幸いうちでは、日蓮正宗時代には葬儀をしたが、創価学会に在籍していた期間に亡くなった身内は居ないので、本当に幸いで創価学会式の儀典部による同志葬(友人葬)は行なった事がない。今は日蓮正宗なので安心している。
この友人葬、儀典部なる素人が故人を送る為、死んだ人は浮かばれず、故人を地獄界などの過酷な世界へ送り込む儀式となってしまう。その儀典部の幹部の人も、死者の業罰をこうむり、ろくな死に方もしていない人が多いと言う。
やはり、死んだ時は引導を渡すに足る、立派な日蓮正宗の御僧侶に頼み、葬儀をしてあげた方が亡くなった者も喜ぶと思う。
日蓮大聖人の御書にも載っているが、昔の中国で、法華経を嫌った大層有名な書家の親子がいた。その父が亡くなる時、遺言で法華経だけはダメだ、と言い残した。
しかし、その時の中国の国王が、法華経の題字を書いてくれ、とその子供に頼む。子供は王様の頼みなので大いに迷う。その晩、子供は夢を見る。父親が地獄界から、どうか法華経の題字を書くように、そうすれば私は地獄から救われる、と懇願している夢だった。子供は妙に思う。これはどういう事か。居ても立っても居られなくなった子供は王様に直訴してその題字を書かせて頂きたいとお願いした。
そうして、法華経を書き、夢で父親が法華経を書いた事を感謝し、救われた様を見た子供は安堵する、と言う話だ。
死んだ者が言った事が絶対なのではなく、仏法の定理から見れば、法華経こそが最高最上の教えなんだ、と言う話であった。
例え、創価式の葬儀をあげても、その非に気付いたならば、後からでも日蓮正宗寺院にて頼んで法要してもらえば、助かる可能性はある。それだけ創価の葬式はコワイ仕業、地獄送りの儀式なのだ。