私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

滅尽定と入滅とその関連(1)

2024年02月10日 11時11分30秒 | エッセイ
◇滅尽定と入滅とその関連(1)◇


首記のテーマについて、思い付くことを書いてみたいと思います。

死んだとき、できればもう終わりにしたい、これ以上はやりたくないという想いがありまして、入滅という現象の有無や可否について興味があります。
これ以上はもうどうすることもできないので、後はなるようになっていくだけなのはわかっているのですが、やっぱり興味があります。

ちなみに、ここで問題としているのは、死んだときに、そこで存在が終わって一切が消えるのか、それとも存在の展開が続いていくのかということです。
予め書いておきますと、結論は残念な程ハッキリしていて、いくら考えても死んだときにどうなるかは決してわからないのです。
どんなに悟っていても、またどんな能力を持っていても、死んだときにどうなるかは決して誰にもわからない。
知ったようにいろいろ言う人がいたり、それらしいことを書いた文献があったりもするようですが、そんなものは当てになりません。
ここでは、それを承知しながら、書いてみたいと思います。

私は、悟りに伴った意識の変化の様子と、滅尽定という現象が少し手掛かりになるかも知れないと考えています。
滅尽定とは、禅定の最深度であり、意識の展開が完全に停止した状態のことです。
涅槃と言ったりもします。

人が握り締めた囚われと悟りには相関があります。
囚われが減ると、自ずと悟りの行程に入り、囚われの減少に伴って悟りも進んでいきます。
また、囚われの量と意識の活動の様子にも相関があります。
囚われが多い程、それに関連した思考も多くなり、意識の活動も活発になります。

多くの方々は多数の囚われを握り締めており、しかもそれらの囚われがジャングルジムのように複雑に絡み合い、起こってきた現象に対して、絡み合った多数の囚われが複雑に反応を起こし、数えきれない程の思考を生じさせます。
意識の状態も活発で、忙しく常に思考を発生させているような状態です。
それが、二元の囚われが落ちる小悟階層に入る程度まで囚われが減ってくると、現象に反応する囚われが大きく減りますから、思考も急激に減っていき、意識の状態も落ち着いてきます。

すると、思考の発生が減ることにより、意識の活動に隙間が発生するようになります。
あるいは、意識の活動に発生する隙間に気づくようになる。
この隙間とは、本当に何もない完全な無であり、滅尽定の一種です。
この意識の活動の隙間である滅尽定は、0.1秒未満の非常に短いものから、おそらく軽く1分を超えるような長いものまであり、種々の長さで生じます。

私はこの滅尽定に着目しており、解脱者が死んだとき、滅尽定の状態になり、それがずーっと続く可能性があるのではないかと考えています。


あと、別の角度からもう少し書きたいと考えているのですが、どうもまとまりそうにないので、今回はここで一旦終わりとします。
できれば、囚われと種(業)の関連について書きたいと思っています。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇自覚の要領をひとつにまとめた有料記事「自覚のヒント」のご案内はこちらです。
◇有料のスカイプ個人セッションのご案内は、こちらです。

コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

哲学・思想 ブログランキングへ
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教団と悟り

2024年01月08日 08時54分26秒 | エッセイ
◇教団と悟り◇


ツイッター記事で軽く書こうかと思って書き始めたのですが、単独記事として書くことにしました。
これは、仏教系を含めた方々に対する批判です。


教団内にいて深い悟り、特に解脱が生じ得るものなのかについて、私は非常に困難だろうと考えています。
無理と言ってもいいのではないかと考えています。
主に仏教系の教団を念頭に言っています。
大乗だけでなく、上座部も含めての話です。

それはなぜかと言いますと。
第一に、教団に対する依存があるはずであり、それが邪魔になります。
教団に守られ、依存している状態でやれるほど甘いものではない。

第二に、教団に属するような方は、釈迦に対することを含め、仏典や先人の言動を含めた教団の伝統に関する囚われが強すぎるのです。
それらをフラットに見れず、信じ込んでしまったり、頼ってしまうのです。
教団の教えが合っているという根拠など何処にも無いのにです。


