summer diary

日記らしきページ

雨の一週間

2018年12月04日 | Weblog

 昨日月曜日から今週金曜日までの5日間の天気予報は雨、又は曇時々雨。 今朝も朝から小雨がパラついている。昨日の雨が降っていて、洗濯物はそのまま手つかず状態のままであり、今日着ている物が夜には洗濯物として溜まることになったらもう洗濯籠2個からはみ出す勢いである。 朝から洗濯を2回廻して洗濯をしているので、2回目の洗濯が終わったらコインランドリーに行って乾燥させる事にしている。 で、今その洗濯物を乾燥させて帰宅してきた。 コインランドリーは雨の日にはいつも空いている乾燥機が無く、若い主婦や老年が多く訪れている。 私も60歳を過ぎてすでに老人の仲間であるけど、平日の午前中にコインランドリーに訪れることが出来るのはやはり、仕事をしていない人か、私のように平日が休みの人が多く居るのだろう。 今日は比較的空いている日だと思った。 到着して空いている乾燥機は4機ほどあったので、すぐに乾燥機へ入れて乾燥させることが出来たので、30分間の乾燥を開始して、隣のコンビニでホットコーヒーを買って飲みながら煙草に火をつけて1本吸った。 それでもまだまだ時間はあるので、コインランドリーに戻って、車の中でTVを見ながら時間を潰すことにした。 TVを見ていると25分はアッと言う間に過ぎ、乾燥機が停止する時間になったことを確認してランドリーの中へ入ると、丁度乾燥機は停止する前だった。 停止するのを確認して洗濯籠2個へ乾燥した洗濯物を入れて車に積み込んで家に帰宅。 少し乾いていない大きなタオルケットは浴室乾燥で乾かしているカッターシャツ類と一緒に乾燥させることにして、残りの洗濯物が完全に乾燥しているのを確認できたので、すぐに畳んでしまう事にした。 

これでとりあえず洗濯物は片付いた。 明日は仕事だし、天気も良くないので、休日に洗濯物を片付けることが出来たのでほっと一息つける。 今日は午後から久しぶりにジムへ行く事にしているので、午前中はこれから図書館で本を3冊借りてくることにしている。 明日からの仕事で読む本がないので、3冊は借りて来ようと思っている。2週間で3冊は余裕で読み終えることが解ったので、今後は3冊づつ借りてきて、月に6冊は読むことが出来ると思っている。 読書は以外にも面白いと思うのは何十年振りだろうと思う。 今の仕事を始めなければおそらく読書を再開することは無かっただろう。 妻は読書が好きで、これまでも図書館へ通っていたり、息子はその妻のために本を何冊もプレゼントしていたけど、そのプレゼントされた本はそのまま読まれずに棚の上に放置されていた。 仕事が以前に比較するとハードになったことにあるので、本をのんびり読む時間が無くなったことで妻は最近は読書はほとんどしていない。 その放置されていた本は私が読むことになり、もう数十冊も読み終えてしまったのである。あと数冊程度になった事もあるし、その残された数冊は同じ作家の本がほとんどで、流石に続けて同じ作家の本を読む気に慣れないので、少し前からは図書館で本を借りてくることにしているのである。 

図書館なので、最新刊の本はなかなか借りることは出来ないけど、私は特に最新刊の本を読みたいとも思っていない。 これまで読書から数十年も離れて過ごしてきたので、今は少しづつ気になる作家の本を読み始めたばかりである。 気に入った作家も数人できたたので、まずはその作家の本を2~3冊づつ読んで行こうと思っている。一度に借りる本は3冊決めているので、3人の作家の本をそれぞれ借りてきて、面白ければ次回もまた1冊づつ借りてこうようと思っている。今日は初めて読む本になる作家の本も借りて来るつもりである。 

特に今日のような雨で出かける用事もない日は家に居ても特にすることもないし、TVを見て居てもつまらない。 ネットで映画を見るのも良いけど、本を読むことが楽しくなって来たので、読書するのも良いだろうと思うようになった。 午後はしっかりとジムで汗を流し、筋トレを続けることにしているので、午後からは意外とあっさりと時間が過ぎるのである。 ジムから帰宅してからは夕方になるまで少しのんびりと過ごし、シャワーを浴びてからはビール、焼酎を飲んで夕飯は済ませてからは早々にベッドに潜り込んで寝てしまうのが常である。 昼夜勤勤務を始めてからは特に睡眠時間が長くなった気もする。 仕事では睡眠不足は当然の事であり、睡魔との戦いであると言っても良いだろう。 いくら仮眠時間やそれ以外の勤務でも寝る時間はたっぷりとあるけれど、なかなか熟睡できるような事もなく、うとうととする程度の睡眠はやはり睡魔を完全には取り除くことは難しい。 どうしても起きていないといけない時間帯にはうとうとしてしまうし、その睡魔と戦うのは意外とキツイのである。

