不満を辞書で調べると、[名・形動]もの足りなく、満足しないこと。また、そのさまやそう思う気持ち。不満足。「不満を口にする」「不満な点が残る」「欲求不満」 となる。
さらに、英語ではフラストレーション (frustration) とは、欲求が何らかの障害によって阻止され、満足されない状態にあること。また、その結果生じる不快な緊張や不安、不満。「欲求不満」、「欲求阻止」、「要求不満」、「要求阻止」などと訳される。
人生や、他人や物質的な物や生活環境などへの不満は誰もが持っているだろう。
その不満の大小、増減に関しては各個人の意識の問題でもあるけど、結局は他者との比較考察によるところがほとんどだ。 世界の人々が全く同一の生活様式や物質的な豊かさなどに差が無い場合には、おそらく不満と言う感情は沸かないだろう。 他人との差に関してどれほど自分との差異があるのか? その溝が満足する度合いが違うのだろう。 容姿端麗で頭脳明晰、家庭環境も豊かな資産があり、十分な生活が生まれた時から整っている状態の人もいるだろう。 その逆ももちろんある。 容姿に自信が持てない、家庭環境も最悪、さらに、資産どころか、借金もある。 どんなに努力しても到底、富豪と同様の生活なんて望めない。 そんな人も居るだろう。
そもそもだけど、生まれた時から人間はすでに平等ではない。 平等と言えるのは心の中でしかないだろう。 これを不満と感じるのは当然のことだろう。
しかし、この不満足の感情は、新しい物を作る意欲に繋がるし、人間の欲望はいろんな分野で新しい物を開発してきた原動力になった。
しかし、不満を誰かの要因だと思うこと自体はとても浅はかで、間抜けな感情だ。 少なくとも、最初から(生まれた時から)他人とはすべてが違って居るのはこれは自然な原理である。
例えば、皇室を例にとっても、私達一般人がどれほど頑張っても皇室の一員になるには無理がある。 どんなに努力しても叶える事が出来ない事は世の中には沢山あるだろう。
日本人がイギリスの皇室の一人になるのは所詮、夢のまた夢物語である。
仮に何かの運命でそうできたとしても、それは個人の努力とかの問題では無いだろう。
まさしく運命と言う何かの見えない力が働いたと言うべきものだ。
1人の人生の未来や結果は全てが繋がっている要因の連続である。
一瞬一瞬の判断の結果での行動が未来の結果を生み出している。 しかも、自分の努力だけではなく、周囲の環境も大きな影響を与えている。
生まれた土地や場所、生活環境や出会う人達、出会ういろんなメディア、いろんな自然環境などなど、そうした要因も大きく人生を変える要素になる。
なので、人生で成功する人、しない人、満足する人、不満な人、誰もがある程度は同じ未来を持てるとも言えるだろう。
これまでの人生の成功者の多くは、決して豊かな環境に生まれ育った人だけではない。 ただ、この満足や成功と言う概念も自分自身の考え方でしかない。
どれほど他人から見て、成功者だと思う人も実際には不満や悩みを他の人以上に感じている人もいるだろう。
これはまさしく、こうした感情は自分自身が作り出している感情で、他人との関係はほどんど皆無だとも言えるのだ。
もちろん、対人関係でいろんな不満や不平の原因は発生する。 しかし、それも自分の感情のコントロール(抑制とか意識の制御、或いは無視したり、全く視野から突き放す)によって、全く別の感情に置き換える事はそれほど難しくない。 そうして、自分の感情を一定に保ち、常に正常な意識で物事を考える事が出来るだろう。 これはいろんな経験も必要になるだろうけど、凡そは物事の常識、正義、公序良俗の意識と言う本来当然持つべき意識で十分なのである。 こうした意識を見失わない為には、何時もの生活の中で常に正常な物とは何かを意識することが重要だろう。
いろんな精神的に豊かにする物に出来る限り触れる事を意識することも大切だろう。
中学生(14歳)が同級生を刺殺した事件が昨日大きく報道された。
事前に準備した刃物を学校に持って行って、朝の授業前に犯行に及んだ事件だ。 まだ14歳のある意味では子供の行動で、こうした最悪の行動を可能にした精神は何処から生まれるのだろう。
いじめとか、対人関係の悪化などと言う物だけでこうした行動に繋がる要因とも思えない。 何か精神的な欠陥は否めないだろう。