と、ここで私が何を言っても無駄でしょうが。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇自覚の要領をひとつにまとめた有料記事「自覚のヒント」のご案内はこちらです。
◇有料のスカイプ個人セッションのご案内は、こちらです。

コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

哲学・思想 ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夢、現実、転生

2024年01月07日 10時26分41秒 | エッセイ
◇夢、現実、転生◇


首記のテーマについて、とりとめのない文章を書いてみようと思います。
おそらく、上手くまとまらず、何が言いたいのかわかりにくい内容になりそうですが、取り敢えず書いてみます。

最近、自分の夢を観察していてよく思うことがあります。
それは、夢の中の私の人格特性における表面的な部分は夢によって多少の変化がありますが(行動的だったり、人前に出ていくタイプだったり、その反対だったり等)、コアの部分はどの夢の中でも同じだし、この現実世界の私とも同じだということです。
基本的にお人好しで、真面目なんです。
でも、芯の部分はこうだという譲れない部分がしっかりあって、そこはとても骨っぽいんです。

ここで一つ思ったことありまして。
それは、私の人格特性のコアの部分は、現実と夢だけではなく、転生に関しても継続していくのではないかと思ったのです。
但し、そのコアの部分も経験や精神の成長に伴って少しずつ変化していくのではないかと。

さらに話を続けます。
それと私は、身体が無く、存在だけ(魂だけ?)になっている夢をちょくちょく見るんです。
存在だけになっているときは、空間にポツンの自分の視点というか意識があって、そこからうつろ気な意識で世界を観ているのです。
それでも、思考もある程度は働いていて、観たものについてああだこうだと考えたり、空間中で自分の位置を移動させたりできるのです。
この存在だけのときも、人格のようなものがあるようなのです。

それで、少しピンと来たのです。
夢の中で身体が無く存在だけになっているときは、人格特性についてはコアの部分だけになっているのではないか思ったのです。

但し、存在だけになっているときは、身体があるときと比べて、自分に関する意識や感覚がかなりぼんやりとしていて薄いのです。
この現実世界の自分のような明確かつ詳細な記憶等も無いのです。
夢の中で、存在だけになっている状態から、その近くに居た人(知らない中年男性)の身体に入って同化した状態になり、さらにその身体の外に出て存在だけの状態に戻ったことがあるのですが、身体に入って同化しているときはハッキリと自分に関する意識や感覚があるのですが、存在だけになるとそれらが急に希薄になるのです。
記憶等に関しても、存在だけのときはハッキリとした記憶のようなものが無いのに、身体に入った瞬間、その身体に基づく記憶がハッキリとあるようなり、身体から出ると直ぐにその記憶が無くなるのです。

何が言いたいのかと言いますと、私という存在には、身体がある状態と、身体が無い状態とがありそうなのです。
少なくとも、夢の中ではそのようです。
死後の世界はどうなんでしょうね。
おそらく、死後の世界も夢の世界の延長線みたいなものなのではないかとは思いますが、こればかりは死んでみないとわかりませんw

この関連については、また角度を変えて書いてみたいと考えています。
意識の発生、涅槃や解脱も含めて考えると謎が深まるばかりですが、私たちが全く触れられないということはなく、ある程度は触れる余地もあり、知り得る部分もあると考えています。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇自覚の要領をひとつにまとめた有料記事「自覚のヒント」のご案内はこちらです。
◇有料のスカイプ個人セッションのご案内は、こちらです。

コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

哲学・思想 ブログランキングへ
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

根源的な二つの謎(2)ー認識論の観点からー◇

2024年01月02日 13時38分32秒 | エッセイ
◇根源的な二つの謎(2)ー認識論の観点からー◇

前回記事の続きです。
私は、私自身を含めたこの世界の謎は根源的に次の二つに集約されると考えています。
一つは、この世界(宇宙と言ってもいいです)とは何なのか、なぜあるのかです。
もう一つは、私とは何なのか、なぜあるのかです。

