私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

苦の雨に寄る辺なし

2023年09月18日 07時49分01秒 | 悟り
◇苦の雨に寄る辺なし◇


私たちは常に何かを求めています。
これが私たちの性です。

悟りに対してもそうです。
何かを探し求めてしまう。

どこかに安住の地があるのではないかという期待を捨てきれないのです。

最後の最後まで捨てきれない。
私とはそういうものなのです。

最後の最後まであがき続け、疲れ果て、どうしようもなくなって、諦めざるを得なくなるというか、やっと諦めが付くようになるという具合です。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
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現象と観照は一体

2023年09月08日 10時28分03秒 | 悟り
◇現象と観照は一体◇


今回は、観照(観照意識)について少し切り口を変えて書いてみたいと思います。

まず、観照意識について改めて説明します。
観照意識とは、ものごとをただ観ている意識要素であり、通常は様々な思考や感情に遮られて気づきにくいですが、それなりに囚われが減り、思考や感情が減ると自然と意識の表層に現れてきます。
その観照意識に気づき、観照意識を捉えることで、小悟となります。
観照意識を捉えるとは、私がその観照者であることに気づくことです。

この観照という現象は、悟りに関係なく、またどんなに深く悟ろうと、無くならないのです。
目が覚めているときはもちろん、寝ているときも、続いています。
唯一の例外として、一切の現象が消滅する滅尽定(涅槃)に落ちているときだけ、現象の消滅に伴って消滅します。

なお、大悟に至ると、誤認又は錯覚から生じていた主体と客体の分離が解消され、世界を、主客の分離の無い一つの現象(正確には、識の連鎖)として捉えられるようになります。
小悟の段階では、観照の視点が主体側にあり、観照の視点と客体である対象との間に分離感があるのですが、大悟に伴って、主体側にあった観照の視点の脱落(正確には、脱落したような感覚)が生じ、あたかも観照そのものが脱落したかのように感じることがあると思います。

しかし、それは錯覚です。
観照が脱落したのではないのです。
観照は、連鎖的に展開する識に一体となって続いています。

なぜなら、相変わらず、否応なく展開していく現象が見えている訳ですから。

そもそも、観照とは現象というものに一体となって含まれているものなのです。


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悟りと合理性

2023年08月27日 13時59分09秒 | 悟り
◇悟りと合理性◇

今回は、悟りと合理性について書いてみたいと思います。

私という存在は意識であり、この世界そのものなのですが、その意識は意外なほど合理的に出来ています。
おそらく正しくは、もともとの意識の特性として合理性に相当するものが先にあって、そこから我々の考える合理性という概念が生じたのだろうと思います。

ともあれ、私という意識は合理的に出来ています。
そのため、自ずと悟りにも合理性があり、理に適っているか否かという観点は、悟りの行程を歩む際にも非常に役に立ちます。

例えば、「悟りとは私(自我)を滅することである」なんてことがよく言われますが、理の観点から観れば、自我を滅するということが理に適っておらず、そもそもあり得ないことであることがわかるのです。
あるいは、理の観点が育っていれば、自我を滅しようとするのは筋が悪い、もっと言えば無理筋であることがわかるのです。

私たちは、どうして迷うのか。
それは、私という存在の根本に迷いの衝動があるからです。
その迷いの衝動が、考えを自らに囚われとして握り締めさせることで、起こってくる現象にその囚われが連鎖的に反応するからです。
根本の迷いの衝動とは、苦を何とかしようとする、苦から抜け出そうとする衝動です。
私という存在の根本では、この迷いの衝動が激しく振動するように常にうごめいています。

ですから、悟りの行程を歩む際は、まずは自らが握り締めている囚われを手放していくことになります。
その際、自覚等のやり方で私に意識を向けることで、自らが握り締めてしる囚われに気づきやすくなります。
自らが握り締めている囚われに気づけば、解けるようして囚われの手放しが生じます。

そして、凡そすべての囚われを手放し切ると、私という存在の根本と向き合うことになります。
その際も、自覚等のやり方で私に意識を向けることで、自らに生じている迷い衝動に気づきやすくなります。
その衝動に気づくことができれば、迷いの衝動がすっと収まります。
これが解脱です。

