◇受け入れの瞑想?(^^)◇
今日はちょっと毛色を変えて、私が昔やっていた受け入れの瞑想について紹介しますね。
実は三十歳過ぎのころ、カルチャーセンターの気功教室に通っていたことあり、そこで他の生徒さんと一緒に週一で短い瞑想をしていました。
また、その教室のI先生は内面世界に関するお話しがお好きな方で、「すべてを受け入れてください」等のキーとなるいくつかの言葉を口癖のように言っておられました。
それで、自宅でも毎日、30分程度、長いときで1時間くらい瞑想をするようになっていました。
瞑想自体は割と普通の瞑想で、まずはその大半の時間を、ちょっとアレンジした数息観と呼ばれる瞑想をやっていました。
例えば、「1、2、3、...」とゆっくり10とか20とかまで数えながら息を吸い、次にその同じ数だけ数えるまで息を止めて、最後にまた同じ数だけ数えながらゆっくり息を吐くという繰り返しを、15分か30分か、ときにそれ以上やっていました。
数える数を段々と増やしていき、最後は確か1分間に1息するくらいのペース(つまり20ずつ数えながら吸う、止める、吐くをやる)になっていました(最初から10まで数えるのは無理なので、5くらいから数えたのでいいと思います)。
その数息観に続いて、受け入れの瞑想をやっていました。
受け入れの瞑想というのは、私が勝手につくったオリジナルでして、すべてを受け入れるイメージと、瞑想を組み合わせたものなのです。
やり方は至って素朴なものでして、「すべてを受け入れるイメージ」というか、決断というか、ハートを開くイメージをするというか、あるいは、そういうイメージに入っていくような感覚で、瞑想するんです。
どうしてこんなことを思い付いたのかは自分でもよく分かりませんが、私は特性的に明け渡し系(受け入れ系)の存在なので、I先生が繰り返し仰る「すべてを受け入れてください」という言葉に強く反応したんだと思います。
今から思うと、この受け入れの瞑想は意外なほど私の意識に影響を与えていたのかも知れないと思っています。
と言いますのは、この受け入れの瞑想をすると、ハートが開かれるような感じになり、よく自然と涙が流れていたのです。
ときには、ハートが震えるほどの反応があったように思います。
そして、こんなこともあったのです。
受け入れの瞑想を始めてから暫くして、受け入れの瞑想中に、自分が自分の意識が変わる転換点に近づいて行っているような感覚が起こってきたんです。
そして私は、おそるおそるその転換点に近づいて行ったんです。
そしてついに、その転換点までもう後少しというところまで行ったんです。
でもその日は、怖じ気づいてしまい、瞑想をやめてしいました。
次の日、覚悟を決めて、またの転換点の寸前まで行ったんです。
そして転換点を越えようしたとき、また瞑想をやめてしまったんです。
そのとき、私はハッキリ分かったんです。
私にはまだ普通の感覚の意識でやりたいことがあることが。
だから転換点を超える気になれなかったし、超えられないことが分かったんです。
そのやりたいこととは、ごく普通のことで、結婚と仕事でした。
もちろん、転換点を超えても結婚も仕事もできるでしょうが、当時の私にはそれが出来なくなるような気がしたのと、何よりまだ普通の感覚の意識で生きたかったのです。
このことがあった直ぐ後に、不思議なくらい私の意識というか興味の対象が変わってしまい、気功教室もやめて、気功も瞑想もやめてしまいました。
そして、より日常的な感覚の中に入っていきました。
その後、結婚したり子供が生まれたり、いろいろな事がありました。
そして、転換点から引き返してから十数年後に、明け渡しを経験することになったのです。
受け入れの瞑想や、転換点のことはすっかり忘れていたのですが、明け渡しの後それを思い出し、あれは今に至る伏線だったんだと思った次第です。
なんだか、私の思い出ばなしがメインになってしまった感じですが、(^o^)
受け入れの瞑想、もしよろしければ試してみていただきたいと思います。
ぜひぜひ(^^)/
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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今日はちょっと毛色を変えて、私が昔やっていた受け入れの瞑想について紹介しますね。
実は三十歳過ぎのころ、カルチャーセンターの気功教室に通っていたことあり、そこで他の生徒さんと一緒に週一で短い瞑想をしていました。
また、その教室のI先生は内面世界に関するお話しがお好きな方で、「すべてを受け入れてください」等のキーとなるいくつかの言葉を口癖のように言っておられました。