一つ目の世界に関する謎は、自然現象に着目し、それは何なのかという問いを追求していけば必然的に突き当たるものです。
これに対し、二つ目の私に関する謎は、着目されにくく、捉えるのも難しく、余り問題として挙がりにくいものです。
唯物論の方々は、私という意識は物質的な自然現象として説明できるはずであり、根本的な謎ではないと捉えていると思います。
この点に関し、私は、私という意識は物質的な自然現象の上に成り立っているものではなく、物質的な自然現象として説明するのはまず不可能だと考えています。
わかりやすく言えば、これはコンピュータ技術により人レベルの意識を作れるか否かの話でして、私は作れないと考えています。
意識とは、人の技術で作り出せるようなものではないと強く思うのです。

こんな議論をしていると、唯物論やその反対側の方々から、根本的な謎が二つあるというのは、絶対違う、到底受け入れ難いという声が聞こえてきそうです。
その気持ちは私にもよくわかります。
何か気持ち悪いのです。
明確な理由がある訳ではありませんが、私も根本的な謎や命題は一つであるべきのような気がするのです。

ここからは、認識論の話になっていきます。
私たちは通常、目の前の物(例えばリンゴ)を見たとき、そのリンゴがそこに絶対的な物としてあると考えます。
しかし、よくよく考えると、リンゴが物質としてそこに存在しているという根拠は何処にもないのです。
むしろ、リンゴという物質があるというのは私たちの錯覚で、あるのはリンゴに関する私たちの認識だけなのかも知れないのです。

さらに、リンゴを見たとき、私たちは通常、そのリンゴ(対象物)とそれを見ている自分自身(認識者)とは別のものであると考えます。
この対象物と認識者が別ものであるという感覚は、至極当たり前のものではあるのですが、実はこれは私たちの錯覚によるものである可能性があるのです。
どういうことかと言いますと、何かを認識するという現象について突き詰めて考えていくと、認識の対象物と認識の主体(認識者)とを独立した別のものとして捉えなれなくなるのです。

もう少し具体的に説明するために、あなたがリンゴを見た瞬間に着目します。
リンゴを見た瞬間、そこには目に入ったリンゴに関する映像とそれに対する認識のみが存在し(なお、この映像とそれに対する認識は同時かつ一体のものです)、あなた自身に関するそれ以外の反応や認識は無いはずです。
あなた自身に関する肉体のことや、リンゴを見たことによって生じる反応に関する認識が生じるのは、リンゴを見た瞬間ではなく、それ以降のステップのことです。
つまり、リンゴを見た瞬間において、そこにはリンゴに関する認識のみがあり、対象となるリンゴとそれを見ている主体であるあなたとの区別は成り立たないのです。

まずはリンゴを見た瞬間にフォーカスして、主客の区別が成り立たないことを説明しましたが、リンゴを見た瞬間以降に生じる展開についても、同じことなのです。
我々の認識という現象は、連続して起こっているように感じますが、それは錯覚で、よく観察すると連続したものではなく、映画フィルムのコマの展開のように微小時間ステップ毎に切れていて、それがパッ、パッ、パッと連鎖的に連なって生じています。
その認識の展開のどのコマにおいても、上で説明したリンゴを見た瞬間のように主客の区別が成り立たないのです。

このように、認識論の観点から私を含むこの世界を観たとき、世界があって、その中に私があるというのは錯覚で、あるのは主客の区別の無い映画フィルムのコマのような認識の連鎖だけがあるのかも知れないのです。
つまり、あるのは私という意識の連鎖だけなのかも知れないのです。

だとすれば、根本的な謎は二つではなく、私という意識に関する一つのみになります。
もちろん断言はできませんが、私はおそらくそういうことなのだろうと考えています。



◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇自覚の要領をひとつにまとめた有料記事「自覚のヒント」のご案内はこちらです。
◇有料のスカイプ個人セッションのご案内は、こちらです。

コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

哲学・思想 ブログランキングへ
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

根源的な二つの謎(1)ーわかることの限界ー

2023年12月31日 19時33分48秒 | エッセイ
◇根源的な二つの謎(1)ーわかることの限界ー◇


私は、私自身を含めたこの世界の謎は根源的に次の二つに集約されると考えています。
一つは、この世界(宇宙と言ってもいいです)とは何なのか、なぜあるのかです。
もう一つは、私とは何なのか、なぜあるのかです。