理に適っているか否か、理の観点から違和感はないか、本当に納得できたか否か等、自分をごまかさないよう慎重に確認し、歩んでいただきたいと思います。


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私が無いと言うのも、私があると言うのも間違い

2023年08月19日 20時24分33秒 | 悟り
◇私が無いと言うのも、私があると言うのも間違い◇


私が無いと言っても間違いであり、私があると言っても間違いなのです。
私には実体が無いと言うのが正解なのです。

大悟まで至ると、このあたりことが凡そスッキリとわかって来ます。
腑に落ちてしまえば、とてもシンプルかつ当たり前のことなのですが、簡単なことではありません。
見当違いやわかったつもりなど、何度も何度も(おそらく何世も何世も)繰り返し、やっとわかることなのだろうと思います。

なお、ある無しの問題は、私に限ったことではありません。
一切のことがらについてそうなのです。
私を含む一切のことがらについて、あるとも言えないし、無いとも言えないのです。
実体が無いと言うが正しいのです。



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そもそも私とそれ以外の事象を分けられるのか

2023年08月17日 20時14分40秒 | 悟り
今日も、「私が無い」と言う覚者たちへの批判記事を書きますw
もうね、これはライフワークですね(^O^)


◇そもそも私とそれ以外の事象を分けられるのか◇


悟って私が無くなったなどとたわけたことを言っているものは、何が足りないのかと言うと、私という意識に対する追及が足りないのです。

この世界の事象について、そもそも、私というものと、それ以外の事象とを分けられるものなのか。
私無しに(特に、私に含まれる認識作用無しに)、この世界の事象が成立し得るものなのか。

軽はずみに「私は滅した(悟った)」などと言ってしまう前に、まずはこのあたりのことをもっと追及し、確かめるべきなのです。



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悟りのかたちに囚われない

2023年04月14日 09時32分39秒 | 悟り
◇悟りのかたちに囚われない◇

昨今、ネットや書籍を通じて悟りに関する情報へのアクセスが容易になっています。
私のこのブログもそうです。

一切のことがらは一長一短ありますから、そのような情報に触れることにも一長一短あります。
その情報が誤ったものである場合は勿論ですが、正しいものでも弊害は必ずあります。

一番の弊害は、答えを先に知ってしまうことにより、悟りに関するかたち(概念)が出来上がってしまうことです。
答えを先に知ってしまうことで、そのかたちに自分をはめ込もうとしてしまうのです。
悟りの行程は、こうあるべき等の既存の枠組みから脱却していくものであるはずなのに、知らないうちに新たな枠に嵌ってしまうことになり兼ねないのです。

外側から入る情報には答えはありません。
どのような情報もヒントに過ぎません。

どうぞ、悟りのかたちに囚われないようにしてください。
見聞きした悟りのかたちに、自分をはめ込もうとしないでください。

あなた自身に意識を向け、あなただけの答えを見付けてください。


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無我をめぐる誤解

2022年09月26日 20時30分34秒 | 悟り
◇無我をめぐる誤解◇

これまで無我をめぐる誤解について何度か記事を書いてきましたが、今回はそれらをひとつにまとめてみようと思います。

一つ目は、無我とは私がないことであるという誤解です。
原始仏教等で悟りの三要素として、無常、無我、苦が挙げられることがありますが、この無我とは、私(自我)がないという意味ではないのです。
この無我とは、一切に実体がないという意味なのです。
自我との関係で言えば、無我には私という実体がないことも含んでいます。
なお、私という実体がないことと、私がないは、意味が異なります。

二つ目は、私がないの誤解です。
悟りに関連した体験に伴って、私がなくなったような感覚(錯覚)が生じることがあります。
このような錯覚は、悟りの行程をある程度の幅で一気に進んだときに起こりやすいです。
悟りの行程を一気に進むと、自我感覚の希薄化が一気に進むため、そのギャップ感により私(自我)が消失したかのような錯覚が生じます。
このような現象は、例えば明け渡しや一瞥と言われる体験や、禅の頓悟などの体験に伴って生じます。

実際には、涅槃(滅尽定)時の例外を除いて、私(自我)がなくなるということは起きないのです。
なぜなら、私(自我)の基本要素には何かを認識するという働きが含まれているのですが、この認識という働きは、自己の意識が活動を続けている限り、なくなることはないのです。
そして、この認識という働きは、涅槃(滅尽定)に落ちて意識が完全に途絶している間以外は、常に活動し続けています。
ですから、涅槃(滅尽定)に落ちているのでもないものが、私(自我)がないと言うのは、間違っているのです。
自身の自我の活動が続いているのに、それを見落としているのです。
まだ私という存在に対する追及が尽くせてないのです。

三つ目は、悟りの終着点が無我(私(自我)がないという意味での無我)であるという誤解です。
この誤解は、上記の二つ目の誤解と関係しています。
悟りの終着点は、「私(自我)がない」ではないのです。
そもそも、「私(自我)がない」という理解そのものが誤解ですから、そのような誤解により決着するなんてことはあり得ないのです。

また、悟りの終着点は、原始仏典の言う無我でもありません。
悟りの決着には、根本苦に向き合う必要があります。


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最後は私に戻る

2022年04月17日 20時31分55秒 | 悟り
◇最後は私に戻る◇

どんなに深く悟ろうと、最後は日常の私に戻っていきます。
私についてどんな観点から悟ろうと、日常の私は大した変化のないままあり続けます。
私というものに付き合っていくしかないのです。

大人しくなることはあっても、思考や感情はやっぱりあるし、何かを考えようとしたり、しようとする発意も相変わらず残っています。
心の動きにまとわりつくように生じるわずらわしさというか、苦の感覚もやっぱり残ります。
私とは何なのか、なぜ私があるのかも、やっぱり分からないままです。
日常の素直な観点から私を観たとき、これが私に関する素直な感覚というか、実感です。

この私に関する日常的な実感は、悟る過程、あるいは悟りの行程を歩む過程では邪魔になることがありますが(注:悟りの行程の歩み方によっては邪魔にはならず、むしろ中心的な道しるべになります)、最後は否応なく、またここに戻ってくるという意味でも、より本質的な私観と言えるかも知れません。

各方面の覚者の皆さんは、いつまでも自分の悟りにしがみ付いていないで、改めてこの現実に向き合うべきではないかと思います。

何が言いたかったのか、自分でもいまひとつまとまらず不満なのですが、このままアップしてしまいますw


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私は無いという誤解と涅槃

2022年04月14日 11時05分14秒 | 悟り
◇私は無いという誤解と涅槃◇

悟りの行程をそれなりに進むと、あたかも私が無いと感じるポイントに至ります。
これにはあたかも認識が無くなる、あるいは起こらなくなるという現象、あるいはそのような感覚を伴います。
認識主体の欠落、あるいは欠落感を伴う場合もあると思います。

皆さんここで、私は無いという考えに嵌まりこみ、それを掴んでしまいます。

認識が無い、あるいは起こらないと言うには、それを認識している意識が微弱でも起こっているはずなのですが、なぜか皆さんそこに気づけないというか、そこから目を背けてしまいます。
そして、認識が無いとか、私は無いという考えに嵌まりこんでしまう。
それはどうてしなのか。

私(慧空)の場合、認識が無い等の考えに嵌まり込むことはありませんでした。
それはなぜなのか。

改めて考えてみました。

要因の一つは、自覚ではないかと考えています。
私の場合、明け渡し体験後に始めた自覚の取り組みにより、私に意識を向けることが身についていましたので、あたかも認識が起こっていないかのような体験のときにも、認識が起こっていることに気づけたのかも知れません。

もう一つの要因は、涅槃の体験ではないかと考えています。
ここでいう涅槃とは、完全な意識の途絶状態のことで、眠っているのとも違いますし、気を失っているのとも違います。
眠っているときは必ず何らかの夢を見ており、意識の展開は続いています。
気を失っているときも、夢を見るような形で意識の展開は続いています。

私は、大悟に至る前に、認識を含めて意識が完全に無くなるということがどういうことかを涅槃の体験から分かっていたのです。
このため、「観る者は観られるもの」の体験に伴って認識主体の欠落(正確には欠落感)が生じたときにも、それを認識している微弱な意識、つまり認識が残っていることに気づけたのかも知れません。

これまでは、悟りの行程の進展に涅槃の体験は余り関係無いと考えていました。
しかし、多くの方が私は無いという考えに嵌まり込んでしまう状況を見ると、涅槃の体験の有無が悟りの進展に関係している可能性があるかも知れません。


<補足(2022年4月15日)>

涅槃について、意識が途絶した状態を認識しているのなら意識が完全に無くなっているとは言えないのではないかとのご質問を頂きましたので、説明を補足します。
涅槃が起こっている間は、意識が完全に途絶してますので涅槃という現象を認識することはありません。
涅槃が終わって再び意識が起こった瞬間に、意識が途絶していたことに気づくのです。
最初はそれが何なのかよく分からないだろうと思います。
何度か経験するうちに、寝ていたのとも違うし、気を失っているのとも違し、それに息も止まっているしということで、完全に意識が途絶していたことがなんとなく分かってきます。


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非二元の悟りと無常、無我の悟り

2022年04月11日 22時16分15秒 | 悟り
◇非二元の悟りと無常、無我の悟り◇

今回は、非二元の悟りと無常、無我の悟りについて、改めて書いてみたいと思います。

悟りも無常、無我まで来るとそれなりに絞られてくると言いますか、バラつきが減ってくるのですが、非二元は概念も人それぞれで、悟りのバラつきも大きいようです。
そこでここでは、良い悪い等の二元の囚われが大体無くなり、思考が減り、ただ観ている意識である観照意識がそれなりに確立した悟りを非二元の悟りと言うことにします。

まず言えることは、非二元の覚者はまだ囚われや思い込みがそれなりに残っており、言葉の端々にそれが容易に見て取れます。
例えば、「真我」、「全体」、「光」、「恒久」、「不滅」、「不変」などの言葉がそれです。
無常、無我まで悟ると、囚われや思い込みが大方無くなっているため、そのような言葉は決して出て来たりしません。

さらに、非二元の覚者は世界を観照している観照の視点と言いますか、認識の主体と言ってもいいですが、それがまだ残っています。
無常、無我まで悟ると、観照の視点が落ちると言いますか、認識主体の欠落が起こると言いますか、それらの質的変化が生じます。
無常、無我を悟る過程で、「観るものは観られるもの」の体験が起こる場合がありますが、非二元の覚者はそれも未だなのです。


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無常、無我と禅の悟り

2022年04月11日 20時34分53秒 | 悟り
◇無常、無我と禅の悟り◇

つい最近、ユーチューブの動画リストに自動的に挙がってきた動画を観ていると、その中に禅の覚者の動画があり、それについて思ったことを書いてみようと思います。
いつものように偉そうな感じで恐縮ですがw

禅者も、無常、無我を悟るようです。

しかし、まだ足りないのです。
禅系の悟りの型に嵌ってしまうのか、禅の意識の使い方の限界なのか、その先の進展がなく、そこに留まってしまうようです。

何が足りないのか言いますと、それは「私」への追及です。
ことが起こっているという気づきのところで止まってしまっていて、私への振り返りが無いのです。

禅でも自覚でも、私が無いことを悟るときは、自我の要素である何かを認識する認識主体が無いことに関する気づきや理解を伴います。
また、悟りに伴って自我感覚の急激な欠落感や質的な変化も生じます。
ここがややこしいところであり、難しいところで、無我を悟った者がそこで留まってしまったり、嵌ってしまうのも無理は無いのですが。

禅者は、そもそも私が無いのだから、振り返りようがないと言うでしょう。

しかし、本当にそれで終わりにしていいのでしょうか。
私は無いということで、片づけてしまっていいのでしょうか。

認識や意が起こらないと言うかもしれませんが、本当にそうでしょうか。

確認が足りないのです。
追及が甘いのです。

認識が起こらなくなるということがどういうことかを、もっとしっかりと追及して頂きたいと思うのです。
認識が起こらないなんてことは、軽はずみ言える筈がないのです。

本当に意が起こっていないか、もっとしっかりと確認して頂きたいのです。

確かに、無我の悟りの観点からは、意は有りません。
しかし、無我を悟ってもなお、相変わらず自分の手を動かしているのはあなた自身、あなたの自我ではありませんか?
本当に、ことが起こっているということで済ませてしまっていいのでしょうか。

私を振り返ることができれば、次の行程へ繋がっていきます。


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自我と悟り

2021年08月28日 20時36分52秒 | 悟り
久しぶりに悟りに関する記事を書きます。
昨晩暇に任せてネット動画を観ていたら、偶々悟り系の動画に出くわし、気になったというか、気が向いたので書くことにしました。


◇自我と悟り◇

悟りの行程を歩む過程で、無我を実感したり、理解することがあります。
それで皆、悟った気になってしまいます。

確かに、全てに実態はありませんから、自我にも実態はなく、自我は幻のような自我感覚があるだけです。
その理解は間違っていません。
しかし、だからと言って自我を軽視してしまうのは違います。

だってそもそものところ、悟るのは誰ですか?
そうやって無我を悟ったのは誰ですか?

あなたという自我でしょう?
そのような体験や理解をしたのも、あなたという自我でしょう?

早合点せず、もう一度しっかり見直し、確かめて頂きたいと思います。

そのマウスを操作する手を動かしているのは、誰だ!!


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真我に気づく

2019年12月19日 14時56分31秒 | 悟り
◇真我に気づく◇

このブログの2014年2月6日に「真我覚醒方法について」という記事があります。
この記事の内容の不味さは当時から分かっていたのですが、えいやっと書いてしまって、その後ずっと放置していました。
気が向いて、その記事に補足のコメントを入れました。
これに伴って、真我の覚醒やその方法について、改めて記事にまとめ直してみることにしました。


まず、真我とは何かについて。
私は、真我とは観照意識であると捉えています。
観照意識とは、六根(五感と意)を通して起こってくるこの世界をただ認識している(ただ観ている、ただ感じている)意識のことです。
観照意識は、悟りの行程がある程度進み、囚われが減り、それに伴って思考が減ってくると、自然に意識の表層部に現れてきます。
真我に覚醒するとは、その観照意識に気づくということです。

では次に、その真我に気づくための方法についてまとめてみたいと思います。

多くの方々は、肉体こそが自分だと思い込み、その肉体を中心に繰り広げられる日常の様々な現象に過剰に反応し、思考や感情に翻弄されます。
それを延々と繰り返します。

どうして、そのようになるのか。

それは、肉体との一体化(執着と言ってもいいです)が強く、私という存在に占める肉体のウエイトが過大になっているからです。
目や耳から入る映像や音、あるいは自己の内面から起こる感情や思考のウエイトが過大であるため、私という存在が肉体そのものであるかのような錯覚が生じてしまうのです。

真我に気づくための方法はあるのか。
私は、その方法としてやはり自覚が一番有効だろうと考えています。

まず最初の段階で、自覚を通じて私に意識を向けることを学びます。
そして、例えば、何か考えや感情が浮かんできたときに、「この考え(感情)は私がつくったんだ」とできるだけ一つずつ丁寧に確認する作業を繰り返すことで、肉体、考えや感情と私との距離感、分離感を養っていきます。
これによって、現象によって思考や感情が湧き起こりそうになったとき、それに翻弄されくくなっていきます。

さらに自覚を進め、起こってくる現象や考え、感情と私とは別のものであるという分離感が確立されてくると、その現象や考えを観ている自分自身に気づけばいいのです。
真我の気づきのポイントは、ここです。

誰がそれを観ているのか。
それを認識しているのは、誰なのか。

ここに気づくようになると、観照意識が段々と確立されていきます。


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最終的な認識者は誰か

2018年10月01日 10時37分55秒 | 悟り
◇最終的な認識者は誰か◇

このブログで何度も言っていることですが、改めて書きます。

悟りの行程においてよく起こることとして、自我感覚が薄くなったり、自我の喪失感が起こることがあります。
このようなことは、悟りの行程を歩む途中で1回ではなく、何度か起こるものだろうと思います。
私自身にも2回ほどありました。
1回は明け渡しを体験したときで、もう1回は大悟に至ったときです。

そのような経験をした方の多くは、その強烈な体験や感覚に衝撃を受け、その体験や感覚に囚われてしまいます。
そして、自らの自我が消失したと誤解してしまいます。
また、その状態が悟りの究極であると錯覚したり、思い込んでしまいます。

有頂天になり、そう思い込みたい気持ちは分かります。
しかし、一度立ち止まり、自らの状態の理解に対し、本当にそれで合っていると言えるのか、ごまかしはないか、冷静に観察し、吟味して頂きたいと思います。

吟味する際の切り口には、いくつかの切り口があるのだろうと思います。
その中で、私としては、
「最終的な認識者は誰なのか」
という切り口を提案したいと思います。

もしあなたが、自分の自我が消滅したと感じている、あるいは考えているのなら、そう感じている、あるいは考えているのは誰なのか、徹底的に追求し、検証してみてください。
その認識をあなたの自我がやっているのでないのなら、それをやっているのは誰なのでしょう。
あなたの自我以外に、本当にそのようなことをしているものがあり得るのでしょうか。
ごまかしがないよう、徹底的に追求し、検証してください。

最終的な認識者は誰なのか。

この問いは、とても素朴でありふれたものでありながら、私という存在の本質に突き刺さります。


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悟りを外に求めない

2018年03月31日 09時58分51秒 | 悟り
◇悟りを外に求めない◇

悟りを外に求めない。
これは、悟りを求めている方々、特に悟りに関する情報を求め、接しておられる方々に申し上げたい。

どうか、悟りを外に求めないでください。
手っ取り早く見つけた答えに、自分をはめ込もうとしないでください。

外に求めても、そこに悟りはありません。
迷い彷徨うばかりです。

意識を外ではなく内に向け、あなただけの悟りを見つけてください。
結局のところ、そうやっていくしかないことに気づいてください。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。


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読んで頂いてありがとうございました。

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