TVやいろんなメディアなどに出演したり、意見や評価などをする人達に対しての誹謗中傷が後を絶たない。 その誹謗中傷の投稿に対してその本人の心は破滅状態に陥り、結果として命を自ら断つ行為も後を絶たない。
さらに、その家族に対してにもあらぬ中傷を平然と行う輩が後を絶たない。
ただ、そんなSNS上の誹謗中傷なんてどうでも良いだろう。 そんな赤の他人の言葉や意見などどうでも良い事だし、本人に何も落ち度がない限りは完全に無視するだけだ。 さらに言えば、そんなネット中のSNSなど使う必要性もないし、そもそも、そんなSNS自体に益があるとも思っていない。
私はそうしたSNSやネット上の意見を見たり、投稿したりすることも皆無なので、そうした物に反応する意図も分からないし、そうした物に煩わしいとも思っていないし、そもそも、全く触れる事もないので、そうしたニュースや話題を見たり聞いたりしても、ほとんど興味が湧かないが、それでも、そうした誹謗中傷によって人が死んだり、傷ついたり、活動を停止する事態になったり、裁判沙汰になったり・・・。 特に芸能人ならそうした熱烈なファンやアンチファンなどからの投稿も少なくないだろうが、それでも、どうでも良いだろうと・・・。 そんな赤の他人の意見などどうでもいいだろうし。
仮にだが、私がSNSなどでそうした誹謗中傷の投稿を見たとしても、全く心が揺れる事も無いだろうし、全く動かされる事もないだろう。
さらに言えば、赤の他人ではなく、知り合いであったしても、それも私は完全に無視する事も簡単に出来る。 まっ、私ぐらいに年齢を重ねていると、残りの人生を自分の意志を最優先で生きることに費やしていたいと思うのである。 なので、他人の意見や言葉などははっきり言って、どうでもいい。
そうした他人の意見や誹謗中傷に心が揺れるのは、自分に対する信頼が揺らいでいる状態なのである。 さらには、他人の意見や考え方に影響されやすい性格? 性質?なんだろうと思う。 所謂、天才と言われて来た歴史上の人物の多くは、他人から誹謗中傷など当たり前に受けていた。 完全に狂った人間として見られていた時期もあるし、変人だと思われている時期が続いていただろう。
しかし、そうした他人の雑語など平然とやり過ごして自分を信じて、自分の意志を愚直に進める強い意志がそこにはあった。 結果としてだが、その意志が叶って、事業を成功させたり、傑作と言われる作品を生み出したり、人類史上の大発明をしたり・・・。 これは一つの例だが、どこまでも自分を信じる意志があるなら、そうした他人の誹謗中傷などに影響される事もないだろうと私は思うのである。
以前から書いているが、自己確立が出来ていない人間はとても弱い。 心にしっかりとした1本の柱がある人間はどんな苦境に陥っても、決して自分を裏切らないし、自分の意志は曲げないのである。 もちろん、変革する事には否はない。 自分をより深く、思慮深く、さらに高見を見据えて思考する幅を拡張することは大切なことである。 本を読んだり、人との関わりなどから物事の真実を会得する事も大切なことだろう。 しかし、単なる阿保な赤の他人の意見など塵ほどにも意味がないし、もっと言えば、塵以下の価値もない。
今朝の新聞でも、かの、兵庫県知事の斎藤知事の疑惑告白文に対する厳しい対応をしていた県議(竹内英明氏)が自殺していた記事があった。 この斎藤知事のこうした行動によって、すでに数人が命を落としている。
さらに言えば、N党の立花の馬鹿が追い打ちをかけるような行為や表現も問題だろう。 そうした、所謂、ネット上のどうでもいいような馬鹿や阿保が騒いでいる様子を見ると、なんだか、人間の悲しい嵯峨や、人間の弱体化が進んでいるような気がする。
これは単なるSNSやその他のネットなどの情報だけでなく、世界的な環境破壊や、経済的な不安や、気候変動なども影響があるのだろうか? いろんな情報が蔓延している状態で、そんな情報に反応して心を病む人間が多すぎるのか? なぜ、自己の意志や考え方を信じないのか? なぜ、そんなに他人の意見や言葉が気になるのか? 私には理解不能である。
物事の真実は、何時か必ず表に現れる。 どんな人間も死を迎えるまでには、必ずプラスマイナスが0になるように出来ている。 悪事を続けている人間が安らかな死を迎える事はないし、善人の死はとても綺麗で安らいでいる。
そんなことは嘘だろう?と思う人が居ると思うが、しかし、これは真実だ。 他人が知らないだけで、人間は必ずその死に方を見れば、その人の人生がどんな物だったかを理解することが出来るのである。