仕事自体は本当に楽な仕事であり、特別に躰を使って何かするわけでもないし、歩くことも多くない。 ひたすらモニターを眺めている時間が圧倒的に多く、たまに異常がある場合に限って躰を動かすという程度の仕事である。 したがって、躰も使わないし、頭も使わない。 ただただ時間が過ぎるのを待っているような仕事であるので、読書する時間もたっぷりと取れるのである。 まっ、気楽な仕事で有ることは間違いなく、この仕事なら年齢に関係なく続けることは可能だろう。 65歳までにはまだ4年あるし、その後もパートとして70歳までは今の仕事を続けることも可能であるので、これから先の予定は70歳までは仕事を継続することにしようと思って居るのである。 休みはバイクで御朱印を頂きに出かけたり、ジムも週に2回は通いたいし、時には日帰り、1泊で旅行にも行こうと思っている。 月に6冊づつを継続して読んだとしても年70冊は読むことも難しいことではない。 これから沢山の本を読んで過ごしたいし、今の身体を維持することもある意味では楽しいことの一つであるだろう。 ジムに通い続けるのはちょっと面倒な事もあるけど、これまでである程度筋肉が付いてくると、その筋肉を落としたくないと言う気持ちになるのだ。 せっかく胸筋、上腕筋、腹筋がある程度肥大して健康的で筋肉がしっかりとして来た体型を崩したくないという思いが強くなってくるのである。 だから、この2週間以上もジムを休んでいること自体に少し憤怒するような気持が有るのである。 また始めから筋肉を鍛えることになるのもちょっとね。 でも、すぐに元に戻ることも経験しているし、それがまた楽しいことでもあるのだ。 

 


現代小説・・

2018年12月03日 | Weblog

 この数か月で15冊以上の現代作家の小説を読んでいる。 今読んでいる小説も残り20ページほどで読破する。 百田尚樹「フォルツッナの瞳」。 ある青年が死に近づいた人を見ると身体が透明に見えてしまう能力を持ち、その人の死を望まずに何かを加えて死を回避させると本人にその代償が与えられる。 この青年は幼い頃に両親を含めた家族全員を無くしていて、彼独り生き残った事もあり、施設で育てられ、車を磨く職人として独り立ちまでする。 その過程である携帯ショップの店員の死が近づいていることを知ると、その店員を誘って死を回避させた。 後日、その店員と付き合うことになるのだけど、果たしてその結末は・・・。 まだ最後まで読んでいないので、結末がどうなるのか分からないけど、この死に近づいている人を見ることが出来る瞳が「フォルツッナの瞳」と呼ばれている。 これを教えたのは同じ能力を持っている医師で有ったが、3度目にこの医師に面会した時にはすでにこの医師は死んでいた。 この未来の死を見ることが出来る能力である人の未来を書き換えると、自らの身体に負担を与えて、それが度重なると死に至るほどに身体を犯すことになるのだ。 この医師も誰かのために死に向かったのだろうか? 絶対に誰かの未来に関わることには拒否すると言っていた医師もそれを知るまではやはりこの主人公と同じように誰かの死を回避させていたのだ。 

さて、こうして小説を読んでいると若い頃に読んでいた小説(夏目漱石、志賀直哉、谷崎潤一郎、太宰治などなど・・・)との違いを感じる。 もちろん、物語の背景自体が違っているのはもちろんだろう。 今の小説には携帯電話やスマホ、タブレット、PCなどは当たり前に登場する。 それだけでも感覚は全然違っている。 若い頃には現代作家の本を読むことはほとんどなく、近代作家の著名な作品を読んでいた。 最近になって、現代作家の本を読むようになり、改めて面白いな~~と思っている。 ただ、確かに面白い。 でも・・。 何となく、作家が言わんとするその奥底にある何か人間的な根源的な言葉に出来ない深い深層世界的な・・・物が足りていない。 確かに物語としては面白い。 東野圭吾、松本清張などの推理作家の展開の面白さはもちろんあるけど。 何かが足りていないと言う感覚はどうしても読んだ後に味わう物足りなさを実感してしまうのは私だけ?だろうか? 夏目漱石や太宰治などの小説のストーリー自体はとてもシンプルで特に次にどうなるのだろう?という期待感を抱かせることもない。 淡々と物語が進み、淡々と最後が終わるのである。 でも、読み終えた後に心の中に残るのもは深い場所まで滲み込んでいて、それがずっと余韻のように、或いは心の深層へと静かに沈み込むような感覚を覚えるのである。 この違いはなんだろう? 何かがやはり足りていないような気持にさせられる。 加納朋子も数冊読み終えて、確かに心に沈み込んでくる物を感じることが出来る作品だと実感できるのだ。 しかし、まだ何かどうしてもその奥底にある、小説の文面の行と行との隙間にある言葉に出来ない余韻が足りていないことを感じる。 それはなんだろうか? 物語はたしかに面白い展開だ。 特に池井戸潤の小説はその展開こそが醍醐味であるような小説だろう。 正当な逆襲という展開は読んでいる側にとっては楽しい展開である。 ある種の定番の時代劇風である。 最後には正義が勝つという展開はたしかに気持ちいいし、スカッとするかもしれない。でもだ、で、何なんだ? だからなんだろう? 読み終えた後にはその感想以外にはないのである。 