それで、自宅でも毎日、30分程度、長いときで1時間くらい瞑想をするようになっていました。
瞑想自体は割と普通の瞑想で、まずはその大半の時間を、ちょっとアレンジした数息観と呼ばれる瞑想をやっていました。
例えば、「1、2、3、...」とゆっくり10とか20とかまで数えながら息を吸い、次にその同じ数だけ数えるまで息を止めて、最後にまた同じ数だけ数えながらゆっくり息を吐くという繰り返しを、15分か30分か、ときにそれ以上やっていました。
数える数を段々と増やしていき、最後は確か1分間に1息するくらいのペース(つまり20ずつ数えながら吸う、止める、吐くをやる)になっていました(最初から10まで数えるのは無理なので、5くらいから数えたのでいいと思います)。
その数息観に続いて、受け入れの瞑想をやっていました。
受け入れの瞑想というのは、私が勝手につくったオリジナルでして、すべてを受け入れるイメージと、瞑想を組み合わせたものなのです。
やり方は至って素朴なものでして、「すべてを受け入れるイメージ」というか、決断というか、ハートを開くイメージをするというか、あるいは、そういうイメージに入っていくような感覚で、瞑想するんです。
どうしてこんなことを思い付いたのかは自分でもよく分かりませんが、私は特性的に明け渡し系(受け入れ系)の存在なので、I先生が繰り返し仰る「すべてを受け入れてください」という言葉に強く反応したんだと思います。
今から思うと、この受け入れの瞑想は意外なほど私の意識に影響を与えていたのかも知れないと思っています。
と言いますのは、この受け入れの瞑想をすると、ハートが開かれるような感じになり、よく自然と涙が流れていたのです。
ときには、ハートが震えるほどの反応があったように思います。
そして、こんなこともあったのです。
受け入れの瞑想を始めてから暫くして、受け入れの瞑想中に、自分が自分の意識が変わる転換点に近づいて行っているような感覚が起こってきたんです。
そして私は、おそるおそるその転換点に近づいて行ったんです。
そしてついに、その転換点までもう後少しというところまで行ったんです。
でもその日は、怖じ気づいてしまい、瞑想をやめてしいました。
次の日、覚悟を決めて、またの転換点の寸前まで行ったんです。
そして転換点を越えようしたとき、また瞑想をやめてしまったんです。
そのとき、私はハッキリ分かったんです。
私にはまだ普通の感覚の意識でやりたいことがあることが。
だから転換点を超える気になれなかったし、超えられないことが分かったんです。
そのやりたいこととは、ごく普通のことで、結婚と仕事でした。
もちろん、転換点を超えても結婚も仕事もできるでしょうが、当時の私にはそれが出来なくなるような気がしたのと、何よりまだ普通の感覚の意識で生きたかったのです。
このことがあった直ぐ後に、不思議なくらい私の意識というか興味の対象が変わってしまい、気功教室もやめて、気功も瞑想もやめてしまいました。
そして、より日常的な感覚の中に入っていきました。
その後、結婚したり子供が生まれたり、いろいろな事がありました。
そして、転換点から引き返してから十数年後に、明け渡しを経験することになったのです。
受け入れの瞑想や、転換点のことはすっかり忘れていたのですが、明け渡しの後それを思い出し、あれは今に至る伏線だったんだと思った次第です。
なんだか、私の思い出ばなしがメインになってしまった感じですが、(^o^)
受け入れの瞑想、もしよろしければ試してみていただきたいと思います。
ぜひぜひ(^^)/
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読んで頂いてありがとうございました。
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、最近興味を持ち始めました。
機会がありましたら気功のお話も載せて下さい。
いつでも開花できる状態であった方のリアルないきさつを伺えるのは大変貴重で応援しております(^^)
応援して頂いて、ありがとうございます(*^_^*)
気功の話題をご所望ですが、私は気功を殆ど知らないのです。
気に少し敏感なのと、気の出力が少し強い方だというのと、気が少し目(?)で見えるくらいでして、気を使って何か具体的なことをしたりとか、役立てるとか、そういう有意義はものは何も持ってないのです。
また、気に対する興味も無くなってしまっています。
そんな訳で、気について何か書くというのはちょっと厳しいです。
ごめんなさい。