◇「それそのもの」という囚われについて◇
確か以前にも、似たようなタイトルで記事を書いたように思いますが、もう一度で書いてみようと思います。
「それそのもの」とは禅系の覚者がよく使う言葉です。
これは、それに対するの批判記事です。
彼らは「それそのもの」とか、「それに成り切る」と言います。
そして、それを目標(目標という言い方に語弊があるかもしれませんが)に修行すると、幾人かはそのようになるようです。
しかしそもそものところ、その「それそのもの」が囚われになっているのです。
それはなぜか。
「それそのもの」がある特定の状態を表しており、概念だからです。
つまり、彼らはまだ「それそのもの」という状態に囚われている、執着しているのです。
そこに何かピンと来るか、違和感を感じられないことにはどうにもなりません。
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇自覚の要領をひとつにまとめた有料記事「自覚のヒント」のご案内はこちらです。
◇有料のスカイプ個人セッションのご案内は、こちらです。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
哲学・思想 ブログランキングへ
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そして、それを目標(目標という言い方に語弊があるかもしれませんが)に修行すると、幾人かはそのようになるようです。
しかしそもそものところ、その「それそのもの」が囚われになっているのです。
それはなぜか。
「それそのもの」がある特定の状態を表しており、概念だからです。
つまり、彼らはまだ「それそのもの」という状態に囚われている、執着しているのです。
そこに何かピンと来るか、違和感を感じられないことにはどうにもなりません。
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