欠陥と言っても、それは殺人と言う行動を可能にするだけの何かの要因がある事。 さらには、そうした最悪の行動を抑制するたけの人間としての本来の正義や善意や物事を客観的に見る意識の欠如だ。
最近はこうした他人を平気で刺殺する事件が多発してるように思う。
電車での殺人事件もそうだけど、他者に対する自分の不満を押し付ける行動が目立つ。 最近は店員などへのカスハラの多く、自分の不満、不平を他人の要因とする意識を持つ人が多く居る。
これはやはり、この現実が生きにくくなっていることが原因だろう。
生きにくくと言っても、それはある意味では自分自身のそれまでの行動や意識、判断、選択して生きてきた要因が多くの問題を作っているのだろう。
どれもが、多かれ少なかれ、不満や不平は持っている。 しかし、そうした物を考察すると、多くは自分自身の問題であることが理解できるだろう。
自殺する人もこのコロナ禍で増えている。 生活事体の破綻だけではなく、他人との関係の悪化も要因となっている。
これからもそうした人が多くなるだろうと予想出来る。
ネット社会は一方通行の思考を助長することに繋がっている。 一方的な視点や視線で物事を見る要因になっているのも事実だろう。
他人との直接的な会話や議論が無いまま、他人の話を鵜呑みにしたり、他人の行動に対して不満や不平をそのまま投げかける。
これは、直接その場での反応が無いからである。 本来なら、直接話をしたりする場合には、その場で自分の意見に対する反応が返ってくるのだけど、ネットでは、一方的な物でしかない。 なので、過激になる傾向があるし、自分に都合の良い考え方に陥りやすいのである。
こうした意識は正常な視野、正義感は歪められてしまう。
仏教では、「人生は苦である」という教えがあります。自分の思い通りにはならないという意味です。
これは、人生は最初から修行の場所という考え方から来ている。
人生は修行する場所であり、この場所で煩悩から来るいろんな意思を浄化して、本来あるべき姿になることを望むことだろう。
そうした浄化した意識、それは苦悩や不満や不平や物欲や性欲やそうした欲望を払い、精神的な寛容を最大限まで引き上げる事で得られる徳と言う領域に達しようとする精神だろう。
さて、今日も天気は最高である。 季節は紅葉の真っ盛りだろう。
今年は我が家は紅葉狩りは中止(中止と言うか、予定が立たないので、行けない)した。 今日は最高の行楽日和でも、外出の予定はない。
今日も家でギターを一日練習する予定だ。 今日は妻も子供の仕事なので、日中は思う存分にギターを弾ける。
去年の夏前ぐらいから本格的に弾き始めたギターだ。 クラシックを主体として弾いているが、最近はジャズが弾きたくなったので、フルアコも購入した。
今はフルアコの音色もとても魅力的で、弾いていてもとても楽しい。
適当に爪弾いているだけでも十分に楽しいけど、やはりそれなりにジャズを弾きたいので、いろんな教本も購入している。 どれもそれなりに難しいし、どこまで弾き熟すことが可能になるだろうか?? と言う思いもある。
それでも、継続は力なり。 少しづつでも上達している実感があれば、この先は恐らく、自分が到達したい場所まで行けると信じている。
クラシックも当初はとても難しく、今弾いている練習曲も何時弾けるようになるだろうと思っていたけど、今は意外とその難度を難度と思えないようになった。 こうして、上達していくのだろうと言う実感を持てるようになった。
コロナ禍で始めたギターだけど、今では私の唯一の楽しみになった。
これはコロナが招いた私の幸運なのかもしれない。 幸運と言ったけど、実際にギターを弾くようになってから、家で過ごす時間がとても充実しているし、とても楽しい。 さらには、脳も使い、指も使い、精神的にも癒しを感じる。
これは以前はバイクや筋トレなどで得られた物とは違っている。
満足するとは違うけど、向上心はそれ自体で生きる意欲や希望や夢や未来への意欲的な行動に繋がる。 なので、今はとても人生に対して前向きの意識である。 最も、以前から私はポジティブ思考の正確なので、常に意欲的な意識ではあるが、不満や不平の要因もそれほどストレスに感じる事が少なくなった。
これは、ギターの練習で得られる意欲的な意識や、上達している事に満足出来ているからだろう。 もちろん、まだまだギターは上達する事が可能だし、おそらく、生涯意欲的な意識で弾くことが出来るだろう。