◇意志を持って悟りの道を歩め◇
今朝、久し振りにピンと来るものがありしたので、それについて書きたいと思います。
ピンとの来たのは、意志の力と悟りとの関係についてです。
これまで両者の間に関係は無いことは無いとは思っていたのですが、どう関係しているのかがいまひとつスッキリしていませんでした。
それが、今朝私なりにハッキリとしました。
おそらく、何らかの悟りに至る方のおそらく大半が積極的に悟りを意図することなく、それに至られるんだろうと思います。
私も、小悟(明け渡し)に至るときは、悟りのことなど全く意識してなかったのに、突然悟りの方からやってきたという感じでした。
そういうこともあって、悟りとは求めてもどうにかなるものではなく、求める心がむしろ邪魔になる等と言われるのだろうと思うのです。
確かに、悟りは意図するものではなく、訪れるものという部分はあるんだと思います。
しかし、意図して追求していくものであるという部分も確かにあるのです。
私自身、小悟については半分くらいは悟りの方から勝手にやってきたという感じではありましたが、小悟以降の悟りは、意志の力を持って積極的に追求した結果であると思っています。
前置きはこの辺にして、本題に入っていきたいと思います。
悟る、あるいは悟りの道を進んでいくということは、私という存在である自我が握り締めている囚われ(考え)に気づいてそれを手放していくことなのです。
どうして迷いや迷いの衝動が起こってくるのかというと、自我が握り締めている囚われが起こってくる現象に反応して、その迷いの衝動を引き起こしているのです。
そして、その囚われをわざわざ握り締めているのは、私という自我なのです。
繰り返します。
囚われを握るのは、「私」がわざわざやっていることなのです。
「私」がやっていることなら、囚われを手放すことだって、その気になれば「私」に出来ることなのです。
つまり、「自分はもう囚われを手放していくんだ」という強い意志があれば、手放していくんです。
これは、実に単純で簡単なことなのです。
そうなると、何かの考えを掴んで、外に向かって「これだ」か、「こうだ」と主張している、あるいはそう考えている自分自身に気づくようになるのです。
あるいは、思わず何かを求めて外側に彷徨い出そうとしている自分自身の衝動や姿に気づくようになるのです。
そして、もう一つ申し上げておきたいことは、悟りの意志と自覚との関係です。
自覚をやっていくときの要は、なんと言っても、意志の力なのです。
もう一度、ご自分の悟りへの意志について確かめてみて頂きたいと思います。
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
哲学・思想 ブログランキングへ
今朝、久し振りにピンと来るものがありしたので、それについて書きたいと思います。
ピンとの来たのは、意志の力と悟りとの関係についてです。
これまで両者の間に関係は無いことは無いとは思っていたのですが、どう関係しているのかがいまひとつスッキリしていませんでした。
それが、今朝私なりにハッキリとしました。
おそらく、何らかの悟りに至る方のおそらく大半が積極的に悟りを意図することなく、それに至られるんだろうと思います。
私も、小悟(明け渡し)に至るときは、悟りのことなど全く意識してなかったのに、突然悟りの方からやってきたという感じでした。
そういうこともあって、悟りとは求めてもどうにかなるものではなく、求める心がむしろ邪魔になる等と言われるのだろうと思うのです。
確かに、悟りは意図するものではなく、訪れるものという部分はあるんだと思います。
しかし、意図して追求していくものであるという部分も確かにあるのです。
私自身、小悟については半分くらいは悟りの方から勝手にやってきたという感じではありましたが、小悟以降の悟りは、意志の力を持って積極的に追求した結果であると思っています。
前置きはこの辺にして、本題に入っていきたいと思います。
悟る、あるいは悟りの道を進んでいくということは、私という存在である自我が握り締めている囚われ(考え)に気づいてそれを手放していくことなのです。
どうして迷いや迷いの衝動が起こってくるのかというと、自我が握り締めている囚われが起こってくる現象に反応して、その迷いの衝動を引き起こしているのです。
そして、その囚われをわざわざ握り締めているのは、私という自我なのです。
繰り返します。
囚われを握るのは、「私」がわざわざやっていることなのです。
「私」がやっていることなら、囚われを手放すことだって、その気になれば「私」に出来ることなのです。
つまり、「自分はもう囚われを手放していくんだ」という強い意志があれば、手放していくんです。
これは、実に単純で簡単なことなのです。
そうなると、何かの考えを掴んで、外に向かって「これだ」か、「こうだ」と主張している、あるいはそう考えている自分自身に気づくようになるのです。
あるいは、思わず何かを求めて外側に彷徨い出そうとしている自分自身の衝動や姿に気づくようになるのです。
そして、もう一つ申し上げておきたいことは、悟りの意志と自覚との関係です。
自覚をやっていくときの要は、なんと言っても、意志の力なのです。
もう一度、ご自分の悟りへの意志について確かめてみて頂きたいと思います。
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
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読んで頂いてありがとうございました。
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難しいと思います。
はじめまして、ルートファインダーをやっておるものです。
タイトルの意志という言葉に感じて足跡を残させていただきます。
興味深いくくりで記事を書かれているご様子です。
ブログの内容を後日じっくり拝見させていただきますね。
Unknownさんは、難しいと思われますか。
どうして難しいと感じられるのでしょうね。
厳しい言い方をすると、Unknownさんは自覚というものがまだ分かっておられないのかも知れません。
そもそものところ、自覚は自我が自我の力を使ってやるものなのです。
つまり、意志の力でやるものなのです。
だってそうでしょ?
自覚なんて面倒だし結構骨がおれるし、やらなくていいものなのです。
やらなくていいものをわざわざやる方が不自然な訳なのです。
そういう不自然な行為をわざわざやるのは、自我がその力(意志)を使ってやっている訳なんです。
私のブログ記事に興味を持って頂き、ありがとうございます。
こんなことをネットに書いているのは、おそらく、世界で私だけだろうと思います。(^o^)
>先祖供養とか自然崇拝や宗教などの信仰などこの世の形式的な事も1つの囚われなのでしょうか?
そうです。典型的な囚われです。
あわてない あわてない 一休み 一休み
悟りを求めている人は生きる事に疲れきった人たちです。
こうだ、ああだ説明されても疲れるだけ。
絶対に正しい答えはありません。
動かなくていい、考えなくていい、休んでいい、頑張らなくていい
全てOKです。
人から否定される筋合いは誰にもありません。
悟れなくてもいい。
死が訪れた時、全てを理解出来ますから。
言葉遊びと思われるならそれで結構なのですが、
あなたはどうして、私の言葉遊びに付き合おうとされるのでしょうかねぇ。
放っておけばいいのに。(^o^)
まあ、何を書いて頂いても結構なのですがね。
言葉遊びだと素直に思ったからです。
コメントくださいとあったので、善意の気持ちでコメントしました。
気分を害するのであれば、囚われがある証拠だと思います。
「私は正しい事を言っています。私の意見に賛同する方のコメントをお願いします。」だったらスルーしてました。
悟りを開こうが何をしようが、人の気分を悪くさせるような発言をするようでは意味が無いと思います。
私たちはどんぐりの背比べです。
私のコメントが気に入らなかったらスルーしてください。