但し、初めに言っておきますと、この二つの謎は解明不可能なのです。
絶対に不可能なのです。

そもそも、私たちが本当の意味で解明できること、あるいは本当の意味でわかることなんて何もないのです。
今回のお題である謎について書く前に、わかることの限界について書いてみようと思います。

わかることの限界について説明するためには、まずはわかるとはどういうことなのかについて説明する必要があります。
わかるという現象(意識的な現象です)が生じるときには、必ずその背景、あるいは前提、あるいは土台となるものがあります。
その土台となるものとは、簡単に言えば理屈です。
わかるという現象は、それに関連する理屈の上で起きています。
このベースになっている理屈は、当たり前のこととして物事の背景や裏側に潜んでいて、そこに視線が向けられることは余りありません。

例を挙げるとすると、自然現象と物理の関係がわかりやすいと思います。
物理とは、自然現象を物質及びそれに類する要素が起こす現象として理解していこうとするもの(理屈)です。
物理を用いた自然現象の理解には、例えば、リンゴが地面に向かって落ちるのは地球とリンゴの間に引力が発生しているからだというものがあります。

この説明で納得できる方はいいですが、私はこの程度の説明では納得できないのです。
どうして地球とリンゴの間に引力が生じるのかと考えてしまう訳です。
これに対してさらに物理を使って、それは地球とリンゴとの間に重力場による相互作用が生じているからだと説明されたとします。
すると今度は、その重力場とは何なのかと考えてしまいます。
さらには、地球やリンゴは何から出来ているいるのかと考えてしまいます。
それに対してさらに物理を使って、地球やリンゴは無数の原子から出来ていて、原子は陽子、中性子、電子から出来ていて、陽子はクォークから出来ていて、さらにそれらはスーパーストリングから出来ていて、スーパーストリングの間に重力場が作用するんだよと説明されたとします。
すると今度は、そのスーパーストリングって何なのと考えてしまいます。
またさらには、この世界にはスーパーストリング等の要素を考える前提となる空間(器のようなもの)があるはずで、その空間はどうなっているのか、どうしてあるのか等と考えてしまいます。

このように、「それは何か」、「どうしてそうなるのか」等の疑問は決して尽きることはなく、完全な解明は不可能なのです。
自然現象について「それは何か」、「どうしてなのか」等の視線で掘り下げていくと、物理という考え方あるいは理屈の前提に直ぐにぶち当たるのです。
物理は、自然現象を物質及びそれに類する要素が起こす現象として理解しようとするもの(理屈)ですから、物質そのものに対してそれは何かとか、物質を存在させている空間(器)そのものに対してそれは何かという問いに対しては、直ぐに行き詰まってしまうのです。
つまり、理解や説明の前提となっている理屈そのものに対する問には、理屈は無力なのです。

物理に限らず数学でも同じです。
例えば、私たちは1+1が2であることを当たり前としていて疑問を感じませんが、どうして1+1が2なのかについて数学は説明できません。
なぜなら、1+1が2であることは数学という理屈の前提となっているからです。

言語でも同じです。
私たちは海の色を青と表現しますが、どうして海の色を青と言うのかついて言語による説明は不可能なのです。

このように、わかるという現象は、それの土台となっている理屈の範囲内で起こるものであり、本質的に不完全なものなのです。
何かについて完全にわかる、あるいは説明を尽くすためには、その理解の土台となっている理屈そのものに対する説明あるいは理解が必要なのですが、それは不可能なのです。

次回は根源的な二つの謎について書きます。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇自覚の要領をひとつにまとめた有料記事「自覚のヒント」のご案内はこちらです。
◇有料のスカイプ個人セッションのご案内は、こちらです。

コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

哲学・思想 ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

輪廻に関する考察ー輪廻はあるか、解脱後はー

2023年08月20日 16時42分22秒 | エッセイ
◇輪廻に関する考察ー輪廻はあるか、解脱後はー◇


今回は、輪廻について私なりに考察を書いてみたいと思います。

まず最初にハッキリと申し上げておきたいことがあります。
輪廻があるのか無いのか、あるとしたらどんなものなのか等、輪廻に関する我々の疑問はいろいろありますが、輪廻があるのか否か等の核心部分に関することは、決して誰にもわからないのです。

