私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

自分の本心と逃げずに向き合う

2015年04月23日 10時47分06秒 | エッセイ
◇自分の本心と逃げずに向き合う◇

自分は何をやりたいのか、これは生きる上での最大のテーマです。
しかし、自分のやりたいことを分かっている人はどれくらいいるのでしょうか。
実際には余り多くはないのかもしれないと、私は思っています。

そんなことはない、自分は自分のやりたいことをちゃんと分かってるよと仰るかもしれません。
そう仰る方に、私はさらに申し上げたい。
本当にあなたは、それをやりたいと思っておられますか、と。
あなたは本当に、自分の本心をちゃんと見ておられますか、と。
本心からそれがやりたいと思っておられるのですか、と。

多くの方は、自分の内面、本心がちゃんと見れていないのです。
自分の内面を真っ直ぐに直接見るのではなく、周りが自分を観る目、つまり人の評価ばかり気にしています。
そのような方は、自分がやろうといしていることやその方向性を決めるき、自分の本心ではなく、周りの目である、社会的な価値観等の方を優先して、それを基準にして決めてしまいます。

本当にそれでいいのでしょうか?

私はそれでは嫌だったのです。
私は、もちろん社会的な価値観等も考慮しますが、あくまでも自分の本心の方を大切にして自分のやろうとしていることを決めてきました。
だから私は、生きることに納得できたんだと思っています。

周りの目、つまり外ではなく、もっと「私」に目を向けて頂きたいと思います。
そして、自分は何をやりたいのかという自分の本心をもっとよく知って頂きたいと思います。
本心を知り、それに向き合うことが大切なのです。

本心を知り、それに向き合っていれば、それだけでいいんです。
例え、その本心である自分のやりたいことができなくてもいいんです。
それに挑戦したけど、その結果が目標に届かなくてもいいんです。
本心を知り、それに向き合っていれさえすれば、それだけでいいんです。

本心を知れば、それを叶えたいという欲求や衝動、そしてそれに伴う苦しみが生じます。
その苦しみから逃げないで頂きたいと思います。
苦しみから逃げずに、あなたの本心と向き合い続けて頂きたいと思います。

そうすればいずれ、その苦しみが納得に変わっていきます。
あなたがどう行動したか、またどういう結果が得られたかは関係ありません。

あなたの本心から逃げないでください。
苦しみから逃げないでください。
向き合ってください。


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彷徨い人

2015年04月11日 08時30分14秒 | エッセイ
◇彷徨い人◇

私たちはつい、何かに拠り所を求め、それに縋り付こうとします。
その対象をよく確かめもせず、握り締め、それに頼ろうとします。
その姿は幼子のようでもあり、疲れ果てた旅人のようでもあります。

その道のりの中で時折何かを見つけ、「これだ!」、「ここだ!」という喜びが訪れます。
しかし、それらは一時的なものであり、過ぎ去ってしまいます。
そして、喪失感が残ります。

最初のうちは、それが幻であることさえ気づきません。
同じような行程を何度も何度も重ねるうち、印象が積み重ねられ、少しずつ分かっていきます。
「これじゃない」、「何か違う」と。

そして、信じられるものは何もない、どこにも拠り所は無いということが分かっていきます。
そうすると次は、虚無感に苦しめられるようになります。
それでも、彷徨い続けます。

彷徨い続けている自らの姿に気づくまで、それは続きます。


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死と向き合って生きる

2015年03月21日 14時42分16秒 | エッセイ
◇死と向き合って生きる◇

死が身近にある人は恵まれています。

死と向き合えば、自ずと自分がまだ生きていることに目が向くからです。


あなたはまだ生きています。

まだ時間があるのです。

どうか、悔いの無いよう生きて頂きたい。


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生きるしかない

2015年03月21日 09時00分25秒 | エッセイ
◇生きるしかない◇

生きてるんだから、四の五の言わずに生きるしかないんです。

今さら、自分は生まれてきたくなかったなどと泣き言を言ったってどうしようもないんです。

腹を括って、自分が生きてるという事実を受け止めるしかないんです。

要するに、生きていくしかないんです。

腹を括って頂きたい。

そして、人生をその視点から改めて見て頂きたい。

さあ、あなたはどう生きますか。


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みんな自分の道を歩いている

2015年03月14日 15時45分24秒 | エッセイ
◇みんな自分の道を歩いている◇

誰しもみんな、自分の道をしっかりと歩いています。
これは、善人も悪人もみな同じです。

みな、自分の道を歩くしかないのです。
どんなに嫌な道でも、その道を歩くしかないのです。

どのせその道を歩くしかないのなら、もっと前向きにしっかりと歩めばいいものを、多くの人は、他の人の道を自分の道を比べてみたり、自分の道を拒絶したりと、ふらふら、ふらふらとしています。

みなさん、自分の歩いている道に自信や確信が無いようです。
それはどうしてでしょう。

自分はこの道を歩くんだという決意と覚悟が足りないのです。

人と比較ばかりしていても、切りがありません。
それをいくらやっても、やるせなさや、劣等感や不満がつのるだけです。

自分の道を歩むしか無いんだ、ということに早く気づいて頂きたいと思います。


(偉そうなことを書きまして、すみません。
 そう言う私も相当ふらふらとしながら生きて来ました。
 そう思うと、ふらふらも必要な過程だったのかもしれません。)


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悔いがあってもいい

2015年03月12日 15時27分15秒 | エッセイ
◇悔いがあってもいい◇

昨日は、悔いを残さないという観点から「悔いの無い人生」という記事を書きました。
そりゃあ、なんてたって悔いが残らないのに越したことはありませんから、まずはそのことについて書きました。

でも、悔いが残っていてもそれを解決できる道もあるのです。

それはどういう道かと言いますと、悔いが残っている自分を受け入れる道、あるいは諦める道なのです。
あるいは、自分を許す道ということもできます。

何かやりたいことがあったのにそれが出来なかったとを悔やんでいる自分を受け入れるのです。

それが出来なかったことについて、自分の至らなさや、周りや環境等をただ責めるのではなく、自分を受け入れて許してやるのです。
自分を許せば、自ずと周りや環境も許せます。

悔いがあっても大丈夫です(^^)


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悔いの無い人生

2015年03月11日 13時14分46秒 | エッセイ
◇悔いの無い人生◇

私が二十歳ころから考えていたことのひとつに、一番いい人生とはどんな人生なのかというのがありました。
そのとき、ひとつの結論として得た答えが、悔いの無い人生というものでした。
もうひとつ考えたものとして、納得できる人生というのも考えたのですが、納得するのは少し難しく感じたので、自分は悔いが無ければそれでいいんだと思ったのでした。
また、ちょっとこじつけではありますが、悔いが無ければ納得したも同然ではないかとも思ったりもしました(笑)。
それ以来、私は紆余曲折はありましたが、悔いが残らないようにということを一番に心がけて生きてきました。

この悔いの無い人生、納得できる人生というのは、悟り云々を抜きにして、人生の本質を突いていると思っています。
だって、他の人が何と言おうと、本人が悔いが無い、これでといいと納得しているのですから、これ以上のものは無い訳なのです。
腹の底からこれでよかったと思いながら死んでいくのですから、これを最高と言わずにどうするのかという訳です(笑)。

しかし現実には、それが難しいようです。
果たしてどれくらいの方が、悔いなく死を迎えているのでしょうか。

やりたいこと、あるいはやるべきと感じることがある人は、素直にそれに取り組んで頂きたいと思います。

多くの場合、結果は問題になりません。
やりたいというその対象にしっかりと取り組むその姿勢と過程が大切なんだと思います。
しっかりと取り組めば、結果の如何にかかわらず、納得が生じ、悔いも残らないのです。

逃げずに、しっかりと取り組んで頂きたいと思います。

そうすると、悟りは自ずと向こうからやってきます。


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死後の世界や輪廻のことについて

2014年11月17日 21時51分25秒 | エッセイ
◇死後の世界や輪廻のことについて◇

死後の世界や輪廻のことは、悟りや自覚とは直接的な関係はなく、むしろ邪魔になりかねないため、このブログでは意図的に触れないようにしてきました。
でも、このブログ付設の掲示板の方でご質問を頂きまして、いい機会かも知れないと思い私の考えをお答えすることにしました。
それで、そのお答えの内容を少しアレンジしてこのブログにも掲載することにしました。

なお、念のために申し上げておきますと、死後の世界や輪廻のことを全く知らないでも最後の解脱の悟りに到達できますので、これらのことに余り気を取られないようしていて頂きたいと思います。
そういう私自身も殆ど知らないまま最後まで到達してしまいました。


最初にまず、ハッキリとさせておきたい点は、すべてのことは考えであるということです。
この点は決して揺るがないのです。
ですから、霊界や天界等の死後の世界も輪廻も考えなのです。

しかしです。
ここがひとつ重要な点なのですが、考えであるという点では、私の肉体を含めたこの現実世界も考えなのです。
考えであるという点では、死後の世界も現実世界も同等であり、変わりはないのです。
違いがあるとすると、いま現時点の私という自我の本拠地が現実世界であるということだけです。

生きてるうちは、私という自我の本拠地がこの現実世界であるという点については、納得しやすいと思います。
問題は、死んだらどうなるかというところだと思います。
要するに、霊界や天界等の死後の世界は存在するのかということです。

この点に関する私の理解というか実感として感じていることを書きますと、霊界や天界等の死後の世界は、この現実世界と殆ど同じようなリアリティを持って存在しています、ということになります。

私は、過去世の記憶もありませんし、霊界や天界に対する実体験もありません。
ただ、一昨年暮れの明け渡し体験の直後から、どうやらこの現実世界と同じようにして霊界や天界がありそうだという理解というか感覚が生じるようにはなっていました。
でも、その感覚はとても曖昧なもので、確信的なものではなかったため、私は死後の世界や輪廻のことについて疑っているようなところもかなりありました。

その疑いは、二つの体験的理解により消えていき、どうやら霊界や天界等の死後の世界を含めた、輪廻というものがあるんだいう確信に変わっていきました。

その体験的理解の一つ目は、大悟した後に何度も経験した涅槃(完全な無我であり、気絶状態です)に落ちる体験に伴うものです。
具体的にどういう体験かと言いますと、大悟した状態、つまり「見るものは見られるもの」になり、自我である主体と、その対象である考え(客体)とが統合した状態で、しかも、自我としっかりと捉えた状態で涅槃に落ちると、涅槃から自我に帰ってきた瞬間とその直後に、私という自我である意識の連鎖現象とても鮮明に体験することができるのです。
つまり、私という存在がパッ、パッ、パッっと連鎖的に起こってくる考え(意識)そのものであるということが如実に体験できるのです。
私は、この体験により、私という存在の本質は意識の連鎖であり、この肉体の体験は、その連鎖の中で一時的に現れてくる考え(現象)に過ぎないのだと理解しました。
この意識の連鎖を止めないことには、仮に肉体が滅んでも、連鎖する考えの中身(現象)が変わるだけで、私という自我の意識はそのまま続いていくんだということを理解したんです。
それで、霊界や天界等の死後の世界を含めた輪廻についても理解しました。

もう一つの体験的理解は、解脱の悟りを得た後のものです。
どういうものかと言いますと、私のブログにも書きましたが、解脱の悟りを得て確か4、5ヶ月ほどしたころに、自我の意識(正解には観照意識)が目覚めた状態のまま眠りに入っていくという体験を暫くの間、毎日のように体験したんです。
もう少し分かりやすく書きますと、意識が半分か何分の一の割合で目覚めた状態のまま眠りに入っていくんです。
すると、眠りに入るのに伴って、見えている世界(風景)が、この現実世界の風景(目をつむってますから普通に暗闇です)から眠りの世界の風景にすうっと変わるのです。

私はこの体験から、現実世界と夢の世界の間に本質的な違いは何もないこと、そして、夢の世界が死後の世界と殆ど違いがないこと、また、眠りに落ちていくときの感覚は、死んでいくときの感覚と殆ど違いがないこと、を直感的かつ確信的に理解しました。

そういう訳で、私は、死後の世界や輪廻は考えではありますが、この現実世界と同じように存在していると言うことにしております。


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農園コミュニティー

2014年09月12日 10時00分34秒 | エッセイ
◇農園コミュニティー◇

昨今、小規模コミュニティーがちらちらと作られつつあるようですね。
コミュニティー作りの目的や形態は様々なようですが、この流れは今度さらに顕著になっていくのではないかと思っています。
(不確定な未来を語ってもしょうがないのに、また語ってしまっている自分に思わず笑ってしまいますが、(^_^;))。

その中で、私は農業を基盤とした農園コミュニティーに注目しています。
なぜなら、生きる上でやはり食べることが一番の基本だからです。

過去何十年も前(あるいはもっと以前)からこの手の取り組みが何度もなされてきたようですが、それらの取り組みは、ごく一部の例外を除いて長続きせず、失敗に終わってきたようです。
失敗の原因は様々でしょうが、一言で言えば、時期が早すぎたのだろうと私は思っています。
コミュニティー作りに参加するる者の心の状態や、それを取り巻く時代環境がまだそうなっていなかったのだろうと思っています。

ですが、そろそろ、そのような取り組みが成功し得る時期になって来たのかも知れないと思っています。

そして、ひょっとするとそれは、私(慧空)自身の居場所になるのかも知れないとも思ったりもしています。

私自身、まだまだ夢物語ではありますが、そんなことも夢想したりしながら暮らしています。(^^)


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心の時代が来てるのか

2014年09月12日 09時38分26秒 | エッセイ
◇心の時代が来てるのか◇

多くの方々が感じておられることと思いますが、人々も自然環境も不安定になっているというか、変化しつつあるように思っています。

そしてそれに伴い、私たちの心も変化していってるのではないかと思っています。
具体的には、物質的な側面に重きを置いたところから、心の内面的な側面に重きを置いたところへと変化していっているのではないかと思っています。

ひょっとすると、お釈迦さまが生きておられた時代のように、自分の心に対する探求が日常の中に入っていくようなことも可能性としてあるかも知れないと思っています。

不確かな未来のことを語ってもしょうがないですが、何となくそう思えるのです。


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印可はおまけです

2014年08月27日 09時11分12秒 | エッセイ
◇印可はおまけです◇

「印可」とは、悟り系の組織において先人が後から来た人に対して、ある段階までの悟りを得たことを認定するというものです。
どの段階で印可を出すかは、組織によってまちまちのようです。

この「印可」ですが、これが少々やっかいなのです。
悟りを得ることが本来の目的であるはずなのに、いつのまにか、「印可」を得ること、あるいは師匠に認められることに意識の焦点が移ってしまうことがよくあるのです。
そうなると、「印可」のことばかりに意識がいってしまい、自分をしっかりと見つめるという本来の悟りの道から外れてしまいます。
また、仮に運よく「印可」が得られても、自分が印可者(印可を得た者)だという慢心が生じてしまい、その後の行程が大変になります。

印可は、本質的なものではありません。

印可は、おまけです。

印可の有無が重要なのではなく、悟っているか否か、もっと言えば自分をしっかりと見つめられているかどうか(「自覚」が出来ているかどうか)が重要なのです。

印可に過剰な意識を向けないで頂きたいと思います。


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いるだけでいい

2014年06月10日 16時41分33秒 | エッセイ
◇いるだけでいい◇

そもそも、すべての存在はいるだけでいいのです。

何をやっても、どんな状態でもいいのです。

存在しているだけで十分なのです。

それなのに私たちはあれこれと考え、基準や制限に囚われ、そして苦しみます。

周りの人たちを、自分を、許してください。

そして、ありのままの姿を受け入れてください。


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すべてはこの瞬間にフォーカスされています

2014年05月08日 09時49分16秒 | エッセイ
◇すべてはこの瞬間にフォーカスされています◇

この瞬間に至るこれまであなたが行ってきた行為や起こってきた出来事など、すべてのことはこの瞬間にフォーカスされています。

過去のすべてのことは、この一瞬のみにフォーカスされています。

この一瞬にすべてのことが集約されています。

この一瞬だけを見て感じてください。

この一瞬だけと向き合ってください。

そして、受け入れてください。


ほら、感じませんか(^^)


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すべてのことは私です

2014年05月07日 10時32分39秒 | エッセイ
◇すべてのことは私です◇

私の中に起こってくる考えも、私を中心としたこの世界も、すべてのことは私という意識の現れであり、私そのものです。

私という存在以前のことについて根源等の概念をつくり、いろいろと考えを巡らす方がおられますが、そのような概念も、紛れもなく私が考えていることであり、それも私です。

例えどんな概念をつくろうとも、すべて私の範疇の中なのです。

私を離れて何処かに行こうとしてもそれは不可能です。

無理に私を滅しようとしても、それも困難です。

すべては私なのだと理解するようになれば、自ずと私は大人しくなり、溶けていきます。

そして、終わっていきます。


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すべては流れ去っていくもの

2014年05月02日 16時25分07秒 | エッセイ
◇すべては流れ去っていくもの◇

私という存在には、様々な出来事や、感情、考え等が起こってきます。

中には繰り返し何度も何度も起こってる出来事や考えもあります。

しかし、それらはすべて流れ去っていくものです。

流れ去っていこうとしているものをわざわざ掴み取ろうとしないでください。

掴み取るから苦しみが増大し、また新たな苦しみが生じます。

掴み取りいつまでも引き摺るから、それが執着(カルマ)となり、新たな出来事や考えの種になります。

掴み取ろうとせず、流れるままに流していけばすべては去っていきます。

そして、終わっていきます。


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