summer diary

日記らしきページ

被害届

2019年08月11日 | Weblog
 今日、夕方に息子のデリカ(納車まだ5日目)をガソリンスタンドで手洗い洗車をしてもらった。 さの際に右後ろ後輪がパンクしているとのこと。 パンク????タイヤは新品交換で納車である。 通常からして、新品タイヤのパンクはまず考えられない。 で、さらに言えば、スタンドの方は2本同じボルトが刺さっているし、刺さり方が不自然であり、人為的で故意に刺した可能性がほぼ濃厚だという見解であり、早々に被害届を出したほうが良いとのこと。
で、実はこの車の前の車のツゥーランでも2か月間に2回のパンクがあった。しかも、その2回のパンクの場所も右後ろのタイヤだ。 さらに、記憶では全く同じ釘の形状である。 今回は2か所とも全く同じ釘が刺さっていること、タイヤの溝の部分に置くまでしっかりと差し込まれていること。 
そうしたことを考慮しても、これは人為的な疑いが濃厚であること。
パンク修理を終えて、早々に警察署へ被害届を提出した。 担当の刑事は駐車場の現場を視察して、監視カメラの設置個所がないか、どの角度から撮ることが有効かなどを検討していたけど、結果的にはカメラの設置がむつかしいらしく、らちが明かない。 
駐車場の管理者に連絡して、とりあえず、駐車場所の変更をしてもらい、これでも同じ被害が発生した場合には明らかに特定の車(私の息子の車)を狙った犯行であることが解る。 変更後に仮に別の車を駐車した場合には同じ被害がある場合には、特定の車を狙っているのではなく、その場所を狙っていると言うことになるだろう。
この辺も検証しようと思って、駐車場所の明示を変更して、別の車(妻の軽自動車)を駐車した場合に同じ被害があるのかどうか? 
現時点では息子の車に360度監視できるドラレコを搭載することにしているけど、その費用は誰が負担するのか?? 仮に犯人が特定できた時にはその犯人にこれまでのすべての経費はもちろんだが、精神的、物理的な被害の全費用を請求することになるだろう。 
いずれにしても、こうした被害を誰かが受けないためにも、犯人の特定をすることが必須だろう。 どんな理由があるにせよ、他人の物や精神に傷をつけることは許されない。

話は変わるけど、これは前にも書いたけど、表現の不自由展の元慰安婦に似せた少女像の展示もの類以する問題である。 他人が不愉快な思いをする内容や、公序良俗に反するような物を公の場所に設置したり、展示するのはやはり不適切だろう。 もちろん、今回はその意図そのものが表現の不自由とう観点であるだろうが、それでも、やはり適切ではないのだろうと思う。 
人生でいろいろと経験するのはそれなりに勉強にはなる。 でも、いろいろと手続きなども含めて、面倒な作業をするのはそんなに気持ちが良い物ではない。 今回も、犯人を捜して罪の償いを課すことは実は本人に取ってとても大切なことである。 人間としての最低限のルールを超えて不正や悪戯をすることがいかに醜く、いかに虚しく、いかに人間を傷つける行為であるかを知らしめることが大切なことなのである。 
そうした、通常の精神を宿すことがないような人間は時には相応な対応が必要だ。 それは、その人間が犯した罪の数十倍の痛い思いを体現してもらうしかない。 
今回のことで、私は必ず犯人を特定するために努力を惜しまないで取り組もうお持っている。 絶対にこの行為を許すことはないだろうし、特定できた時には相応のけじめをつけさせていただく。


表現の不自由展の話題

2019年08月11日 | Weblog
 あいちトリエンナーレの表現の不自由展が物議を醸している。
ネットではこんな記事がある。

物議を醸した今回の「不自由展」。厳しい見方を示す識者は少なくない。
 昭和天皇の展示について麗澤大の八木秀次教授(憲法学)は、「わが国の『国民統合の象徴』である天皇の人格を汚す内容だったのは明らか。表現の自由は『公共の福祉』の制約を受けるというのが通説で、公序良俗に反する展示であれば当然、問題がある」と指摘。津田氏については「初めから展示が問題になりそうだと予想しており、“炎上商法”の手法だ」と批判した。
 ジャーナリストの門田隆将氏は「私自身も見たが、展示は明らかに日本に対するヘイトだった。自由は崇高なものであり、民主主義社会において最も大切だ。しかし、だからこそ節度と常識を必要とする。今回の展示に節度と常識があったとは思えない」と語った。
さらに、一般の閲覧者からもとても不愉快な気持ちにさせられた。などの意見が多くある。

元慰安婦像を象徴する少女像は不適切展示として河村市長は撤去を指示したことに対する批判も多くある。 さらに、大村知事は河村市長の行動は憲法21条の表現の自由に抵触する恐れがあり、憲法違反の可能性も示唆している。
この問題に関しては識者でも賛否が分かれている。 

憲法21条は1項で「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と定めている。一方、12条は憲法が国民に保障する自由と権利について、「これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」と記す 。とあり、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任が伴うのである。 
したがって、河村市長の発言の通りに、なんでも許される物ではないことは常識を持った大人なら解りきっていることだろう。 なんでもOKなら、卑猥な写真や不快な写真、発言、文言も公の場に出してもいいことになる。
これは所謂芸術性の問題で、昔から芸術なのか?それ以外なのか?が問題視されてきた。 小説のような言葉の表現では今ではほぼ完璧で詳細な性映写も許される時代だけど、以前は言葉でさえ問題になった小説も多くある。
もちろん、今でも写真などでは性器をモザイクなしで表現することは許されていない。 ほとんど意味がないようなモザイクでもそれでもやはり表現の自由は制限されるのである。 これは公序良俗とう民法によって規制されているからであり、これは国民の健全な生活を守ることを優先する大切なルールでもあるだろう。 なんてもかんでも許されるような世の中になったら、どんなに生活し難い世になるだろうと思うのである。 
道路でも交通ルールとう規制があるからこそスムーズに流れるのである。 憲法や法律は人が自由で健全な生活をするために必要な最低限のルールだ。 憲法違反じゃないからなんても良いなんて思うこと自体がすでに人間として社会を混乱させる犯罪者といえるかもしれない。 もちろん、批判や反発をすること自体は問題ないだろう。 しかし、その表現が社会的に公共の福祉に基づいているかどうか? 芸術家や表現者は自分だけの為なら問題ないだろう。しかし、公の場所にそれを展示することは果たして自由なんだろうか? 
その1点だけの展示をする個人的な展覧会なら許されるだろうが、多くの作品が展示される場所に展示するのは果たしてどうだろう? 見たくない人の目に否応なしに入ってしまうような展示はその作品が不適切だとしたら、それは問題だろう。