西アジアの征服と食文化の融合-イスラムのはじまり(4)
632年にムハンマドが死去すると、当然のことながらイスラム勢力には動揺が広がった。ムハンマドの死後、先頭に立ってイスラム勢力をまとめたのが「カリフ」と呼ばれる後継者たちだ。特に、最初の4代のカリフはウンマ(イスラム共同体)の合意によって選ばれたため「正統カリフ」と呼ばれる。そして、632年のムハンマドの死から始まり、661年のウマイヤ朝成立まで約30年間を正統カリフ時代という。この正統カリフ時代には、いわゆる聖戦(ジハード)を積極的に行うことによって、イスラム勢力の領土が西アジアに広がった(下図参照)。この領土を治めたのはアラブ人であったことから、この国家を「アラブ帝国」と呼ぶことが多い。
初代カリフはムハンマドの親友で最初期の入信者であるアブー・バクル(在位632~634年)だった。アブー・バクルの娘はムハンマドの妻の一人だったことから、ムハンマドの義父でもあった。彼はムハンマドの死後に分裂しそうになったイスラム勢力を説得してその危機を回避した。また彼は、イスラム共同体から離反しようとしたアラブ諸部族に討伐軍を派遣してアラブ半島の再統一に成功する。
ところで、アラブ半島は乾燥地帯のため生産性が低く、もしペルシア帝国やビザンツ帝国に攻め込まれると、対抗するのは難しい状況だった。そこでアブー・バクルは、二つの大国に攻められる前に自ら打って出るという戦略をとった。この戦略はその後の正統カリフにも受け継がれた。
イスラム軍はまず東地中海に面する豊かなシリアの奪還をかけてビザンツ帝国と戦った。イスラム軍は当初はビザンツ帝国軍に敗北するが、635年にはシリアの征服に成功する。一方、ペルシア帝国軍に対しても最初は旗色が悪かったが、次第に劣勢をひっくり返し、637年にはササン朝ペルシアの首都クテシフォンを征服する。その宮殿には財宝が満ちあふれていたという。さらに641年にはエジプトを征服した。エジプトはそれ以降の地中海進出の大きな足場となる。次の年の642年にはイスラム軍はササン朝ペルシアに完勝し、651年にペルシア王が殺されたためササン朝は滅亡した。以上のようにイスラム軍が征服した地はすべてがイスラム化して行った。
なお、イスラム勢力はキリスト教のギリシア正教が支配していたエルサレムを637年に奪取する。そしてユダヤ教徒の居住を認めた。この時からエルサレムは、キリスト教とともにイスラム教とユダヤ教という3つのセム族の宗教の聖地として守られていくことになった。
こうして生産性の低かったアラブ半島を飛び出して豊かな西アジアを征服したアラブ帝国では、食文化も大きく変化した。もともとアラブの人々はコムギ、オオムギ、ナツメヤシとヤギやヒツジ、鳥などの肉や乳製品を食べていた。ここにペルシア帝国などの豊かな食文化が加わったのである。
ペルシアの食文化から伝わった重要な食材としては、コメと砂糖やコショウ・ターメリック・シナモン・サフランなどの香辛料がある(これらは元はインドの食材であるが)。特に砂糖はアラブ人を虜にしたようだ。クルアーンには「甘いものを食べることは信仰のしるし」とあるらしく、もともとアラブ人は甘いものが好きだったようだ。
小麦粉を使ってドーナツのようなものやパンケーキのようなものを作って砂糖やシロップをかけて甘くしたらしい。また、コメにも砂糖を入れて甘くして、サフランやターメリックで色をつけたという。ジャムや甘い果物のジュースも人気だったようだ。
食材や料理法がアラブ帝国に導入されるとともに、その栽培法や農耕技術も取り入れられた。中でも重要なものが灌漑設備のカナートで、イスラム勢力によってアラビア半島や北アフリカに伝えられ、さらにその後のイスラム帝国のヨーロッパ進出にともなってイベリア半島などにも導入されることになる。このようにイスラム勢力の拡大は、アジアの文化や技術をヨーロッパに伝えるという大きな役割を果たすことになって行くのである。