まず初めに、輪廻はあるのかついて。
結論から言いますと、輪廻はおそらくあるのだろうと考えています。
正確には、あると考えた方がいろいろと辻褄が合い、妥当であると考えています。

そう考える理由について。
一番の理由は、人の意識のバリエーションを見ていると、意識の成長度の違いを考えざるを得えないと考えるからです。
二番目の理由は、私自身の個人的な経験によるものです。
例えば、6、7歳の頃生まれて初めて「悟り」という言葉を聞いたときに、その言葉に対して強く興味を示す反応が起きたのですが、生まれて初めて聞いた言葉に対する反応としては余りにも不自然なので、「悟り」という言葉や概念に対して前世的な何かを既に持っていたのではないかと考えています。
他の例としては、私は18か19歳の頃に、物理学や宇宙の根源について考えていて、理屈や論理の根本的な限界や、わかる(知る)ということの根本的な限界について理解したのですが、そのようなことを今世の経験だけで理解するのは難しいだろうと考えています。

輪廻する個別の魂等の存在について。
これは、輪廻があるとした場合、個別の魂があってそれが輪廻していくのか、それとも魂の集合体のようなものがあって、その集合体から派生した魂が1回又は複数回輪廻し、その集合体に戻るのかということです。
これについては、輪廻があるなら間違いなく前者だろうと考えています。
そう考える理由は、意識の成長は、個々の経験によるものであり、無数の世を要して継続的に続いていくものと考えた方が妥当だからです。

始まりと終わりについて。
人の意識について、その成長性という本質的な特性があると考えざるを得ないという観点から、輪廻の繰り返しには、意識の成長という時間的方向性(非対称性)があると考えざるを得ないと考えます。
そうすると少なくとも、輪廻、意識(存在)にはそれの始まりがあると考えざるを得ないと考えます。

では、終わりについてはどうか。
意識の成長について、私は悟りの行程は意識の成長の最終段階であり、それは必然的なものであるだろうと考えています。
ですから、解脱により、輪廻についても、意識(存在)としても何らかの終わりがあるのではないかと考えています。

解脱後のいくつかの可能性に関する検討。

解脱後は、そのまま輪廻を繰り返す。
これはなんとなく無さそうな気がします。

再度、初めに戻る。
これも違うような気がします。

これまでと全く異なった輪廻が始まる。
これは無いです(なんとなく確信あり)。

肉体の死に伴って消滅する。
個人的にはそうあってほしいと思っていますが、これもどうなるかわかりません。



◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇自覚の要領をひとつにまとめた有料記事「自覚のヒント」のご案内はこちらです。
◇有料のスカイプ個人セッションのご案内は、こちらです。

コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

哲学・思想 ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の不思議体験

2022年05月15日 20時57分43秒 | エッセイ
◇私の不思議体験◇

以前、ブログ付設の掲示板に書いたものですが、改めてこのブログにも書いてみようと思います。

不思議体験の類については、私は心霊体験も含めて殆ど体験したことがないのですが、一つだけありまして、今回はそれについて書いておきたいと思います。

それは、2013年の9月末か10月始めの夜中のことでした。
眠れないのもあって、ふっと瞑想をしてみようと思って、自宅のいつも家族と寝ている部屋から、短い廊下を通って真っ暗な別の部屋に入ったときでした。
部屋に入ったところで、薄ぼんやりとした光のようなものを感じたのです。
でも最初は、特に気にしないでそのまま部屋の中の方に入って行こうとしたのです。
そうしたら、自分の顔に何かもわんとする、気のエネルギーのようなものが触れたのです。
それで、何かあると思って驚いて、一歩下がって、目の前を見たのです。

すると、ちょうど目の高さの正面に、薄ぼんやりとした直径40cmほどの紫色の光のボールのようなものがあったのです。
恐怖心は不思議なほど全く無く、その光のボールを両手で両側から包むようにしながら、私はそれを何だろうと思って凝視しました。
そして、私はその光のボールに、
「あなたは誰ですか?」、
「私に何かご用ですか?」
と聞きました。