これからも、現代作家をどんどん読んでみたいし、今の仕事には本は最高の時間潰である。 だから読んでいるとも言っていいのだけど。 時折は近代作家の本も読み直してみたいと思う気持ちが湧いてきている。 果たして、若い頃に読んだ時と同じ感覚は今でも私にあるだろうか? それとも、現代作家と同じような感覚を抱くのだろうか? まだ数冊、数十冊を読んでから、ひとまずもう一度、阿部公房や江戸川乱歩や、太宰治でも読んでみようかなと・・・。 谷崎潤一郎や吉行淳之介ももう一度読んでみたいな~なんて思っている。 

さて、今日は夜勤明け日で早朝の6時前には帰宅した。 シャワーを浴びることもなく、即ビール、焼酎を飲みながら食事を済ませるとベッドに入り、3時間弱で目が覚めた。 朝から雨がパラついている天気では何もすることが出来ない。 バイクはもちろん乗れないし、ジムも月曜日なので休みだ。 洗濯も出来ないし、昨日中には洗濯はしっかり終わらせてあるので、今日は部屋にぶら下っている洗濯物を畳んで片付けることにする。 それ以外にはなにもなし。 出かける用事もないし、まだ頭もすっきりとしていない。 もうしばらくベッドに横になって寝転がって静かに過ごすことになるけど、それでも夜までには時間はたっぷりと残されているので、何をすることもなくTVでもぼんやりと眺めているだけだろうか・・・。 明日は図書館も開いているので、次に読みたい作家の本を3冊借りてくることにしている。 それ以外には仕事や絶対にしなといけない用事以外には特にはないのである。 自由な時間を持つことがこれほど退屈だとも思わなかったけど、それでも仕事に追われるような日々を過ごすよりはいいだろう。 こうしていろんなことを考えたり、想像したり、妄想したりする時間も時にはこれから生きることへの推進力になる場合もあるのだ。 一旦、立ち止まって辺りを見渡すことも人生には大切な要素である。 何もすることが無いのもある意味では大切な時間なのだと言う事はずっと昔から理解していた。 それでも、煩悩はそうした何もない時間を持て余すのである。 それが人間の嵯峨だろうか? 人生を達観することは理解できる。 ただ、煩悩はそうした時間を無駄と思い違いをするのだろう。 勿体ない・・・などと思ってしまうのはやはり人間が未熟なんだろうと知らさせる。 

 

 

 

 


御朱印帳

2018年12月02日 | Weblog

 先日26日月曜日に京都大原公園、日吉大社へ妻と二人でバスツアーだけど行って来た。 その際に御朱印を各お寺、神社で頂くために御朱印帳を購入して大原三千院を最初に参拝して御朱印を頂いた。 それから大原公園にある各お寺を参拝して幾つかの御朱印を頂き、最後に日吉大社で頂いてその日のツアーは終了。 御朱印帳にはすでに6か所以上の御朱印を頂くことが出来た。 そして、30日には岐阜県金町の金神社へ参拝して金の御朱印を頂きに行って来た。 毎月最後の金曜日限定の御朱印と言うことで午後2時過ぎに到着しても御朱印を頂くために並んでいる人が列をなしていて、御朱印を頂くまでに30分近くが掛かったほどである。 午前中はおそらくその倍、3倍以上の行列が出来ていたであろうと想像できる。 神社がある場所は高いビルなども立ち並ぶ街並みの中にあり、こんな場所に神社が有るんだと思ったほどである。神社の境内は決して広くはなく、駐車場もそれほど車を停めるスペースは大きくない。 一旦は境内の駐車場に入ったけど、結局停める場所が見つからず、すぐ隣にある立体駐車場に車を入れることになった。 30分100円なので1時間停めていても200円であるので、駐車料金としては気にするほどの事もなく、結局100円で済んだのも良かった。 例外なく、私もこの神社を知ったのはTV番組で見たことがきっかけで有る。 金の御朱印というのは珍しい事もあるし、神社の鳥居が金色であることなども含めて、多くの人はやはりTV番組などで知った人が多く居た。 御朱印帳も2種類売られていて、どちらも金色の表装であり、いかにもご利益を感じさせるものだった。幾人かはその御朱印帳を持っていたので、何度かこの神社へ脚を運んでいる人なんだろうなと想像できた。 私は御朱印帳を購入したばかりなので、金色の表装の御朱印帳はちょっと魅力的だったけど、衝動買いはしないことにした。今の御朱印帳は京都三千院で購入したもので、裏表紙には三千院の名前も入っている物なのでとても気に入っているし、この御朱印帳が一杯になるまでにはかなりの年数が必要だろうと予想できる。 

