◇仏教における縁起をめぐる誤りについて◇
先日、釈迦が縁起をどう捉えていたかについて調べていたのですが、その過程で南伝系も大乗系も含めて仏教の大半というか、おそらくほぼ全ての系統において、縁起の捉え方を間違っていることがわかりました。
余りの状況に愕然とし、どうでもよくなり、仏教に言及する気も無くなったのですが、気を取り直して最後に、縁起をめぐる仏教が抱えている問題点について書いておこうと思います。
まずは、仏教の縁起に関する誤解について。
先日の記事「龍樹は縁起を誤解している」の中で書いた通り、私という存在は意識であり、その意識は、微細に見ると識が映画フィルムのコマのようにパッ、パッ、パッと連鎖的に連なって生滅することで展開しています。
識は、各瞬間における認識であり、五感に思考や感情を含めた六根を通じて起こってくる現象と、その現象を認識する認識作用が一体不可分に結合したものです。
縁起という言葉、あるいは概念は、おそらく釈迦よりも前からあったのだろうと私は考えています。
そして、先人たちは、連鎖的に生滅する識の連鎖を縁起と言っていたのではないかと私は考えています。
つまり、縁起の本来の意味は、因果関係のことではなく、識の連鎖のことだったのではないかと考えています。
この点について、釈迦が縁起をどう捉えていたかは、今となってはわからないようです。
しかし、釈迦の後に編纂された縁起に関する仏典の多くは、縁起を因果関係として捉えてしまっています。
ここに、大きな誤解があるのです。
しかも、それらの仏典はその誤解のある縁起という考え方を、無常や無我等と同等か、それ以上の扱いをしてしまっており、間違いを深めてしまっています。
なぜなら、因果関係という考え方は無我(一切に実体が無い)という悟りと整合せず、反しているからなのです。
これをどうしたらわかりやすく説明できるのかと、ここ数日考えていたのですが、上手い説明が思い付きません。
これを理解するためには、無我の悟りに伴う不可知(知の限界)を知るしかないのですが、少し試してみます。
因果関係とは、ものごとには原因と結果があるという考え方です。
しかし、ものごとの原因を追究することは、根本的に不可能であり、不可知なのです。
例えば、この世界(宇宙)はなぜ生じたのかや、私という存在はなぜ生じたのかは不可知なのです。
そのような大きなことだけではなく、もっと身近な様々なことについて、実のところはすべて不可知なのです。
例えば、1+1がなぜ2なのかも、海の色をなぜ青と言うのかも、根本的なところでは不可知なのです。
つまり、因果関係はそもそも根本的に不可知であり、悟りの対象にもなり得ないのです。
そして、因果関係という意味での縁起が真理となることもあり得ないのです。
<追記(20241110)>
上の文章の一番最後の一文を追加しました。
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