではなく、ただ起こっているだけなのです。
一部の識の連鎖において、前後の識の間に因果関係があるかのように見えるだけなのです。

龍樹は、縁起に基づいて、一切無自生、続いて一切空を論証したとされています。
しかし、縁起の認定のところで大間違いをしているため、この論証は成り立っていないのです。
龍樹は、連鎖する識に着目するのではなく、識と識の間の関係性の方に着目し、そこに縁起があると誤認してしまったのです。
さらには、識はただ起こってきているだけなのに、識は縁起により起こっていると誤認してしまったのです。
着目すべきは、連鎖的に起こる一つ一つの識なのです。
この誤認は、龍樹だけでなく、釈迦もそうだったのかもしれないと考えています。


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龍樹は空を悟っていない

2024年09月27日 21時41分31秒 | 悟り
◇龍樹は空を悟っていない◇


龍樹の悟りはどういうものなのかと、ネットで中論を拾い読みをした結果、彼が悟っていない、少なくとも空を悟っていないことがわかりましたので、ここに書いてしまうことにしました。
もちろん、こんなことをぶっきらぼうに書くと、いろいろご意見やご批判はあるだろうと思います。
どのようなご批判もお受けしますので、遠慮なくコメント欄等にどうぞです。


彼は、釈迦が説いた縁起に基づいて、一切無自性であることを論証し、さらに一切空であることを論証しています。
しかし、これでは論証になってないのです。
なぜなら、縁起、無自性、空、無我の概念は、ほぼ同義といいますか、同列のものですから、論点を空から縁起にすり替えただけなのです。
本当に空について論証するのなら、論理展開の出発点になっている縁起についてまず論証しておく必要があるのです。
彼がどこまでそのことを自覚していたかは不明ですが、縁起は論証の必要のない正しいものとして論理展開の前提に置いてしまっているのです。

そもそものところ、縁起、無自性、空、無我は、証明しようとしても不可能であり、証明や論証の対象となるものではなく、悟るものなのです。
それがわかっていない彼は、空も、無自性も、縁起も、無我も悟ってないのです。

彼はおそらく、覚者というより、哲学者だったのだろうと思います。



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