知多四国遍路の御朱印帳はすでに6巡目も終わりに近くなっている。 今年は後2回のお遍路で満願することが出来そうだ。 ただし、今週は天気もあまり良くない予報なので、今週は無理だろうと思っている。 来週ぐらいに自転車で1回、バイクで1回廻ることが出来たらいいと思っている。 再来週でも構わないけど、年末になると混雑も予想されるので、出来る限り早く行きたいし、6巡が終わったら興正寺の2回目になるけど行きたい。 さらに今回は手書きの御朱印帳も持って行きたい。 

興正寺と日泰寺は一度に廻って来る予定にしているので、今月は年内に御朱印を頂くことを目標にして公休日は優先して参拝日とすることにしたい。 ただし、天気が良ければと言うことで、出来ればバイクで行きたいし、妻が一緒に行くことになったら車でもいいけど。 手書き御朱印は1拝300円であることがほとんどなので、そんなに一度に多くの御朱印を頂くには予算的な事も考慮する必要もあるけど、今後は知多四国遍路は年に2回は廻ることにして、後は各有名な神社、お寺を参拝して御朱印を頂くことにしたいと思っている。 

最近はTVでも報道されていることが多いけど、御朱印集めが盛んになっている様子であり、御朱印の種類などもいろいろとあるようなので、それらも参考にして御朱印集めをするもの楽しみである。 毎回京都まで行くことも出来ないけど、年に1回は京都に行き、いろいろなお寺、神社の御朱印を集めたいと持っている。これまでもそうだけど、御朱印を頂きに参拝することが私の趣味の最大の物になることは間違いない。 そのためにバイクも125ccから250ccへ乗り換えたのあるし、高速道路の使用も視野に入れてETCも搭載している。 今後まだ一つ欲しい物があり、ヘルメットをしっかりとしたSHOEIの物を購入する予定にしている。 

これでまずは全て揃うことになる。 今後は御朱印を集めるためのお金を作るために無駄な物は買わない事。 さらには煙草をやめる事も大切な事だと思ている。ジムは続けて行きたいけど、休日にお遍路などを優先するとジム通いは難しくなりそうなので、どうしようなか? と思っている。 身体も鍛えたいし、もちろん、それは健康な身体を維持することになるし、健康な身体が無ければお遍路も出来ないし、バイクにも乗れないので、基本はやはり健康な身体を維持することが優先されるべきだろうと思うのだけど、なかなかその時間を作るのは難しいのである。 月に9日の休日でお遍路とジム通いを同時にすることはちょっと無理もある気もする。 実際にこの2週間以上もジムには行っていないし、公休日に妻の休みと重なった場合にも妻と出かけることも優先したいので、そうなるとジムを午後から行くことは難しくなる。 

そんな訳で、ちょっと今月はジムの定期をどうしようかな~と迷っているのでもある。 12月は年末から正月の年明け後にもジムは休みになるし、定期はちょっと勿体ない気もするからだ。 それでも以前もそうだったけど、1か月近くジムを休むと筋肉は相当落ちてしまって、ジムをしない前の身体に戻ってしまうのも経験していて、再開すると数回程度は筋肉痛でちょっとキツイのである。 

今の仕事は連休が無いシフト制の仕事なので、今後は年に数回は連続で3~4連休を取って、のんびりと神社、仏閣を巡る旅行も計画して行けたらと思ている。京都はもちろんだけど、その他にも行きたい神社やお寺は沢山あるので、少しづつ廻ってみたいと思っている。 年を取ってから持続できる趣味を持つことはとても大切なことであり、それをまた1つ見つけることが出来たのは良かったと思っている。 読書も最近は面白くなって来たし、いろんな作家の本を読み続けたいと思っている。 最新の作家の作品に拘ることもないし、図書館で見つけた本を今後も読み続けてみたい。