見性体験談の最後に、見性後の私の意識状態の変化などについて書かせていただきます。
見性による意識変化は比較的緩やかに生じる例が多いようでして、特に見性直後の場合、その前後の意識の変化について実感が薄い方も少なくないようです。
私の場合もまさにそうで、見性の前後で何か変わったかと見性直後に訊かれれば答えに困っていたと思います。
でも、変化を実感しにくいだけで、大きな変化はあったのです。
それは、大いなる存在の視点を得られたことです。
大いなる存在の視点とは、肉体の私の視点とは別の視点であり、私自身を客観的に観ている視点のことです。
大いなる存在の視点を得られたことの実感が薄く感じられるのには、理由があったのです。
それは、見性直前は大いなる存在の視点が肉体の私の視点と分離されて感じられていたのが、見性に伴って、大いなる存在の視点と肉体の私の視点とが融合し、一つになってしまうため、大いなる存在の視点に対する実感が一時的に薄れたからでした。
いまは、大いなる存在の視点を得られたことの意義の大きさについてしっかりと実感しています。
そして、その実感がじわじわと深まっています。
明け渡し後も、見性後も、相変わらず私にはいろんな考え、感情が起こってきます。
また、様々な出来事も起こってきます。
それによって、私が右往左往することもあります。
でもいまの私には、そんな私をいつも観ている大いなる存在の視点があるのです。
そして、例え何があっても、私はただそれらを観ていればいいんだということが分かっているのです。
起こってくることに対し、私がどういう対応を選択ようが構わないのです。
ただ観ていればそれでいいのです。
なぜなら、本質の私は例えどんなことがあっても傷つくこともないし、影響されることもないのですから。
余談として、明け渡しを経験した私がなぜゲートさんのもとで見性について学ぶことになったのかについて、現時点の私なりの考えを書きます。
先に書いたように、私にとって明け渡し体験による意識変化はあまりにも激しいものであり、日常生活に支障を来すほどでした。
明け渡し後、私は自閉症の長男の世話等の家庭でのことは何とか対応できるものの、仕事が殆ど手に着かなくなっていました。
今思うと、当時の私は、家族や仕事に対して自分がどうしたいのかが分からなくなっていたのかも知れません。
あるいは、日常生活から逃れたいという思いもあったのかも知れません。
また、私の心の中で、明け渡しの体験や、そのもとになったすべてを受け入れることに囚われてしまっている部分もありました。
当時の私にとって、そのままではその状態から抜け出すのは簡単ではなく、状態が落ちつくまでにはそれなりの期間が必要だったのだろうと思います。
しかし、私には自分の意識状態の自然な変化を待っている時間はなかったのです。
私は自営業を営んでいますので、もし今後私の仕事が変わっていくとしても、取りあえずはその仕事を維持し、お客さんにも極力迷惑をかけないようにする必要がありました。
また、家庭では家内と協力して息子たちを育てていく必要がありました。
このため、私は、明け渡し後、出来るだけ早く自分の意識を落ち着かせて、それらのことに対応する必要があったのです。
そのための手段として、私の場合、明け渡しから早期に見性を得るという道を選択したのだろうと思っています。
もっと踏み込んで言えば、私は明け渡しによって悟りを得たのですが、その悟りからも自由になり解放される必要があったのだろうと思っています。
それには、見性によるすべては考えであるという理解が有効だったのだろうと思います。
ただ、今年2013年4月に見性を得た後も、仕事に対する意欲が湧かない等の私の意識状態は直ぐには改善しませんでした。
状態が少しずつ改善し始めたのは、5月末にサイマーさんのイベントに参加し、さらにそれから2週間ほど経ってからのことでした。
私の体験談は次回で最後となります。
最終回は、今年5月末のサイマーさんのイベントに参加したときのことや、それに関連することを書かせていただきます。
次は今週水曜日にでも書かせていただきます。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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見性による意識変化は比較的緩やかに生じる例が多いようでして、特に見性直後の場合、その前後の意識の変化について実感が薄い方も少なくないようです。
私の場合もまさにそうで、見性の前後で何か変わったかと見性直後に訊かれれば答えに困っていたと思います。
でも、変化を実感しにくいだけで、大きな変化はあったのです。
それは、大いなる存在の視点を得られたことです。
大いなる存在の視点とは、肉体の私の視点とは別の視点であり、私自身を客観的に観ている視点のことです。
大いなる存在の視点を得られたことの実感が薄く感じられるのには、理由があったのです。
それは、見性直前は大いなる存在の視点が肉体の私の視点と分離されて感じられていたのが、見性に伴って、大いなる存在の視点と肉体の私の視点とが融合し、一つになってしまうため、大いなる存在の視点に対する実感が一時的に薄れたからでした。
いまは、大いなる存在の視点を得られたことの意義の大きさについてしっかりと実感しています。
そして、その実感がじわじわと深まっています。
明け渡し後も、見性後も、相変わらず私にはいろんな考え、感情が起こってきます。
また、様々な出来事も起こってきます。
それによって、私が右往左往することもあります。
でもいまの私には、そんな私をいつも観ている大いなる存在の視点があるのです。
そして、例え何があっても、私はただそれらを観ていればいいんだということが分かっているのです。
起こってくることに対し、私がどういう対応を選択ようが構わないのです。
ただ観ていればそれでいいのです。
なぜなら、本質の私は例えどんなことがあっても傷つくこともないし、影響されることもないのですから。
余談として、明け渡しを経験した私がなぜゲートさんのもとで見性について学ぶことになったのかについて、現時点の私なりの考えを書きます。
先に書いたように、私にとって明け渡し体験による意識変化はあまりにも激しいものであり、日常生活に支障を来すほどでした。
明け渡し後、私は自閉症の長男の世話等の家庭でのことは何とか対応できるものの、仕事が殆ど手に着かなくなっていました。
今思うと、当時の私は、家族や仕事に対して自分がどうしたいのかが分からなくなっていたのかも知れません。
あるいは、日常生活から逃れたいという思いもあったのかも知れません。
また、私の心の中で、明け渡しの体験や、そのもとになったすべてを受け入れることに囚われてしまっている部分もありました。
当時の私にとって、そのままではその状態から抜け出すのは簡単ではなく、状態が落ちつくまでにはそれなりの期間が必要だったのだろうと思います。
しかし、私には自分の意識状態の自然な変化を待っている時間はなかったのです。
私は自営業を営んでいますので、もし今後私の仕事が変わっていくとしても、取りあえずはその仕事を維持し、お客さんにも極力迷惑をかけないようにする必要がありました。
また、家庭では家内と協力して息子たちを育てていく必要がありました。
このため、私は、明け渡し後、出来るだけ早く自分の意識を落ち着かせて、それらのことに対応する必要があったのです。
そのための手段として、私の場合、明け渡しから早期に見性を得るという道を選択したのだろうと思っています。
もっと踏み込んで言えば、私は明け渡しによって悟りを得たのですが、その悟りからも自由になり解放される必要があったのだろうと思っています。
それには、見性によるすべては考えであるという理解が有効だったのだろうと思います。
ただ、今年2013年4月に見性を得た後も、仕事に対する意欲が湧かない等の私の意識状態は直ぐには改善しませんでした。
状態が少しずつ改善し始めたのは、5月末にサイマーさんのイベントに参加し、さらにそれから2週間ほど経ってからのことでした。
私の体験談は次回で最後となります。
最終回は、今年5月末のサイマーさんのイベントに参加したときのことや、それに関連することを書かせていただきます。
次は今週水曜日にでも書かせていただきます。
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読んで頂いてありがとうございました。
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