◇無我、非有非無、無根について再考する◇
少し前の記事で、無我、非有非無、無根は同義であるというようなことを書きました。
しかし、よくよく考えてみて、これらを同義と言うには無理があるということがわかってきました。
今回の記事では、その辺りのことを書いてみようと思います。
念のため再度、これらの意味を書いておくと、下記のようになります。
無我は、一切に実体が無い。
非有非無は、一切について有るとも無いとも言えない。
無根は、一切について根拠が無い。
余談ですが、今回改めて無我について考えていて、無我が一切に実体が無いという意味なのなら、無我じゃなく、「無実」と言った方がいいなぁと考えていたところ、
「無実」 ⇒ 「実が無い」
と連想して、これって「空」と同じ意味だな、と改めて納得した次第です。
「無我」、「無実」、「空」は、意味として同じなのだと納得した次第です。
さらに余談ですが、じゃあ、悟りの用語として、無我でも空でもいいのかというと、私はやはり、無我にも、空にも違和感を感じるのです。
一切に実体が無いと言うのなら、「無我」ではなく「無実」という言葉を使うのが一番しっくりくると思うのです。
よって今後は、無我ではなく、無実という言葉を使っていこうかと考えています。
本題に戻って。
無実(無我)、非有非無、無根に改めて考えていて、これらの意味の広がりは互いに重なっている部分はあるのだけど、それぞれの意味の中心が少しずつずれていることがわかったのです。
なぜなら、これらの要素に関する悟りや理解も、同時に起こるというには無理があり、かなりの部分で独立して起こっているのだろうと思うのです。
実際の私自身の体験からも、そうなのです。
私は、無根については19歳の頃には凡そ理解していたのですが、無実や非有非無の理解は全く無かったのです。
当時の私は、完全な物質主義者であり、種々の物体は実体として存在しているものと考えていました。
また、無実と非有非無との関係についても、大悟したときに無実についてはそれなりにしっかりと悟ったのですが、非有非無についてはまだぼんやりとした部分があったように思います。
で、何が言いたいのか。
仏教の系統では、解脱に関する悟り要素として、無常、無実(無我)、苦が挙げられている訳ですが、これらの悟り要素だけでは解脱には足りない要素があるのかも知れないと思うのです。
つまり、無常無実苦だけでは、非有非無、無根に関する要素がカバーし切れていないのではないかと思うのです。
また、仏教系の覚者の言っていることをちらちらと見ている印象からも、無実(無我)については言及する人はいるのだけど、非有非無については言及がないか、わかっていないような様子の人が多いように思うのです。
無根については、無実がわかってくれば自ずとわかるものでしょうが、非有非無についてはどうでしょう。
私たちは、必須の悟り要素として、非有非無についての再認識が必要なのかも知れません。
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