しかし、その光のボールからは何の返事もありませんでした。
そのまま、おそらく1分ほどの時間が過ぎたころ、その光のボールが帰ろうとしていることが分かったので、私は、「来てくれてありがとう」と言って、光のボールに添えていた手を離しました。
すると、光のボールはゆっくりと上方に浮かび上がりながら、消えていきました。

そのあと私は、いまの光のボールは何なのだろうと思いながら、その部屋で瞑想を始めました。
そのとき私がしようとした瞑想は、目を閉じて意識を静かに落ち着かせるだけの普通のものでした。

瞑想を始めて直ぐに、自分の意識が宇宙空間のような空間に入ったのでした。
そして、それに続いて、私の意識は、光のトンネルに吸い込まれていったのでした。
その光のトンネルは、ちょうどSF映画のワープ航法のときの映像のように、多数の黄白色の光が前方から後方にもの凄い速度で流れ去っていくような感じでした。

不思議と恐怖心はなく、私はそのとき、どこまでも行ってやろう、そして見てやろうと思っていました。
戻れなくなるかも知れないとも思いましたが、それでもいいと思い、進んで行きました。
どのくらいの時間、光のトンネルの中を進んだのか分かりませんが、途方も無い遙か彼方まで飛んで行っているような感じがしていました。

すると、スーッと光のトンネルを抜けて、また宇宙空間のような空間に出たのです。
そして、その空間の中を前方に進んでいっていると、その空間の右斜め前方に、宇宙人らしき存在の姿が1人から3人ずつ、順番に浮かんでは消えていきました。
正確には、このとき現れたのは宇宙人そのものではなく、暗い宇宙空間を背景に黄白色の光で描き出されたスケッチのような宇宙人の映像でした。
また、その宇宙人の映像は、体全身のものではなく、肩から上の部分のものでした。

全部で10人ほどの宇宙人の姿が浮かんでは消えていきました。
その後、再び光のトンネルに入っていきました。
そして、光のトンネルの中をまた延々と飛んで、普通の瞑想の意識に戻りました。

私は光のボールを見たことも、瞑想中に変わった体験をしたこともありませんでしたので、頭の中が「???」になりながら、瞑想を終えて寝てしまいました。
今もあの体験が何だったのかは分からないままです。

以上、私の唯一の不思議体験でした。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。
※現在は講話会や対面セッションはやっておりません。
スカイプを使った無料の30分程度(最大1時間)のセッションのみ行っています。
ご希望の方は、suiku2013☆yahoo.co.jp(☆を@に替えて下さい)へご連絡ください。

コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

哲学・思想 ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

悟りと囚われ

2019年12月14日 20時22分13秒 | エッセイ
◇悟りと囚われ◇

悟りと囚われについて、ふっと気が向いたので書きます。

悟りの行程とは、囚われを手放していく行程と言うことができます。
自身が握りしめている囚われを一つ一つ手放していくと、最後に残る囚われが露わになってきます。

それは何か。

それは悟りなのです。

囚われを手放していくうち、いずれ、悟ろうとしている、悟りを求めている自分自身の衝動や囚われに気づくことになります。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。
※現在は講話会や対面セッションはやっておりません。
スカイプを使った無料の30分程度(最大1時間)のセッションのみ行っています。
ご希望の方は、suiku2013☆yahoo.co.jp(☆を@に替えて下さい)へご連絡ください。

コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

哲学・思想 ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

苦の雨

2017年12月31日 20時20分46秒 | エッセイ
◇苦の雨◇

苦の雨に寄る辺無し。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。


コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

哲学・思想 ブログランキングへ
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

知的欲求の果て

2016年05月09日 14時37分11秒 | エッセイ
◇知的欲求の果て◇

根源的な欲として、知りたい、分かりたい、納得したいという知的欲求があります。
この欲は、私という存在にとって極めて本質的であり、根深いものなのですが、智慧と関係しており、悟りと密接に関係しています。

この欲が活発化する最初のうちは、外側の具体的な対象にその矛先が向けられることが多いです。
つまり、外側の種々の現象に対してそれを理解しようとする訳です。
種々の現象に対して、なぜそうなっているのか、なぜそのような有り様なのか等を追求し、原因や原理、根拠を求める訳です。

