食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

南部植民地と黒人奴隷がもたらした食-独立前後の北米の食の革命(6)

2021-09-25 17:02:19 | 第四章 近世の食の革命
南部植民地と黒人奴隷がもたらした食-独立前後の北米の食の革命(6)
今回はアメリカ独立前の南部植民地の食について見て行きます。

独立時の南部植民地は、メリーランド・バージニア・ノースカロライナ・サウスカロライナ・ジョージアから構成されていました。すでにお話したように、バージニアがアメリカにおけるイギリス植民地の第一号で、1607年に最初の都市ジェームズタウンが作られました。そして、メリーランドは1632年にバージニアの北部を切り取る形で建設されました。

1660年のイングランドの王政復古で活躍した貴族たちに与えられたのがバージニアの南にあったカロライナ植民地で、1663年に建設されました。カロライナ植民地は1729年に南北に分割され、さらに1732年にはサウスカロライナの南部を分離することでジョージアが作られました。

以上のような南部植民地の最大の特徴は、「農業」を主体とした社会が作られたことです。南部の沿岸地帯は土壌が肥沃で、亜熱帯性の雨が多い気候だったため、農業を行うのに適していたからです。

このため、南部植民地には農業目的の移住者がたくさん集まってきました。また、大農園の経営者は労働力として、アフリカから連れて来られた大勢の黒人奴隷を利用しました。植民地時代には南部の人口の三分の一以上が黒人だったと言われています。

こうして、メリーランドとバージニアではタバコのプランテーションが行われ、ノースカロライナ・サウスカロライナ・ジョージアではコメインディゴ(藍色の染料)のプランテーションが盛んになりました。それが19世紀になると、大部分が綿花のプランテーションに置き換わります。綿花の方が儲かるようになったからです。

このように南部では黒人が多く暮らしていたため、アフリカから持ち込まれた作物が南部に根付きました。今回はこのようなアフリカ由来の作物を中心に、南部の食について見て行きます。

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南部植民地では白人のほとんどが大農園の経営者か自作農だった。大農園の経営者は広大な農地を所有し、プランテーションによって莫大な富を得られたことからとても裕福で、政治的な権力も有していた。彼らが目指したのは本国イギリスの貴族のような生活だった。イギリス貴族と同じような大きな邸宅を建て、豪華な料理とヨーロッパから取り寄せたワインを楽しんだ。料理をしていたのは主に黒人の女性奴隷で、料理を作るのがとてもうまかったからだと言われている。

黒人奴隷がアフリカから一緒に持ってきた食材に「オクラ(okra)」がある。オクラはアフリカ北東部が原産地で、その栽培は紀元前12世紀頃にエチオピアで始まったと考えられている。その後、アフリカの西部にも栽培が広がって行った。また、2000年ほど前にはエジプトでも栽培が始まった。エジプトにはトマトスープでオクラを煮た伝統料理がある。



南部植民地では、黒人奴隷は故郷の料理を真似てオクラ料理を作り始めた。西アフリカではオクラは様々なスープやシチューに使われることが多く、同じような料理を作り始めたのだ。また、オクラをぶつ切りにして、トウモロコシの粉をまぶしてフライにした「オクラフライ」という料理も考案され、南部の名物料理になっている。

スープやシチューにオクラを使うと汁にとろみが加わり、料理に厚みが出る。南部ではこのようにとろみのあるスープやシチューが次第に定着して行き、現代でも伝統料理としてよく食べられている。

なお、このようにとろみのあるスープやシチューはオクラが入っていなくても「ガンボ(gumbo)」と総称されるようになった。ガンボは、アフリカ西部でのオクラの呼び名の「キンゴンボ」に由来するとされる。


ガンボ(Jon Sullivan による Pixnioからの画像)

ガンボはご飯にかけて食べるのが普通だ。実はこのご飯(コメ)もアフリカから南部植民地に持ちこまれたものだった。

あまり広く知られていないが、イネは大きく分けてアジアイネ(Oryza sativa)とアフリカイネ(Oryza glaberrima)の2種類がある。このうちアジアイネは約1万年前に中国原産の野生種から栽培化されたと考えられている。一方のアフリカイネは、約3000年前にアフリカ東部原産の別の野生種を栽培化することで誕生したとされる。

アフリカイネはその後アフリカの西部に広がるとともに、品種改良が行われることによって多様化して行ったことが最近の研究から明らかになっている。そのうちの一品種が黒人奴隷とともに南部植民地に運ばれたのだ。その後コメ作りはカロライナの大きな産業となり、17世紀の終わりには、海外に向けて大量に輸出されるようになった。

ただし、アフリカイネからとれるコメはアジアのコメに比べて扱いづらいという特徴がある。アジアのコメは強度があるため機械で精米しやすく、大規模な生産が可能であるのに対して、アフリカの米は粒が割れやすいため、手作業で精米しなければならないのだ。このような特徴から、アメリカにおけるアフリカイネの栽培は時代が進むにつれてアジアイネに取って変わられてしまったのだ。

なお、最近では、アフリカイネとアジアイネを交配することで、乾燥に強いというアフリカイネの特長と、扱いやすいというアジアイネの特長を持った新品種のイネが開発され、アフリカなどで栽培されている。


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