江戸の味噌汁-近世日本の食の革命(10)
「御御御付」をどう読むかご存知でしょうか?
これは「おみおつけ」と読み、味噌汁のことを意味します。
もともと味噌汁はご飯に付ける汁物と言う意味で「おつけ」と呼ばれていましたが、それに尊敬や丁寧さを表す「御」が二つついてできたと考えられています。
味噌汁がこのような大そうな名前になったのは、栄養価がとても高い一方で、江戸時代初期にはそれなりに高価な食べ物だったからです。
今回は、江戸っ子の大切な一品だった味噌汁について見て行きます。
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味噌汁は鎌倉時代に誕生し、室町時代には武士を中心に広まったとされている。また、味噌は携帯が容易なため、戦国時代には団子状の味噌を戦場に持っていき、湯を注いで食べたと言われる。一方、味噌の原料のダイズは、軍馬の飼料としても使われていた。このように、戦国時代にはダイズや味噌は主に武士階級が消費をしていたのである。
ところが、江戸時代になって世の中が平和になると、一般庶民もダイズを手に入れることができるようになった。そして、味噌を専門に作る味噌屋が次々と誕生し、江戸内でたくさんの味噌が出回るようになる。
味噌は比較的簡単に作ることができるため、自宅で味噌作りをする者も少なからずいたそうだ。庭付きの家を与えられた上級武士も、自宅で味噌を作り、庭で育てた野菜を入れて味噌汁にして飲んだらしい。なお、自分自身をほめることを「手前味噌」と言うが、これは自分で作った味噌を自慢するところから来ている。
江戸では武士も町人も朝に、その日に食べる分のご飯を炊き、朝食にはご飯と味噌汁、漬物などを食べた。栄養価の高い味噌汁が毎日の活力の元になっていたのである。ちなみに、将軍などの要職にあった武士たちは毎食味噌汁を飲んでいた。
味噌汁の具は懐具合によってまちまちだったが、庶民ではダイコンなど江戸で安く手に入る野菜などが多かった。ダイコンは大根おろしにして味噌汁に入れられることもあったらしい。一方、将軍の味噌汁には豆腐や油揚げがよく入れられたという。
味噌汁をご飯に「ぶっかける」食べ方は室町時代から行われており、江戸でも定番の食べ方だった。アサリの汁物をご飯にかけた「深川飯」は、漁師が捕れた貝の味噌汁をご飯にかけて食べていたのが始まりとされている。のちに味噌汁ではなく、醤油のだし汁で煮たアサリが使われるようになる。
さて、次は味噌の話だ。味噌は日本の各地でそれぞれ特徴的なものが作られてきており、数えきれないほどの種類がある。江戸の町にもたくさんの種類の味噌が流通していたという。
この中で、江戸で最も人気があった味噌は「江戸味噌(江戸甘味噌)」だ。この味噌は、徳川家康が江戸独自の味噌を作るように奨励したことによって誕生したと言われている。江戸味噌は、京都の白味噌のように大量の米麹を使用するため甘くて塩辛くない。そして、ダイズの風味が豊かで褐色をしている。
江戸味噌はその名の通り、江戸内の味噌蔵で醸造されて、出来上がってすぐのものが江戸で流通していた。江戸っ子はみんな江戸味噌が大好きで、江戸で消費される味噌の半分以上が江戸味噌だったと言われている。
なお、長らく江戸っ子の江戸味噌好きは続いたが、第二次世界大戦の戦時統制によって米麹を使えなくなり、醸造が途絶えた。戦後に復活するが、以前のような人気を取り戻すことはなかった。
江戸味噌以外には、信州味噌などのような地方の味噌も人気があった。その代表格が「仙台味噌」だ。この味噌は、伊達政宗が仙台城内で作らせた味噌が始まりとされているもので、濃い塩味と香りを特徴とする。ご飯と仙台味噌だけあれば、食事ができると言われているほどうま味が深い。
仙台味噌は第2代藩主の頃に、江戸藩邸で生活していた藩士のために仙台藩の下屋敷で作られるようになった。そして余った味噌を売ってみたところとても好評だったので、大体的に売り出されるようになったのだ。こうして稼いだお金は仙台藩の財政を大いに潤したという。
最後に「味噌漬け」の話を少しだけしよう。
味噌はそれ自身が保存食であるだけでなく、味噌に野菜や魚、肉を漬け込むと長期保存ができるようになる。さらに、食材に味噌の風味が移ってとても美味しくなる。このため、味噌の生産量が増加すると、味噌漬けもよく作られるようになった。井伊家では、江戸時代中頃より、牛肉の味噌漬けを将軍や御三家などに贈るのが習わしとなっていたという。肉食が禁じられていた時代であるが、「薬」という名目であれば肉を食べても良かったのである。