しかし、そういった根拠の追求には限界があるというか、終わりが無いことに気づくときが来ます。
つまり、一切のことがらに根拠がないことに気づくのです。

そのような気づきが起きても、それで終わりと言う訳ではありません。
それでも、「私」という存在が否応なくある訳であり、いずれ「私」という存在に向き合うことになります。
そして、知的欲求の矛先を自分自身に向けるようになります。
「私」とは何なのか、なぜ存在しているのか、という疑問に対して追求するようになります。

先回りして書いてしまうと、この「私」とは何なのかという問いに対する追求には、明確な終わりがあります。
これ以上先の理解は存在しないということを明確に悟る限界点があるのです。

その知の限界点を悟ると、根源的な欲である知への欲がすっと収まります。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。


コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

哲学・思想 ブログランキングへ
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

欲と悟り

2016年03月10日 14時18分53秒 | エッセイ
◇欲と悟り◇

ちょっと気が向いたので、悟り関連の文章を書いてみようと思います。
かなーり久しぶりで、調べてみたら、昨年の11月16日以来、約4ヶ月ぶりですね。
どうでもいい前置きは、さておき。


欲と悟りの関係について、以前から少し気になってることを書きますね。

悟るためには、欲を手放せとか、欲を滅せよと言われることがありますが、それは間違いです。
欲を手放すことや滅することは、悟りに向けた行程の進展に伴って結果的にそうなる傾向があるというだけであって、そうすることを目的にしてもダメなのです。
また、そもそものところ、どんなに悟ろうと欲が消えることはありませんし。(^o^)

悟りとは、欲の追求の極みなのです。
欲を徹底的に追求すれば自ずと悟りに至るのです。

私の言わんとすることが、お分かりになりますでしょうか?

最初のうちは、物質や肉体感覚等の物質的な対象に対する欲の追求に忙しいのだろうと思います。
しかしいずれ、そういうものをいくら追求しても、切りが無いし、満たされないことに何となく気づいていきます。
そして、興味や追求の対象が、哲学的なことがらや精神的やことがらに移っていきます。
中には、この段階で何らかの悟りに至る人もいるでしょう。

しかし、そうなってもまだ、何かを求めているし、何かを掴もうとしているのです。
そこでの対象は、例えば、幸福や、安楽、あるいは神や真理等の絶対的な何かだったりします。
それで満足できるなら、納得できるなら、それでいいんです。

一部に、それでも満足できない人がいます。
つまりそれは、幸福や神や真理等を含めて、絶対的なものなどどこにも無いということに何となく気づいてしまった人です。
そういう人は、いずれきっと、自分自身に意識を向けるようになっていきます。

この追求心の矛先の自分自身への転換は、必然的な帰結なのだろうと私は思っています。
欲の追求は、精神的な対象も含めてすべて外向きの展開なのです。
外に向けた追求をやり尽くした人は、必然的に自分自身に対して追求することになるという訳です。

最終的な悟りは、そうした自分自身に対する徹底的な追求の果てにあります。


久しぶりに書いた文章、どうもしっくりきませんが、このまま公開しちゃいましょう。(^o^)


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。


コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

哲学・思想 ブログランキングへ
コメント (62)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ただ独り歩め

2015年09月25日 21時16分55秒 | エッセイ
◇ただ独り歩め◇

あなたと私は別個の存在であり、異なる過去があり、歩む道も異なっています。
あなたが歩む道はあなただけが歩む道であり、私が歩む道も私だけが歩む道です。

誰しもみな、自らの道をただ独り歩んでいます。
にもかかわらず多くの方は、その自覚がなく、道連れを求め、何かに縋り付こうとします。
また、他人の道に目移りもします。

そうだから、迷ってしまうのです。

自分は、自分の道を歩むんだと腹を括って頂きたいと思います。
あなた自身の道に真っ正面から取り組んで頂きたいと思います。
挑んで頂きたいと思います。

悔いの無いよう、精一杯取り組んで頂きたいと思います。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。


コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

哲学・思想 ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

何か一つでも

2015年05月23日 07時57分22秒 | エッセイ
◇何か一つでも◇

ついさっき、ヤフーニュースで21歳でガンで亡くなったアイドルの記事を読みました(丸山夏鈴さん。リンクはこれです)。

彼女のことはよく知らないのですが、その記事を読んで思ったことを書かせていただきたいと思います。


何か一つでも、結果はどうであれ、自分が死ぬときにこれは頑張った、よくやったと思えることが大切なんだろうなと思いました。

まずは一つのことから、取り組んでいただきたいと思います。

あなたの一番大切なこと、あるいは大切にしたいことは何ですか?


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。

※5月24日の講話セッション、個人セッション(残り1枠)、まだ受け付けてまーーす(^^)/

コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

哲学・思想 ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ポイントは感じるかどうかです

2015年05月18日 09時43分14秒 | エッセイ
◇ポイントは感じるかどうかです◇

悟りのことについては、議論しても仕方がありません。
議論とは、自分が囚われている考え(固定観念)の応酬でしかありません。
いくらやっても切りがない。

またそもそもところ、何も考えを握っていないものと、握り締めた考えであっぷあっぷになっているものとの間で、議論など成り立つはずがない。

ポイントは、何かを感じるかどうか、気づくかどうだけです。

感じるのは誰か、気づくのは誰か。
自分です。

ですから、少なくとも感じる瞬間、気づく瞬間は意識が自分自身の方を向いている必要があります。

騙されたと思って一度、あなた自身に意識を向けてみてください。


いまそうやって、自分自身に意識を向けたのは誰ですか?


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。

※現在、スカイプセッションについては一部又は全部を無料化する方向で検討中です。
 近日中に結論を出して、公表したいと思っています。


コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

哲学・思想 ブログランキングへ
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分の本心と逃げずに向き合う

2015年04月23日 10時47分06秒 | エッセイ
◇自分の本心と逃げずに向き合う◇

自分は何をやりたいのか、これは生きる上での最大のテーマです。
しかし、自分のやりたいことを分かっている人はどれくらいいるのでしょうか。
実際には余り多くはないのかもしれないと、私は思っています。

そんなことはない、自分は自分のやりたいことをちゃんと分かってるよと仰るかもしれません。
そう仰る方に、私はさらに申し上げたい。
本当にあなたは、それをやりたいと思っておられますか、と。
あなたは本当に、自分の本心をちゃんと見ておられますか、と。
本心からそれがやりたいと思っておられるのですか、と。

多くの方は、自分の内面、本心がちゃんと見れていないのです。
自分の内面を真っ直ぐに直接見るのではなく、周りが自分を観る目、つまり人の評価ばかり気にしています。
そのような方は、自分がやろうといしていることやその方向性を決めるき、自分の本心ではなく、周りの目である、社会的な価値観等の方を優先して、それを基準にして決めてしまいます。

本当にそれでいいのでしょうか?

私はそれでは嫌だったのです。
私は、もちろん社会的な価値観等も考慮しますが、あくまでも自分の本心の方を大切にして自分のやろうとしていることを決めてきました。
だから私は、生きることに納得できたんだと思っています。

周りの目、つまり外ではなく、もっと「私」に目を向けて頂きたいと思います。
そして、自分は何をやりたいのかという自分の本心をもっとよく知って頂きたいと思います。
本心を知り、それに向き合うことが大切なのです。

本心を知り、それに向き合っていれば、それだけでいいんです。
例え、その本心である自分のやりたいことができなくてもいいんです。
それに挑戦したけど、その結果が目標に届かなくてもいいんです。
本心を知り、それに向き合っていれさえすれば、それだけでいいんです。

本心を知れば、それを叶えたいという欲求や衝動、そしてそれに伴う苦しみが生じます。
その苦しみから逃げないで頂きたいと思います。
苦しみから逃げずに、あなたの本心と向き合い続けて頂きたいと思います。

そうすればいずれ、その苦しみが納得に変わっていきます。
あなたがどう行動したか、またどういう結果が得られたかは関係ありません。

あなたの本心から逃げないでください。
苦しみから逃げないでください。
向き合ってください。


◇セッションのご案内はこちらです。

コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

スピリチュアル ブログランキングへ
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする