私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

仏教に欠けているもの(1)

2024年09月06日 08時47分48秒 | 悟り
◇仏教に欠けているもの(1)◇


これまでは、このような直接的な言及は控えてきたのですが、考えが変わりまして、ダメなものはダメと言っていくことにしました。

仏教に欠けているものとは、解脱です。
(ご意見やご批判等はお受けしますので、コメント欄等ご遠慮なく。)

今となっては釈迦が解脱していたのかどうかもわからないのですが、現代に伝わる仏教の系統に、解脱が見受けられないため、始祖である釈迦は本当に解脱していたのかと疑いたくなります。
ハッキリ書いてしまうと、大乗の系統は龍樹も含めて、解脱者は一人もいないのではないかと見ています。
南伝の系統も、どうなんでしょう、解脱者がいるのかどうか、大いに疑問だと見ています。
アーチャン・チャーはひょっとすると解脱しているのかもと思ったりもしていますが、やっぱり違うのかなぁと見ています。

その理由は、仏教全体として苦に対する着眼が浅く、弱いのです。
大乗系は全くという程欠落しています。
南伝系も一部で薄っすらと残っているのかもしれませんが、大半の系統で欠落してしまっているのではないかと見てます。

この仏教の不甲斐なさの一番の原因は何か。
それは、私を捉えることの大切さをわかっていないのです。

実は、悟りの行程を歩む際、私を捉えることが最も大切な要になっているのです。
仏教はそれをわかっていないのです。
釈迦が何を語ったのか、実は殆ど知らないのですが、「私を捉えろ」等の話は聞いたことがありません。
(この点、もし釈迦が語っていたという文献があれば、教えていただきたいと思います。)

私とは、肉体も含めた私という存在そのもののことです。
もちろん、私には実体は無く、あるとも無いとも言えない、いくら追及しても本質的によくわからないものです。
しかし、この私こそが悟り行程の節目節目において要になっているのです。

例えば、小悟では私とは真我(観照意識、気づきの意識)であると悟るのですが、それなりに私を捉えていないと、この悟りは起こりません。
また、大悟では私とは意識であり、世界そのものであると悟るのですが、これも私を捉えていないと到達できません。
さらに、解脱では私、即ち世界とは苦であると悟るのですが、これも私を捉えていないと到達できません。

釈迦も含めて仏教は、私を捉えるという観点が余りに弱かった、あるいは欠落していたのです。
そのことは、釈迦が語った言葉にハッキリと表れています。
釈迦は無我という言葉を使いました。
一切に実体は無いという意味で無我という言葉を使ったようですが、文字を素直に読めば、自我が無いかのように読めてしまい、そのような誤解も生じてしまいます。
釈迦はどうしてそのような中途半端な言葉を使ったのか。
彼は私を捉えることの大切さを理解していなかったと考えざるを得ないのです。


<追記>
仏教に欠けている大変重要な要素がもう一つありましたので、後日続きを書くことにしました。



◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇自覚の要領をひとつにまとめた有料記事「自覚のヒント」のご案内はこちらです。
◇有料のスカイプ個人セッションのご案内は、こちらです。

コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

哲学・思想 ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ツイート記事(20240905~)

2024年09月05日 08時19分33秒 | その他
◇ツイート記事(20240905~)◇

<9月5日>
◇今回の米騒動の関連
今回の米騒動は、裏で誰かが仕掛けたものだと考えています。
奴らがどこまで意図しているかはわかりませんが、今回の件はインフレと食糧危機の切っ掛けになるのではないかと考えています。
インフレは間違いないのではないかと考えています。
政府はカネを刷りまくり、市場に垂れ流しつづけてきてますから、インフレは必然であり、切っ掛けがあれば直ぐに起こります。
インフレが起きても、垂れ流したカネを吸い上げるのも無理ですし、金利を上げるのも無理ですから、どうしようもありません。
食料危機については、いずれ奴らが何か仕掛けてくるのではないかと考えています。
来年あたりか。

来年あたり国内が混乱するかもしれませんが、経済や人民統治が崩壊するのは、巨大地震でもない限り、日本が最初ではないと考えています。
主要国の中では、中国かアメリカが先で、その後、それが他の主要国に連鎖するのだと考えています。


 
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇自覚の要領をひとつにまとめた有料記事「自覚のヒント」のご案内はこちらです。
◇有料のスカイプ個人セッションのご案内は、こちらです。

コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

哲学・思想 ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「禅系覚者の認識が止む」について

2024年09月04日 10時54分06秒 | 悟り
◇「禅系覚者の認識が止む」について◇


今日もまた、禅の悟りに対する批判記事を書きます。

彼らは、悟りは状態ではないなどと知ったようなことを言います。
悟りは状態ではないというは、確かにそうで合っています。
しかし、どこで習ったか知りませんが、彼らがそれを言うのは余りに滑稽なのです。

彼らは、自らの悟りを表して認識が止むなどということをよく言います。
認識が止むとは、それはまさに状態を表しているのですが、彼らは自らの言説の矛盾に気づきません。
少し違った概念ですが、「無認識」というのも状態を表すものです。
さらに違った概念ですが、「自我が落ちる」も状態を表すものです。

悟りはそのような手法では表現できないのです。
悟りは悟りで表現するしかないのです。
つまりは、何を悟ったかということです。

では、「認識が無い」や「私が無い」は状態ではないのではないかという意見が飛んで来そうです。
「認識が無い」や「私が無い」は、悟りの行程の中でよく生じる感覚です。
しかし、残念ながら、これらの悟りというか理解は、誤っているのです。
なぜなら、そもそものところ、一切のことがらについて有る無しの問題は断定不可能であり、「ある」とも「ない」とも言えないのです。
ですから、認識や私について、有るというのも間違いであり、無いというのも間違いなのです。
間違った理解によって悟るなどということは、あり得ないのです。

話を元に戻します。
彼らは「認識が止む」と言っておる訳ですが、そう言うからには、何らかの形で自らの認識が止んだということを考えたり、それに関連した認識(本人の誤認ですが)しているに違いないのです。
つまり、彼らの認識は依然として続いているのです。
彼らはそれに気づけないのです。

さらにです。
彼らに言いたいのは、「認識」というものをどのように捉えているのか、ということです。
「認識」というものの捉え方が余りに浅いのです。
鳥の声が聞こえるとか、目の前の景色が見えるとか、何かの思考が浮かんだとか何でもいいですが、そのように何かの現象が起こって来たとき、それらの現象を認識するという働きがどのように起こっているのかについて、彼らは追及が足りないのです。

答えを書いてしまうと、
現象とそれを認識する働きは、一体不可分に同時に生じているのです。
現象が起こっているのに、認識だけが止むなんてことはあり得ないのです。

彼らは、幾人もの偉大な先人の悟りが自分の悟りと合っているなどとたわけたことを言います。
挙句は、釈迦もそう言っているなどと言い出す始末です。
そんなこと何の頼りになりません。

釈迦も含めて、頼りになるものなど何処にも無いのです。
何かに頼ったり、安易に納得しようとぜず、徹底的に追及していただきたいと思います。
何かに頼っているうちはどうにもなりません。



◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇自覚の要領をひとつにまとめた有料記事「自覚のヒント」のご案内はこちらです。
◇有料のスカイプ個人セッションのご案内は、こちらです。

コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

哲学・思想 ブログランキングへ


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

悟りの本質について

2024年08月31日 11時01分29秒 | 悟り
◇悟りの本質について◇


最近になって、悟りについて、正確には悟りの捉え方についてまた理解が進みまして、今回はそれを記事にまとめてみたいと思います。

悟りと言うと、体験として大きな意識の変化が生じるので、どうしてもその体験や、意識がどう変化したか等に目を取られてしまいがちになります。
そして、多くの悟りを体験をした者は、自分の体験や意識の変化に基づいて、自らの悟りを語ります。
かくいう私自身もそうでした。
このブログに書いてきた悟りの体験談や悟りに関する文章は、悟りによって意識がどう変化したとか、どうなったか等が中心になっています。
これを振り返り、悟りを語るには私自身まだまだだったなと思う次第です。

端的に言えば、悟りの本質は何を悟ったかなのです。
どんな体験をしたとか、悟ってどうなったとかは、どうでもいいんです。
何を悟ったかが重要なのです。

核心部分について書く前に、少しお膳立てをしておきたいと思います。
そのお膳立てとは、悟りは階層的に捉えられるのか否かです。
多くの場合、悟りの行程は段階的に進んで行くので、一見すると悟りに階層構造があるように思われます。
しかし、改めてその階層構造について考えたとき、最後の解脱は非常に明確でハッキリしているのに対して、途中の節目については、どこをどう分けても、ぼやけてしまい、明確性に欠けるのです。
そのため、私は最近、悟りの行程は一続きのものとして捉えるべきであり、途中で分けるのは好ましくないのではないかと考えたりもしています。
そのような事情がありまして、今回の記事ではこれまで通り、悟りの行程を、小悟、大悟、解脱の三つに分けていますが、小悟、大悟については、明確なものではなく、それなりにぼんやりとしているものだと考えて頂きたいと思います。

では、悟りの本質について階層ごとに説明します。

小悟では、真我を悟るのです。
真我とは、ただ観ている意識である観照意識です(気づきの意識と言っていいです)。
私の本質として、観照意識を悟るのです。

大悟では、私とは意識であり、世界そのものであることを悟るのです。
少し補足すると、この段階で縁起を悟るケースもあると思います。
縁起を悟るとは、私、即ち世界は連鎖的に連なる識の連鎖であることを悟ることです。

解脱では、苦を悟るのです。
私、即ち世界は苦であることを悟るのです。

悟りの本質は、たったこれだけなのです。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇自覚の要領をひとつにまとめた有料記事「自覚のヒント」のご案内はこちらです。
◇有料のスカイプ個人セッションのご案内は、こちらです。

コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

哲学・思想 ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ツイート記事(20240805~)

2024年08月29日 14時51分06秒 | その他
◇ツイート記事(20240805~)◇

<8月5日>
◇素晴らしき二元世界

この世界は、良い悪い等のバリエーションのある二元の世界です。
そして、その中で振り子が振れるように、大きな時代の波や流れが起こっています。
例えば、欲望や物質面の追及と、利他性や調和の追及。
悪の色合いと、善の色合いなど。
欲望や物質面の追及は、否応なく悪の色合いを伴います。
ひょっとすると、今は丁度、欲望や物質面を追求する方向への振れが極まり、その逆側に振り子が振り始めようとしているときなのかも知れないと考えています。

みんなもう、今のこの世界の状況にうんざりしているでしょうから、利他性や調和を追求する展開がさぞ素晴らしいことかのように見えるのだろうと思います。
しかし、この世界は二元の世界ですから、すべてのことにプラス、マイナスの二面性があります。
一見良さそうに見える利他性や調和の追及にも、マイナス面の弊害は避けられないのです。
今世で利他性や調和の世界を体験していないので、具体的にどういう弊害があるのかを明確に言うことは少し難しいですが、少し智慧を働かせれば凡そわかります。
例えば、調和の進んだ世界は退屈でつまらないのです。
最後は、死ぬほど退屈になり、耐えられなくなるのです。
また、調和を重んずる余り、気軽さや自由さが損なわれ、相当な不自由さや煩わしさを感じるのだろうと思います。
大昔にレムリアという文明が本当にあったのなら、その文明の限界はそういうところにあったのだろうと考えています。

◇日本株の暴落の件
日銀の利上げが切っ掛けで、それに自動売買が過剰に連鎖反応したようですが、
個人的には、いつものように裏で黒幕の操作があるような気もしていて、見極めるのにはもう少し時間が必要なのかと考えています。
下げが余りに急激で大きいので、世界的な金融相場崩壊に繋がるリスクもあるのではないかと少しですが考えています。
基本的には世界経済の崩壊は、まだもう少し先ではないかと考えています。

<8月6日>
◇バングラデシュ大規模暴動
ここ数日、バングラデシュで大規模暴動が起こっていて、首相が辞任国外退去となり、政権崩壊しているようです。
軍が暫定政権を作ることを宣言したようですが、収まるのかどうか、不透明なようです。

スピ界隈では史上最大のライオンズゲートなんて言っていて、実は私も、太陽や環境のエネルギーが強いことは実感していて、丁度ライオンズゲートに入った7月末からフラフラの状態なんです。
エネルギー的にも、ちょっと普通じゃない感じ。

それと、株の大暴落。

ひょっとして、大変革の流れが始まったのかと思ったり、いやいやまだだろうと思ったり、正直なところ私も少し混乱しています。
個人的には、イスラエルとウクライナの国民が大規模暴動を起こさないかと期待しているのですが、どうなんでしょう。
あと、中国とアメリカの人たちも動き出さないかと期待しているのですが。

◇今回の暴落は仕掛けか
日本株が大幅反発していて、過去最大の上げ幅だとかw
裏で操作されているかのよう。

<8月7日>
◇タイムトラベル、パラレルワールドについて
私はタイムトラベル、パラレルワールドがどうも受け入れ難く、その考え方は間違っているのではないかと考えていました。
そして、それらの考えを否定できないかと、いろいろ考えを巡らせたりもしていました。
どうも上手く否定できないのです。
今朝早く目が覚めてしまって眠れなかったので、今朝も頭の中でそれをやっていました。
それで、わかったことがありまして、それをメモしておこうと思います。

結論から言いますと、タイムトラベルもパラレルワールドも、それが有るとも無いとも言えないのです。
なぜなら、一切のことがらは有るとも無いとも言えないからです。
一周回って、当たり前のことであるこの原点に返ってきました。

少し解説しますと、
現実と思念(考え)の間には本質的に違いは無いのです。
目の前の現実のことが有るとも無いとも言えないと同じように、どんな考えであっても、有るとも無いとも言えないのです。
現実と思念との違いについて、誤解を招くことを承知で敢えて言うと、重さのような確からしさと言った感覚的な違いだけなのだろうと思います。
種々の思念同士についても、そのような確からしさのような感覚的な違いがあります。

<8月8日>
◇物質から意識へ
今朝も眠れずにいろいろ考えを巡らせていました。
それで改めて思ったことがありまして、メモしておこうと思います。

ここ1万年くらいの私たちの営みは、物質的な要素に軸足を置いて活動してきたのだと思います。
個人個人の欲求に基づき、物(お金も含む)を獲得していくような展開。
そう言った展開の中、この世界の仕組みを理解する手法として、物理学も発達してきました。
物理学は、正に物の理を追求するものでした。
その反面、意識的な要素に関する追及は置いてけぼりとなり、むしろ失われていったのだろうと思います。

おそらく、今後は意識的な要素に関することが見直されていくのだろうと思います。
例えば、意識、特に意志の力やその活用の方法などが、注目されるようになるのではないかと思います。
ひょっとすると、意識の力について、集団的な何かロックのようなものがかかっている可能性もあるのではないかと考えています。

また何か思い付いたら、ここに書こうと思います。

<8月9日>
◇地震の件
昨日の地震に関連して注意報まで出て、東南海地震への注目が集まっていますね。
個人的には、起こってもおかしくない局面かと考えています。

◇運命と自由意志
最近、運命と自由意志との関係について考えてまして、
結論から言うと、いくら考えてもさっぱりわからないし、高次の存在と言われるものを含めて誰にもわかりっこないことなのですが。
最近の私の考えでは、各自の人生の大体の展開(どこでどう生まれて、大体のイベントとしてはどういうものがあって、どこでどのようにして死ぬのか)について、意外な程多くのことが予め決まっている可能性があるのかもと考えています。
そして、私たちはそれを自ら選択して納得の上で生まれてきている可能性があると考えています。

そう考える理由は、いくつかあります。
例えば、例のワクチン注射です。
民衆や為政者らのコ〇〇に対する過剰な反応の様子、副作用のリスクの検証等が不十分のまま不自然かつ強行、脅迫的に行われた注射の様子、その後の注射による副作用症例の多発が明らかであるのにそこに目を向けようとしない民衆と為政者らの様子が、外から見ていると余りに不自然で違和感を感じるのです。
しかし、為政者側も民衆も、その不自然さに全く違和感を感じることがなく、まるで自ら目を塞いでいるかのようです。
そのような様子を見ていると、為政者側には人衆に注射を射たせるという自ら納得した運命があり、それとセットとして、民衆側には注射を射つという自ら納得した運命があるのかと考えてしまう訳です。

世界経済についても同様です。
今の世界経済や社会の状況は、客観的かつ合理的に見れば既に崩壊しているのは明らかであり、後はそれが崩壊する切っ掛けを待つだけの状況なのですが、なぜかそこに目を向けようとしません。
おそらくそう近い将来、現在の世界経済や社会構造は崩壊し、インフラの崩壊や食糧難により、都市部を中心にパニック的な状況となる可能性あります。
しかし、為政者も民衆もその大半は、それが自らが納得した運命であるかのように、そのパニック的な状況にまともに呑み込まれていくのだと思います。

地震のリスクについても同様です。
巨大地震はいつ起きても不思議でない状況であるのに、人々は沿岸部に住み続け、高層マンションへの入居に余念がありません。
巨大地震によるパニック的な状況が、自ら納得した運命であるかのようです。

運命と自由意志との関係について。
では、どこに自由意志による選択の余地があるのか。
一つは、ひょっとすると生まれる前に人生の設定を自由意志により選択する余地があるのかもしれないと考えています。
生また後は、人生の大枠の設定の範囲内で、細々としたところで自由意志による選択の余地があるのかもしれいと考えています。

◇意識の統合と悟り

今朝眠れない中、もう一つ考えていたことがありまして、
それは、悟りを意識の統合という観点から見るとどうなんだろうということでした。
それを少しメモしておきたいと思います。

悟り(覚醒)の行程を、意識の統合の行程として見ることができるようなのです。
私は、悟りという現象は、良い悪い等の二元的要素が顕在化している二元世界、その中でも最も重い物質的な世界で生きる中でしか起こらない可能性があると考えているのですが、
この見方はそれに対するヒントを与えてくれているような気がしています。

意識には、低次から高次までの意識要素が階層状にあり、悟りとは各階層の意識要素を統合していく行程として捉えることができるのではないかという仮説を立て、思索中です。
元々、高次、低次という概念はないのですが、おそらく最初に出来た、あるいは最初に意識の表面に顕在化したのが高次の要素だったのではないかと考えています。
最初の段階には、二つの可能性があるのではないかと考えています。
一つ目は、最初の状態から高次から低次までのすべての意識要素が出来上がっているのだけど、意識の表面に顕在化しているのは高次の要素だったという可能性です。
二つ目は、最初の状態は高次の意識要素のみがあって、それよりも低次の意識要素はまだ無いのか、あるいとしても空っぽの枠組みだけだったという可能性です。
私は、今のところ、二つ目の可能性が高いのではないかと考えています。

そして、途方も無い意識の営みの中で、少しずつ高次からより低次の意識要素が出来上がり、それが意識表面に顕在化していったのではないかと考えています。
この地球は、二元世界、それも物質優位の世界であり、意識階層の最も低次(最深度)にある可能性があると考えています。

さらなる仮説として、
私は、悟り、すなわち意識の統合は、意識階層の最低次の意識要素を基礎としてなされる必要があるのではないかと考えています。
私は、意識の営みの過程は、自我の発生、成長、成熟の過程として捉えることができると考えています。
最も自我が成長、成熟するのは、おそらくこの地球のような物質世界なのだろうと思うのです(これはほぼ確信があります)。
このようなことから、悟りは、その成長、成熟した自我をコアとし、その自我により高次の意識要素を統合していく過程として捉えられるのではないかと考えています。

まとめると、次のような仮説みたいなものを考えています。
意識が発生してから、その営みにより複雑化していくのに伴い、段階的に高次から低次の意識要素が意識の表面に顕在化していき、凡そ全ての階層において経験により意識の要素がそれなりに満たされてきたところで、そう仕上げとして、最低次の意識階層に相当するこの二元世界、特に物質世界での経験をさらにこなすことになる。
そして、成熟というか、自我の完成というか、本人の納得がいったところで、悟りの行程に入っていくこととなり、その成長、成熟した自我をコアとし、その自我により高次の意識要素を統合していくことで、悟りの行程を進んでいく。

例えば、小悟は、ただ観ている意識である観照意識(真我と言ってもいいです)と自我の統合として捉えることができ、
大悟は、主体的意識(自我)と客体的意識の統合として捉えることができます。

解脱はどうか。
解脱のところがまだ考えがハッキリしていないというか、まとまっていません。
もう少し考えてみたいと思います。
続きはまた書きます。

<8月13日>
◇タイムトラベルとパラレルワールドの件
これらについて、また昨晩考えていました。
それで、ある程度の結論に至りましたのでメモしておきます。

まず、タイムトラベルについて。
結論としては、どのような考えも完全に否定することは不可能なのですが、
1+1が2であり、3にはならない程度の確からしさであり得ないという結論に至りました。
理由はいくつかあるのですが、一番わかりやすい理由は、タイムトラベルにより過去に行けるとすると、
過去に行くことによる影響により過去が変わってしまうことになるからです。
極端な例を挙げると、タイムワープが可能なら、1時間前にタイムワープして自分を殺すことも可能なはずですが、
そのようなことは余りにナンセンスであり、あり得ないのです。

世間に出回っているタイムトラベルに関する話は、全てあるいは大半が作り話でしょう。
もし当人がタイムトラベルをしたと本当に考えているとしたら、この現実世界と関連する未来又は過去へ行ってきたのではなく、4次元世界(夢の世界や死後の世界等)のどこかにアクセスしてしまい、それをタイムトラベルしたと思い込んでいるのだろうと思います。

パラレルワールドについて。
まずこの現実世界の成り立ちについて、この現実世界は、私たちの目の前にある瞬間の世界一つだけなのです。
そして、毎瞬ごとにパラパラ漫画のように世界が順番に現れることで世界が展開していっています。
仮に他の平行世界が存在しているとしても、それを認識する手段がありません。
なぜなら、私たちの認識そのものが毎瞬毎に現れるこの一つだけの現実世界なのですから、別の平行世界があったとしても認識できないのです。
認識できない平行世界について、それがあるとか、ないとか言及するのはおかしな話であり、あり得ないのです。
ですから、パラレルワールドがあるとか、パラレルワールドに行ってきたなどと言っている人は、全てあるいは大半が作り話です。
もし当人がパラレルワールドに行ってきたと本当に考えているとしたら、4次元世界(夢の世界や死後の世界等)のどこかにアクセスしてしまい、それをパラレルワールドに行ってきたと思い込んでいるのだろうと思います。

<8月14日>
◇二元世界の法則
最近チラッと観た動画に、社会の〇〇パーセントが悪となると浄化システムが発動するようになっているというものがありました。
これについて、私は一理あるなぁと思いました。
ここは二元の世界ですから、善悪、戦争と平和、貧富、混乱と秩序など、二元的な偏りがある臨界を超えると、自ずと崩壊し、逆側へ向けた流れが生じるという法則のようなものがあるのではないかと考えています(本当にそういうものがあるのかどうかは、誰にもわからないことですが)。

もうお終いにしませんか?

<8月18日>
◇自覚という手法はどこから
いくら考えてもわからないことでしょうが、自覚は誰がどこで考えたものなのかを考えることがあります。
私は自覚をマスターゲート氏から教わったのですが、自覚は彼が考えたものではないだろうと考えています。
彼はチャネラーですから、チャネリングで降りてきた情報なのだろうと考えています。
そう考える理由はいくつかあるのですが、最大の理由は、彼は自覚を教えているくせにその本質を知らないからです。
また、彼自身、自覚が実践できているかと言うと、見事な程全く出来ていないのです。
その様子から、チャネリングソースから教えてもらったことをそのまま伝えているに過ぎないだろうと考えています。

もちろん、私(慧空)が考えたものでもありません。
ですが、ひょっとすると私は前世で自覚を知っていた可能性があると考えています。
そう考える最大の理由は、自覚を始めて2、3週間で自覚に関するゲート氏の見識を超えてしまい、その後の数週間で自覚の本質を理解してしまったからです。

これは今まで書かずにいたことですが、書くことにしました。
自己顕示欲でしょうかw

余談ですが、自覚とゲート氏のようなことは他でも多々あるようです。
例えば、ディマティーニメソッドがそれです。
ディマティーニメソッドはチャネリングで突然降ってきたと、ディマティーニ氏本人が語っています。
ディマティーニメソッドは、ハートを開く、あるいはニュートラルを悟る手法として本当に素晴らしい手法なのですが、本人はその手法のほんの表面しか理解できておらず、また実践も伴っていないのです。

<8月23日>
◇月の人工説の件
以前のツイート記事で、月が誰かが作ったものである可能性があることを書きました。
改めて考えてみると、月は余りにも不自然かつ奇妙なのです。
例えば、月は地球に常に同じ面を向けて回っていますが、自然にそうなるなんてことはあり得ないのです。
そうなるためには、月の自転軸と公転軸が完全に平行になっていて、かつ、自転周期と公転周期が完全に一致している必要があるのですが、自然にそうなるなんてことはあり得ないのです。
おまけに、月の見かけの大きさ(地球表面から月を見たときの大きさ)と、太陽の見かけの大きさがピッタリ一致しているのですが、これも余りに不自然です。

それで、私は最近、月は誰かが作って地球の軌道上に置いたものだろうと結論しました。

<8月29日>
◇タイでベーシックインカム導入?
私はさっき知ったのですが、タイでBI(ベーシックインカム)もどきの制度が始まるようです。
この8月から準備が始まっていて、10月から支給が始まるとのこと。
年収が84万バーツ(約347万円)、貯蓄が50万バーツ(約207万円)を超えていないことを条件に、希望者全員に支給されるようです。
国民6600万人のうちの5000万人が対象とのこと。
支給されるのは、デジタル通貨で、居住地域内でのみ使用可能であり、使わなければ支給から6ケ月で失効するとのこと。

タイはデジタル管理社会の実験国家にされたようですね。
大きな国でぶっつけ本番でやるのは、さすがに怖かったのでしょうね。

ちなみに、私は、ベーシックインカムというシステムを安定的に運用するのは不可能だろうと見てます。
そう考える理由は、税収の総額と支給する支給総額とのバランスが取れず、支給総額の方が過大となると見ています。
総支給額の不足分を補うために、通貨発行を増やすことになり、その結果、ハイパーインフレを招き、破綻すると見てます。


 
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇自覚の要領をひとつにまとめた有料記事「自覚のヒント」のご案内はこちらです。
◇有料のスカイプ個人セッションのご案内は、こちらです。

コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

哲学・思想 ブログランキングへ
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仏教における苦をめぐる誤りについて

2024年08月28日 13時31分44秒 | エッセイ
◇仏教における苦をめぐる誤りについて◇


今回は、仏教における苦をめぐる誤りについて書いてみようと思います。

大乗、上座部を含む大半の系統において、苦を滅することができると考えられているようです。
しかし、これは大きな間違いなのです。
私という存在そのもの、この世界そのものが苦なのです。
私とは連鎖的に連なる識の連鎖であり、その一つ一つの識が苦なのです。
ですから、苦を滅するなんてことは不可能なのです。

釈迦は一切皆苦を言ったようです。
一切皆苦と言えば、一切すべてが苦なのです。
それがどうして苦が滅するという話になったのか。

次に、渇愛と苦の関係についてです。
仏教では、渇愛によって苦が生じるという考えがあるようです。
そして、悟りにより渇愛を停止させ、それによって苦を滅することができるという考えがあるようです。

このような考えも間違いなのです。
正しくは、苦が根本なのです。
渇愛によって苦が生じるのではなく、渇愛それ自体が既に苦なのであり、苦の連鎖によりさらなる苦が派生しているのです。
また、私という存在がある限り、渇愛という苦が滅することもありません。



◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇自覚の要領をひとつにまとめた有料記事「自覚のヒント」のご案内はこちらです。
◇有料のスカイプ個人セッションのご案内は、こちらです。

コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

哲学・思想 ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

無常無我苦と私

2024年08月26日 14時15分10秒 | 悟り
◇無常無我苦と私◇


つい最近、無常無我苦は私のことを言っているのだと改めて納得したところがありまして、記事にしてみようと思います。

悟りの捉え方は種々ありますが、悟りとは私を知っていくことだと言うこともできます。
その過程で、無常無我苦に関する理解が自ずと進んでいきます。
重要なのは、無常無我苦が私というものの別のところにあるのではなく、私そのものを言っているのだというところです。

私という存在は、意識であり、この世界そのものであり、微細に見ると映画フィルムのコマのようにパッパッパッと連鎖的に連なる識です。
そして、この識の連鎖のことを縁起と言います。
このような私と、無常無我苦の関係について説明してみたいと思います。

まず、無常無我苦についてのおさらいから。
無常とは、ものごとは常に移り変わっていくものであるということです。
無我とは、一切のことがらに実体(あるいは絶対)が無いということです。
苦とは、一切のことがらは苦であるということです。

早い話が、私、即ち世界とは連鎖的に連なる識であるということが腑に落ちてしまえば、連鎖的に生滅する識は幻のようなものですから、無常と無我についての理解は自ずと伴って来るのです。
これはシンプルで明白なことなんです。

無常、無我と識の連鎖と関係について、念のために簡単に説明しますと。
識は留まることなく、次々と連鎖的に展開していきますから、識、即ち無常となる訳です。
また、識は幻の如く生滅を繰り返しますから、識、即ち無我となる訳です。

無常、無我に関する理解がややこしくなるのは、悟らずとも日常的な考え方の範疇でそれらの考え方に触れられるからだろうと思います。
このため、誤解が生じたり、わかった気になってしまいやすいのです。

次に、苦についてですが、これがやっかいなのです。
苦はある意味、無常、無我よりも日常的な概念や感覚としてそれに触れられるものです。
このため、無常、無我よりもさらに誤解が生じやすく、わかった気にもなりやすいのです。

しかし、苦は無常、無我よりもさらに深淵なのです。
なぜなら、識の連鎖である縁起を悟ってもなお、苦の理解には届かないからです。


苦についてどう説明しようかと考えていたのですが、途方に暮れてしまいました。
端的に言えば、私、即ちこの世界そのものが苦なのです。
連鎖する識の一つ、一つが苦なのです。
これをなんと説明したらよいのか、残念ながら私(慧空)には言葉がありません。
説明のための何かよい言葉を思い付いたら、書きたいと思います。
尻切れトンボですが、今回はここまでとします。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇自覚の要領をひとつにまとめた有料記事「自覚のヒント」のご案内はこちらです。
◇有料のスカイプ個人セッションのご案内は、こちらです。

コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

哲学・思想 ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

根本苦と衝動

2024年08月18日 10時32分54秒 | 悟り
◇根本苦と衝動◇


私という存在は、苦そのものです。
根本苦とは、存在の根のようにしてある苦のことをそう言っています。

私という存在の深層には、その根本苦を何とかしようとして激しく振動するもがくような衝動があります。
そして、その根本苦に対する衝動が、私という存在に生じる様々な衝動の震源となっています。
例えば、何かをどうにかしようとする恐れ、何かを得ようする欲、何かを握り締める執着、何かを求め徨う期待などです。
このような衝動は、ジャングルジムのように相互に関係し合いながら階層構造をなしています。

根本苦は、私の意識を外へ向けさせ、外側へ展開させるよう作用します。
苦しみにより藁にすがるよにして、考えを掴むのです。
考えを掴むと、意識がその考えに向くため、根本苦の苦しみが表面的には緩和されるのです。
深層では考えを掴むことにより、苦しさが増すのですが、それには気づきません。
一つ考えを掴むと、さらなる考えを求めて意識は外側へさらに彷徨い出します。
そして、次々と別の考えを連鎖的に掴んでいきます。
掴める考えの数は限界があるのですが、その限界まで考えを掴みます。

ここまでは前置きで、本題はここからです。

言いたいのは、根本苦は意識を外側に向けさせるということです。
そして、一つでも考えを掴んでしまうと、意識がさらに外側に向いてしまうということです。
一つでも考えを握っていると、根本苦に向き合うことができないのです。

では、握っている考えを手放すのはどうしたらよいのか。
私のブログではそれには自覚が有効ですなどと書いたりしていますが、正直なところ、自覚だけで手放すのは困難なのかも知れないと考えています。
本筋的には、納得するまでその状態を経験するしかないのかもしれないと考えています。
そうするとやっぱり、本心と向き合って生きることが大切なのかと考える次第です。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇自覚の要領をひとつにまとめた有料記事「自覚のヒント」のご案内はこちらです。
◇有料のスカイプ個人セッションのご案内は、こちらです。

コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

哲学・思想 ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

功徳と悪徳

2024年08月16日 09時07分01秒 | エッセイ
◇功徳と悪徳◇


存在の成長には功徳を積むことが大事であるという類のことがよく言われますが、実はこれは誤りなのです。
功徳はむしろどうでもよいくらいのことで、重要なのは悪事を行わないことなのです。
一つでも悪事を行ってしまうと、いくら善い行いをしても帳消しになることはありません。
一点の汚点が取り返しの付かないことになることもあります。
この世界、即ち私という存在はそのように出来ていると私は考えています。

それはどうしてなのか、少し説明します。
善い悪い等の概念は二元的な囚われですので、本来そのような基準はありません。
ですから、行いが誰かに評価されたり、裁かれることもありません。

ではなぜ、悪行はいけないのか。
私は、人として生まれてくる存在は、本性(本心と言ってもいいです)として善的志向を持っていると考えています。
誰しも、根の部分では人に迷惑を掛けたくはないし、傷つけたくはないのです。
できることなら、善いことをしたいのです。
どんなに悪事を重ねているような者でも、根の部分ではそうなのです。

ですから、本心に背いて悪事を働くと、根の部分で自分が自分を許せず、自責、後悔により、深く苦しむことになるのです。
そして、それは後の世に影響し、何世も苦しむことになるのです。

私たち個々の世は、過去世で蓄積された印象(業と言ってもいいです)が大きく影響していると私は考えています。
この印象は、善いことをしたときは殆ど残らないくらい薄いのに対し、本心に背いて悪事を働いてしまったときは深くしっかりと残ってしまうのです。
このため、いくら善行を重ねても、悪事を帳消しにすることはできないし、たった一つの悪事が大変な傷として残ってしまうのです。

ですから、私たちは自らの本心に向き合い、慎重かつ丁寧で生きる必要があるのです。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇自覚の要領をひとつにまとめた有料記事「自覚のヒント」のご案内はこちらです。
◇有料のスカイプ個人セッションのご案内は、こちらです。

コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

哲学・思想 ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

囚われと苦

2024年08月04日 15時18分01秒 | 悟り
◇囚われと苦◇


握り締めた考えを囚われと言います。
囚われとは、典型的にはこうあるべき、あああるべき、これはダメ、あれはダメ等ですが、表面的なものだと、お金は大事、女がいないとダメ、男がいないとダメ、ポスト(地位)がないとダメ等もこれに含まれます。

どうしてそのような考えを握り締め、手放せないのでしょう。

そこには、恐れという苦があります。
何の頼りもなく、考えの海に浮かぶのは耐えられないのです。
溺れる者は藁にもすがるという訳です。

考えを握り締めると、その考えに囚われるため、さらに苦しくなります。
しかし、考えを握り締めると、それが思考の前提として取り込まれ、あるいは潜在化され、自分が考えを握り締めていることに気付くのが困難になります。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇自覚の要領をひとつにまとめた有料記事「自覚のヒント」のご案内はこちらです。
◇有料のスカイプ個人セッションのご案内は、こちらです。

コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

哲学・思想 ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする