私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

囚われと苦

2024年08月04日 15時18分01秒 | 悟り
◇囚われと苦◇


握り締めた考えを囚われと言います。
囚われとは、典型的にはこうあるべき、あああるべき、これはダメ、あれはダメ等ですが、表面的なものだと、お金は大事、女がいないとダメ、男がいないとダメ、ポスト(地位)がないとダメ等もこれに含まれます。

どうしてそのような考えを握り締め、手放せないのでしょう。

そこには、恐れという苦があります。
何の頼りもなく、考えの海に浮かぶのは耐えられないのです。
溺れる者は藁にもすがるという訳です。

考えを握り締めると、その考えに囚われるため、さらに苦しくなります。
しかし、考えを握り締めると、それが思考の前提として取り込まれ、あるいは潜在化され、自分が考えを握り締めていることに気付くのが困難になります。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
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悟りと意志

2024年08月03日 15時23分45秒 | 悟り
◇悟りと意志◇


以前にも何度か似たような文章を書いたことがあるはずなのですが、再度、悟りと意志について書いてみたいと思います。
なお、ここのところ頑張って書いている苦についても、引き続き書いていく予定です。


悟りは、悟ろうと思って悟れるものではないとか、本人の意志とは無関係などと言われます。
確かに、意図せず悟りの方から突然やってくるという事例もありますから、そのように言われるのも全く見当外れという訳でもないのだろうと思います。

しかし敢えて言うと、私はその考えは間違いであると考えています。
私は、意志の力で悟りの行程に入り、最後まで進んでいけると考えています。

なぜなら、悟りとは、自らが握り締めている囚われ(考え)を手放していくことなのです。
自らが握っているのですから、それを手放すのも自らの意志で出来るのです。
自分は囚われを手放していくんだと決意すれば、手放しが進んでいくのです。
最後の解脱にしても、もう自分は逃げないと決めれば、根本苦と対峙し、それに浸り切ることもできるのです。

これはとてもシンプルで明解なことなのです。


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存在と苦

2024年07月28日 09時42分33秒 | 悟り
◇存在と苦◇


私という意識の活動は、苦を何とかしようとするところから起こっています。
苦が私という意識の活動の源泉なのです。
苦しいと思い始めた頃から、苦を何とかしようとするもがきが始まり、そのもがきがさらなる苦を生じさせ、さらにもがくようになると言った具合です。
もがけばもがく程苦しくなるのですが、もがいている当人はそれがわかりません。

私という存在そのもの、意識そのものが苦なのです。
存在とは意識であり、世界ですから、世界そのものが苦なのです。
ですから、苦は常にあるものであり、どうにもならないものなのです。


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執着と苦

2024年07月26日 18時03分42秒 | 悟り
◇執着と苦◇


私たちは往々にして何かにしがみ付き、執着します。
それはどうしてなのかと言うと、苦しいからです。
何かにしがみ付くのも、何かを求めて彷徨うのも、苦しいからです。

しかし、何かにしがみ付いているときは、その苦がわからなくなるのです。
しがみ付くこと自体大変な苦なのですが、しがみ付くことに必死になる余りそういうこともわからないのです。


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希望と苦

2024年07月21日 10時42分47秒 | 悟り
◇希望と苦◇


私という意識は、どうして彷徨うのでしょう。
そこには、漠然とした希望があります。
何か素晴らしいことがあるのではないかという期待です。

ではどうして、私たちは希望や期待を持ってしまうのでしょう。
そこには、不足感や虚しさといった苦があります。

まず初めに苦があり、その苦をどうにかしようとする展開が起こります。
しかし、そうした展開もまた苦であり、止めどなく苦が連鎖し、拡大していきます。


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苦と反応

2024年07月14日 17時41分49秒 | 悟り
◇苦と反応◇


今回は、苦と反応という切り口で書いてみたいと思います。

まずは、わかりやすいところから。
あなたが痒みを感じて、それを手で掻いたとしましょう。
このとき、あなたは痒みという苦を感じ、それを解消すべく手で掻いた訳です。

では、あなたが何気なく手を動かすときはどうでしょう。
あなたは、その手をどうして動かしたのでしょう。
あるいは、あなたの手はどうして動いたのでしょう。
手に限らず、何気に脚を組んだときや、脚を組み替えたときは、どうでしょう。
そこに、何らかの苦があったのではないでしょうか。

目に映った映像や耳に入った音に対してあたなの意識が反応するときも、同様の展開が起こっています。
あなたが気になったその映像や音は、苦ではありませんか。
あるいは、あなたのその意識の動きも、苦ではありませんか。

苦は、日常のあらゆる事象や、意識の動きに見ることができます。


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食べることと苦について

2024年07月12日 14時08分04秒 | 悟り
◇食べることと苦について◇


暫く、苦について徹底的に書いていこうと思っています。
今回は食べるということを題材に、苦について書いてみようと思います。

空腹感に気づいたとき、空腹という苦が発生します。
この空腹という苦は、何かを食べることでそれが満たされるまで続きます。
その過程をさらに詳細に観察していきます。

空腹時に何かを食べているときは、素直に幸福感を感じやすいものです。
しかし、ことはそう単純なものではないのです。
食べている途中は、食べることによる味覚や満足感が生じていますから、感覚がそれなりにプラス方向に底上げされており、苦を感じ難いことが多いです。
しかし、食べながらも、もっと食べたいとか、もっと美味しいものを食べたいとか、お金のことが気になったり、と私という意識は忙しく活動し、それが苦を生じさせます。
そして、食べ終わるのに伴い、満足感は喪失感に変わっていきます。

食べるということについて、さらに追及すると、私たちは生きるためには食べなければならず、生きている限り、この「食べる」ということに付き合わざるを得ない訳です。
ここにも、食べるということの苦の側面を見つけることができます。


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禅の悟りについて

2024年07月01日 16時59分46秒 | 悟り
◇禅の悟りについて◇


今朝のブログツイート記事でも書いたのですが、悟りについて情報や意見の交換や、試し合い等も含めて、多くの方とやり取りが出来たらと考えています。
仏教系、非二元系、独覚の方など、系列にかかわらずオープンにやりとりができたらと考えています。

と言いながら、また禅の悟りを批判する記事を書くのはどうなんだろうと思うところもあるのですが、改めて禅の悟りについて批判してみようと思います。

つい最近、ある禅系の覚者の方のサイトを読む機会がありまして、そこには禅系の覚者の悟りや悟ったときの様子がいくつか例を挙げて書かれていました(この場では、そのサイトに関する具体的情報は伏せさせてください)。
それで、彼らの悟りがさらに明確にわかった部分がありまして、それをもとに今回の記事を書いてみようと思った次第です。

彼らの悟りには、なぜか共通する特徴があるようなのです。
どういう特徴かと言いますと、まずは頓悟であるということです。
次に、その頓悟が起きるときの様子です。
具体的には、座禅中や掃除など何かに取り組んでいるときに(このとき、思考や認識機能が抑制され、取り組みになり切っていることがポイントであるようです)、小鳥の鳴き声等の音や現象(実際は何かの音が多いようです)を切っ掛けに、悟るというものです。
悟ったときの様子を表す言葉としては、事実に気づくとか、ことが起こっているだけなんだとか、そのまんまとか、その他、自我の喪失、脱落等に関する言葉が用いられるようです。

このような悟り体験をどう捉えるかですが、私は以前から指摘している通り、やはり主客の統合体験の一種であろうと考えています。
通常の感覚や理解では、この世界について、私という主体と、その私が五感を使って認識している対象(客体)とが独立して存在しているように理解しています。
しかし、悟り体験をしなくとも、我々が事物を認識するという現象について、それがどういうことなのか突き詰めて見ていくと、そもそものところで、主体と客体が別個に存在しているかのように感じるのは、我々の錯覚であることがわかるのです。
ですから、悟りの行程を歩んで行くと、自ずと主客に関する錯覚に気づくようになり、それに伴う握り締めている囚われの手放しが起こるのです。
補足しますと、主客の統合という表現がしっくと来ない方には、何かを観ている観照の視点の脱落が起こるという表現の方がわかりやすいかもしれません。

個人的には、禅者の悟りが凡そわかったのではないかと思っています。
(このことを含めて、ご批判等がありましたらお受けしますので、ご意見や情報等、コメント欄等にお書きいただければと思います。)

それで、です。
問題は、彼らの悟りはそれで本当に決着しているのか否かです。
彼らは、すべてそのまんまなどと言い、何かを求める衝動もピタッと止まったと言ったりするようです。
私は、本当にピタッと止まったのか、あるいはそれが持続しているのか疑問だと思っています。
それなりに大きな悟り体験があった直後は、とてもスッキリした感覚になったり、納得した気分になったり、探求に対する衝動が止まったりするものですから。

むしろ、そんなことどうでもいいのです。
悟ってどうなった、こうなったなんていうことより、私は、彼らがその悟りで何を悟ったのかが重要であると考えています。

もったいぶらずに短刀直入に書くと、彼らはまだ苦を悟ってないのです。

苦を悟るには、もう一度、私という自我を捉え直し、未だなおもがき苦しんでいる自分自身と向き合う必要があるのです。



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空を批判する

2024年03月03日 10時03分38秒 | 悟り
◇空を批判する◇


仏教で使われる概念に、空というものがあります。
今日は、その空を批判します。

空は、日常的な概念について説明するためにわざわざ導入された概念ですが、この空という概念を持ち込むというやり方そのものが既に筋が悪いのです。

そもそものところ、一切のことがらは説明をすることが不可能なのです。
よりわかりやすく言うと、一切のことがらは説明を尽くすことができないのです。
ですから、空という概念を持ち込んだところで説明できないという状況には変わりないのです。
むしろ、いたずらに概念を増やすことで余計ややこしくなってしまうだけです。

わざわざ空なんて概念を持ち込まなくても、日常的な概念を使って同程度の説明は十分にできるのです。
むしろ、空を持ち込まない方が、ややこしくならずに、よりわかりやすくすっきりとした説明ができます。
ここはとても大切なところです。


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悟りと覚悟

2024年02月21日 12時21分16秒 | 悟り
◇悟りと覚悟◇


悟りよりもまず先に、生きること、人生への取り組みがあります。
悟りは、生きるという営みの中の一要素に過ぎません。

ですから、悟り云々の前に、如何に生きるか、生きる姿勢が重要です。
私はこの点について、自身の本心に向き合って生きることが大切だと繰り返し書いてきました。
しかし、それは実際にはなかなか難しいようです。

どうして難しいのか。
何が難しくしているのか。
もっと言えば、何が足りないのか。

私は、次の二つに集約されるのではないかと考えています。
一つは、後悔しないという決意(あるいは、後悔しないようにするという決意)。
もう一つは、どんな人生になろうと受けて立つ覚悟(あるいは、どんな人生でも受けて立つ覚悟)。

特に、上の二つ目の覚悟が要になっていると考えています。

多くの方々は、その覚悟が足りないのです。
覚悟が足りないから、本心にも向き合えないし、生き方も定まらないのです。
だから、生き切れないし、死に切れない。

とは言え、これもまた難しいことです。


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生きることは悟ることより難しい

2024年02月06日 09時31分53秒 | 悟り
◇生きることは悟ることより難しい◇


悟りというと、それがとても大きなものであり、人生の最終目標であるかのように考える方がおられますが、それは誤解です。

悟ることが人生の目的となることはありません。
あくまでも、生きることそのものが目的なのです。

悟りを余り過大に評価しないでください。
悟りは人生の営みに含まれる一要素に過ぎません。

悟りに崇高さを感じるのは、悟りが崇高だからではありません。
それは、生きることそのものの崇高さを感じているのです。

悟りに難しさを感じるのは、悟りが難しいからではありません。
それは、生きることそのものの難しさを感じているのです。

生きることは、悟ることより難しいのです。


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精神の成長と恐怖心

2024年01月04日 14時22分02秒 | 悟り
◇精神の成長と恐怖心◇


精神の成長度と恐怖心には相関があります。
精神が成長するに連れ、種々の恐怖心も薄くなっていきます。
恐怖心が強いうちはまだまだ子供であり、精神的に独り立ちもできません。

精神が成長し、大人になり、諸々のことを経験すると、自ずと悟りの道に入っていきます。
それでも、最初の頃はまだいくつかの恐怖心を残しています。
死に対する恐れや、得体の知れないものに対する恐れや、存在が消滅することへの恐れなどです。

上に具体的に挙げた三つのうち、意外にしぶとく残るのが実は二つ目の恐れなのかも知れないと思います。
その二つ目の恐れの有無を確かめる方法があります。
それは独りきりで暗闇で行う瞑想です。

それをやっていると、突然自己の妄想が渦を巻くように拡大し、耐えられない程の恐怖心が起こることがあります。
瞑想をやってみて、自分は大丈夫だと思っていても、続けているうち、突如としてそのような恐怖心に襲われることがあります。

恐れは自身の心の中に潜んでいます。
腹を括って自己に意識を向け続けることで、乗り越えることができます。


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予定された覚醒

2024年01月04日 09時10分03秒 | 悟り
◇予定された覚醒◇


悟りに入る切っ掛けの一つに覚醒があります。
その覚醒には、ひょっとすると予め予定されたものがあるのではないかと考えています。
時限装置が起動するようにしてあるタイミング、あるいはある状況が訪れると、自発的に覚醒が起こるというような。

例えば、2012年の暮れに私自身に起こった明け渡しも、その可能性があると考えています。
あのとき、2012年が終わりに近づいた頃、ネットでチラッと見たマヤ暦の終わりのことがなぜか急に気になりだし、急にソワソワし始めたのを覚えています。
そして、明け渡しが起こる何日か前からデジャブが起こっているかのような体験や妙な心理状態となり、その日を迎えました。

また、もしそのような予定された覚醒があるとすれば、それは前世の悟りと関係しているのではないかと考えています。
おそらく、前世で悟った悟り階層までは、今世でも割とすんなりと到達するのだろうと考えています。
そして、そのタイミングもある程度予定されて生まれてきている可能性があると。

なぜこのタイミングで、私がこのような話題を記事に書くのか。
ひょっとすると、このタイミングで、この日本に、予定された覚醒が訪れようとしている方々が複数おられるのではないか、というインスピレーションが今さっき起こったのです。
私の言うことは、いつものように当てにはなりませんが(笑)。

今このタイミングで目覚めようとしている方は、ひょっとすると意外な程沢山の方がおられるのかも知れません。


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存在への執着と解脱

2023年10月20日 11時09分20秒 | 悟り
◇存在への執着と解脱◇


私たちは、途方も無い数の転生を繰り返し、それぞれの今に至っているのだろうと考えています。
悟りの行程に入る前はもちろん、悟りの行程に入った後も、おそらく幾世もかけて悟りの行程を進んで行くのだろうと考えています。

なぜ、悟りの行程に入ってからもその歩みに幾世もかかってしまうのかと言うと。
悟り始めても尚、悟りの階層ごとにものの見え方や感じ方が変わるため、階層ごとに人それぞれやりたいことや、やるべきことがいろいろあり、それを一通りこなさないと先に進めないのです。

そして、ああでもないこうでもないと一通りのことをこなし、いくらやっても切りがないことに気づき、飽きが来るというか、これ以上続けることに嫌気がさすようになって初めて、解脱へと向かうことになるのだろうと考えています。
なぜなら、そうじゃないと存在することへの執着が切れないからです。

悟りの行程を歩んでいる方々も含めて殆どの方は、存在することへの執着が残っています。
まだやりたいことが沢山あり、存在を続けることが喜びであり、幸せなのです。
そのような方々には、私(慧空)の言うことは耳に入りませんし、解脱も必要ないのです。

諸々の取り組みへの興味がそれなりに落ち着き、存在を続けることに飽きが来、嫌気がさすようになって来て、やっと存在そのものの苦に目が向くようになります。


実はコロナで療養中(たぶんもう4回目(T_T))で弱っておりまして、エネルギーが足りず、上手くまとまりませんが、せっかく書いたのでアップします!


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「それそのもの」という囚われについて

2023年09月29日 15時03分42秒 | 悟り
◇「それそのもの」という囚われについて◇


確か以前にも、似たようなタイトルで記事を書いたように思いますが、もう一度で書いてみようと思います。


「それそのもの」とは禅系の覚者がよく使う言葉です。
これは、それに対するの批判記事です。


彼らは「それそのもの」とか、「それに成り切る」と言います。
そして、それを目標(目標という言い方に語弊があるかもしれませんが)に修行すると、幾人かはそのようになるようです。

しかしそもそものところ、その「それそのもの」が囚われになっているのです。

それはなぜか。

「それそのもの」がある特定の状態を表しており、概念だからです。
つまり、彼らはまだ「それそのもの」という状態に囚われている、執着しているのです。

そこに何かピンと来るか、違和感を感じられないことにはどうにもなりません。



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