北のパラダイス

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旅立ち・巣立ちの時

2014年03月25日 | 日記
友人、知人、職場関係の人達など、4月から新たな環境のもとで働いたり暮らしたりする人が例年になく多いように感じます。

ほとんどが転勤による異動ですが、年ごろなので退職という人もけっこういます。

高校時代の同級生の1人が、東京の大手出版社に30数年間勤務して先月で退職となりましたが、送られて来た挨拶状に「60にして立つ」と記されていました。
会社に残ればまだまだ偉くなれるのに一年早く退き、これから何か新たなことでも始めるのか、残りの人生を賭けて何かを成し遂げようとしているのか、そんな決意めいたものを感じました。

先日、4月から東京転勤になる同じ技術士会の仲間で飲み友達、バンド仲間でもある高校の後輩の壮行会を行いましたが、彼も何か特別な思いを持って新たな環境に臨もうとする意気込みのようなものを感じました。

また、大学時代のクラブの同期生も今月いっぱいで公務員生活にピリオドを打ち、休む間もなく4月1日から地方のJAに単身赴任で行くことになりました。
役所ではそれ相応の地位まで登りつめましたが、用意されていたであろう天下りの席には目もくれず、自分で第二の職場を探してまで何かを成し遂げようとしています。

三人三様で職業も置かれた立場も違いますが、彼らに共通しているのは「思いの純粋さ」です。

特に、退職する二人の同期生は経済的に困るわけではないので、そんなにあくせく働く必要もないのに、休む間もなくこれからまた新たな事にチャレンジしようとしています。

何が彼らをそうさせるのか胸の内は分かりませんが、でも、自分に照らし合わせると、なんとなく彼らの思いは分かるような気がします。

なぜならば、人は死ぬまで生きるんです...当たり前ですが。(笑)

言葉を換えると、人は死ぬまで修行なんです。

だから、生きることが即ち修行なんです。

誰も彼もがみんなこの世で修行するために生まれて来て、息を引き取る寸前まで修行を続ける...それがこの世に生まれて来たことの意味です。

上述した三人も口に出しては言いませんが、胸の内にはそのような思いを秘めているんだろうな、と感じました。

どんな日々も生き抜くこと、生き切ることが、即ち修行です。

何時間も座禅をしたり、寒い時期に滝に打たれたり、何日間も荒行をやったりとか、そんなことをわざわざする必要はありません。

日々の仕事を当たり前に淡々とこなすこと、それで十分だと思います。

必要なのは「思いの純粋さ」であり、それは「自分の本当の思い(良心)に従うこと」と言い換えることができます。

むやみに世間の常識や他人の思いに耳を傾けるより、常に自分の心の奥底と対話することに専念し、自分が本当は何がしたいのか、本当はどうありたいのかを、徹底的に考え抜くことが即ち「修行」です。

そのような修行を通して得られたものは本物です。

高校の同期生も後輩も、大学の同期生も、4月からまた新たな修行の旅立ち・巣立ちを迎えます。

私も彼らと同様に、これから新たな修行の旅に赴きます。

私の修行の最終目標は「光りを発するただの人」になることです。

もっとも見た目とくに頭は既に「光りを発するただの人」ですが、内面もそうならないと完成品にはなりません。(笑)

エゴも欲も何もかも抜け切って、何も思い残すことがなくなれば、私の旅も終りです。