おだやかな日々が続きますように。

脳腫瘍で結婚して3年間たたかった新婚カップルの日々

クリスマスからはじまった

2008年12月23日 | 今までのこと
 今日は、久しぶりの休みです。しかし、風呂敷残業です。明日は、24日クリスマスイブです。2005年12月クリスマスイブの日、妻の父が通ってた病院に付き添いで「顔がまがっているから検査しないといけない」と言われて、初めて、CTをとりました。その時、家族の人と言われて、写真を見たときから、妻の闘病がはじまり、私も妻の人生を背負っていこうと決意しました。クリスマスイブは、お泊り計画がありましたが、なくなく断念て、/kaeru_shock1/}クリスマスプレゼントに「トトロ」を買ってきました。妻と私は、デコボココンビで妻が160センチぐらいで40キロ、私は、175センチで体重は、9?キロです。だから、トトロを買ったのでするその後、トトロは、長い入院生活のお守りとなりました。2005年12月24日が土曜日で、その病院に入院して、月曜日にMRIをとりました。それで脳腫瘍と確定したのです。お姉さんから、私の家に相談があると電話がありました。おふくろからは、「アンタ、妊娠させてないやろね」と聞かれたのを覚えています。
 その後、3月に再発して、ノバリスという放射線治療をすることが決まった時に、結婚を決意しました。水曜日に結婚式を決めて、土曜日に式をあげました。でも、30人を超える人が県外や東京・埼玉から来てくれました。この時期が来ると毎年、そのことを思い出しています。正直、来年のクリスマスは、ないのかもしれません。最大限、できることをがんばりたいです。







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ちよっと感傷の日です。

2006年12月30日 | 今までのこと
 昨日から雪が降り始めました。昨日はチヨットひどかったです、新聞によると17cm積もったそうです。今日、妻のお父さんのお見舞いに大学病院に行ってきました。大学病院は、小高いチヨットとした山にあります。雪のある駐車場見ると、去年、ここに通ったことを思い出しました。当時は、まだ彼女だった妻は、1年前の今日、緊急オペとなりました。前の日、とにかく、恐いといい続けていて、私が10時ぐらいまで側にいたのを覚えています。夜8時ぐらいに麻酔医の女医さんがこられて、妻が「はなづまりでも麻酔はききますか、途中でさめることはないですか」ときいていたのを覚えています。女医さんは、まじめにこたえてくれました。
 術前には、おきまりの最悪の場合の話をされました。当時は、まだ単なる彼氏だった私も医療従事者もどきということもあり、術前・術後の家族へのムンテラ=説明に参加させてもらっていました。術後は、意識がしばらくもどらないといわれていたのに帰ってくるなり、すぐにしゃべれたのです。彼女の両親が会って、私は、一番最後と思っていました。もし、私のこと覚えていなかったらと思いましたが、両親に会うなり、私は、どこにいると言ってくれたのでした。
 今日、私と妻の縁をとりもってくれた同級生の元看護師にお礼を持っていきました。病気がわかって、メ-ルや電話でいろんな励まし・アドバイスをもらいました。ホントにいろんな人に支えられた1年でした。



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クリスマスイブで1年

2006年12月24日 | 今までのこと
 去年は、大雪でした。去年の23日は、石川で会議の予定でしたが、東海側の愛知からのアクセスが悪く、帰れないかもしれないということで会議も中止となり、彼女だった妻を誘って映画を見に行きました。そのときも思えば・・・頭が痛いと言ってました。手に力が入らなくて、車のドアも閉められない状況でした。
 そして・・・翌日は、近くのコテ-ジでお泊りの予定でした。そしたら、検査することになったのメ-ルが届いたのです。あまりの頭痛に・・・彼女のお父さんが通っている脳外科に一緒にいったのです。そうしたら、このブログの最初で書いたように「アンタ。顔曲がっているから、写真とらないといけない」と言われてCTをとることになりました。
 当時、しきりにゴメンという彼女に「病院は、一緒に行くよ。早く終わって、近くのところでお泊りしよう」と言って、一緒に病院にいきました。そこで「頭の中に白いものが見える」と言われて、即入院、大学病院に転院となって、彼女の長い入院生活がはじまりました。昨年28日に今の主治医からのムンテラ・・説明で1年生きれる可能性が厳しいと言われたことを覚えています。それから・・・1年がたとうとしています。
 いろんな人に感謝です。



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幸せな日

2006年10月09日 | 今までのこと
 10月8日は、亡くなった祖母の3回忌でした。その法事とあわせて、妻を親戚に紹介することになっていました。今までいとことの会食などもありましたが、親戚全部と会うのは、初めてで、妻も超緊張していました。
 なにしろ、前頭葉の再発が確認されて、再入院した時に、入籍はせず、結婚式と写真撮影だけするということを急いでやり、しばらくは事実婚ですごしていました。私のお袋の強い意向で6月に入籍しました。いずれも、私のおやじは、反対でした。 妻が嫌いということではなく、時間がなかったのだと思います。つきあいはじめた当初、オヤジが同居することを考えて、オヤジの書斎を私たちにあけ渡すことを考えていました。それが、きゅきょ、入院、病名確定となったものですから。
 法事の案内に合わせて、私たちが結婚したこと、妻が病気であることは、伝えてありました。会食の場でのあいさつで、反対といってた父が祖母の3回忌に集まっていただいたお礼と私たちが結婚したことを紹介してくれました。会食が終了するときに、私から一言挨拶する場がもうけられていました。
 この日の朝、「いつも、胃の調子が・・・」という妻が珍しく「おなかすいた」といって起きてきました。超珍しいことです。朝食食べてから、超ひさしぶりにお化粧して、カツラもかぶって、実家に向かいました。実家で私のお袋と一緒に着替えました。妻は、来る人、来る人に頭をさげて「よろしくお願いします」といっていました。
 お袋は、常日ごろ、妻に大丈夫だよと声をかけてくれて、妻も「ハイ」と返事をしていました。妻は、いろいろ苦労してきたこともあって、誰にでも、その都度「ありがとう」をいいます。私とご飯食べていても、ハシをとってくれてのアリガトウ、ご飯食べてアリガトウ、かたづけのアリガトウと何回でもアリガトウをいいます。自画自賛ですが、超性格はいいのです。
 父方の親戚の叔母さんたちからは、「おばあさんの命日に合わせてでかした」「どことなく、亡くなった祖母に似ているのでは」と言われました。とにかくかわいいお嫁さんだと言われて、好評でした。まあとにかく幸せな日でした。









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今までのこと6

2006年07月29日 | 今までのこと
 最初の電話をしてから、ともちゃんから手紙をもらいました。その手紙には、5月に出かけた帰りに1日中嘔吐したこと、手が食事をしているとしびれることが書いてありました。付き合いはじめてからは、動物園や公園などを1時間近く歩くこともあって、元気でした。ただ、「今、しびれた」いうことは、しばしばありました。5月に嘔吐して、県立の病院にいって、精査して、今、心療内科に通っているときいてたので、私はてっきり、県立病院の紹介で、心療内科に通院しているんだと思い込みました。だから、しびれの原因は、メンタルなものだと思ってました。実際、私の職場にメンタルヘルスで症状が出ている人が何人かいたので、そう思いました。
 ともちゃんの手は、いつも冷たく、手をあたためるのが私の仕事でした。また、ともちゃんがしめる車のドアは、いつも半ドアでした。11月には、奈良・京都にいって、奈良の大仏さんにあってきました。大仏のところでは、くぐると病気にならないといわれているところをともちゃんは、くぐりました。最後は、私がひっぱりました。
 12月になって、両方の親に会おうと言い出していたころ、また、嘔吐がはじまりました。12月3日土曜日の夕方に「気持ち悪い、はきそう、タクシ-で病院にいくにはどうしたらいいという」メ-ルが入りました。私は、用事をキャンセルしてね車でかけつけ、2次救急の日赤にいきました。このころは、まだ診察は、本人だけにまかせていました。結局、吐き気止めの点滴をされて、終わりでした。外来がいっぱいで点滴は、廊下ででした。その間、私は、ずっとそばにいました。看護師さんから「だんなさん、薬もらってきてください」といわれて、「だんなさんだってそう見えるのかな」とうれしがってました。
 その後も頭痛は、続きました。しかし、痛いヶ所が特定できず、不定愁訴だったこともあって、すべて、メンタルで片付けられていました。県立病院の紹介で心療内科に通院しているという勝手な私の思い込みでそういうことにしていました。お互い、年も年なので、<ベビブ-ムの羊年です。>結婚にむけてということや彼女は、新しいバイト先をみつけてきていました。そういうことに対する不安から来るものという理解をしていました。
 しかし、心療内科は、勝手に彼女が通っていたのです。嘔吐で入院した県立病院は、消化器系の精査や精神科の受診はしたけどね頭の写真はとらなかった。退院後、いつきてくださいというフォロ-もなかったそうです。
 あまりに続く頭痛にお母さんと彼女で日赤を受診しましたが、「眼の疲労」ではないかといわれ、結局、CTなどをとることはありませんでした。結局、12月24日に「あんた、顔まがっている。写真とらんと駄目だ」とMRIのある開業医に指摘されるまで、CTなどをとることはありませんでした。
 結果論ですが、5月に発症していたのが、一度もCTをとることなく、病状が進み、5センチのG4の腫瘍が発見されることになったのです。
 私は、事務系で現場にはいませんが、医療関係で働いています。詳しい病気のことはわからなくても外来の受診の仕方や病院側の事情などや看護師や医師にどう伝えたらいいかはわかります。だから、12月にどこか受診するときは一緒にいきましたし、その結果、自然と彼女のお母さんとも話をするようになりました。
 12月に「頭が痛いよ、脳梗塞とか脳腫瘍じゃないけ」と彼女がいうたびに、「歩けないわけじゃないし、元気だよ。動物園でもちゃんと歩いたじゃない」といつも否定してました。その頭の痛さをもっときちんとわかってあげればとしばしば思います。24日に入院となって、26日にともちゃんの家族から呼ばれて「脳腫瘍だったんです」ときかされたときは、なぜだかすんなりと受け入れられました。また、彼女の闘病を支えるために、神様が引き合わせたんだと思い決意を固めました。















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今までのこと5

2006年07月28日 | 今までのこと
 馴れ初めと病気になるまでのことを書きたいと思います。
ともちゃんとたけちゃんは、同じ中学で、高校は、受験に失敗して、同じ私立高校に入りました。サッカ-の柳沢の母校です。高校時代は、2年ぐらい同じクラスでした。3年の時のクラス替えで前のクラスと違うクラスに入れられたことが一緒でした。文系で進学クラスで英語ばっかり30時間くらい受けていました。
 とにかく、高校時代もそんなに話たことないし、高校卒業して、20年1度も電話で話すことも会うこともありませんでした。
 同窓会は、卒業後10年後に1回あり、昨年10年ぶりにありました。ともちゃんは、きていませんでした。キュ-ピット役で今も相談にのってくれている幹事役の子がたけちゃんにともちゃんは、独身だよ。がんばってみればといったことを真に受けたことがきっかけでした。
 同窓会終わってから。、ともちやんが卒業の時と変わらない所に住んでいることを確認して電話しました。何気ない電話でした。しかし、ともちゃんは、そのとき、しびれで体調が悪くどん底だったそうです。一番たいへんな時に電話してきた救いの神だったそうです。
 何度か電話した2回目は、リストラされた日でした。たけちゃんは、労務の専門家だったので、適切なアドバイスを。最初に電話してから1ヶ月の間でたけちゃんは、ともちゃんの救いの神となったそうです。
 そして、9月のある日、ともちゃんの家の近くで待ち合わせ。ともちゃんは、高校卒業のまま、たけちゃんは、高校卒業してから30キロ近く太っていました。ともちゃんは、この人誰???と思ったそうです。
 それから、毎週、どこかにいきました。ともちやんが温泉好きということで、県内の温泉にドライブにいきました。



















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今までのこと4

2006年07月15日 | 今までのこと
 3月に退院して、9月ぐらいに再発するでしょうが、4月半ばに再発。それを治療するには、ノバリスという世界で3つ、日本では、ひとつしかないピンポイントの放射線照射でした。それを受けるには、隣の病院に行く必要がある。石川県の浅野川病院にノバリスはあります。しかし、それを受けても予後は厳しいとのことでした。こうした状況の中、限られた時間でウエデングドレスを着せて、一緒に暮らせたという事実をつくることが必要ということで、今までのこと3で書いた日程で挙式しました。また、たけちゃんは、ちもちゃんの実家から歩いて2分ぐらいのところにウイ-クリ-マンションを借りて、一人暮らしをはじめ、ともちゃんは体調のいい時に通って、家事をするようにしました。GWという時間を有意義に過ごすことができました。GW明けからノバリスの照射がはじまりました。副作用は、どんなにひどいのかと覚悟していましたが、照射は、15分ぐらい。なんともないよとともゃんが帰ってきた時はホットしました。ノバリスのある浅野川病院に2週間近く入院することとなりました。
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今までのこと3

2006年07月12日 | 今までのこと
退院して、毎週デ-トしましたが、ともちゃんは、髪の毛が気になって、髪の毛としかいいません。たけちやんは大丈夫といい続けました。入院中は、たけちゃんが病室にいけば、毎日会えましたが、退院するとそうはいきません。そこで、たけちゃんは、朝のウオ-キングを提案しました。そうして、軽井沢への旅行などを計画しました。そんなこんなしていた4月のある日、ウオ-キングできませんのメ-ルがきました。お風呂に入るとよだれがとまらないは、前からいってましたが、4月中旬のある日、お風呂で嘔吐したのでした。大学病院にいって、CTとると、それまで大丈夫といっていた主治医も「早すぎる」とコメント、前頭葉での再発でした。入院して、MRTとろうといわれて、再入院へ。主治医からは、ノバリスというピンポイント照射にかけてみようと提案。たけちゃんは、これに立ち向かうには、体制を整えることが必要と覚悟、ともちゃんに「結婚しよう」とプロポ-ズしました。
 翌週に式をあげようとともちゃんに話しました。たけちゃんは、ねぼけまなこの時ともう一回話してOKをもらったといいまかすが、ともゃちんは、知らないといってます。とにかく、4月19日に決めて、22日式と写真撮影だけを行うということを強行しました。急なことに集まってくれた人は33名いました。東京、埼玉からも友人がきてくれました。
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今までのこと2

2006年07月09日 | 今までのこと
 年末の緊急手術でした。思ったより早く帰ってきました。病棟の中のICUに帰ってきて、お父さん、お母さんが対面。たけちゃんは、一番最後にと思っていたら、「たけちゃんはどこにいる」といっているといわれて、病室へ「ゆうゆう館にいきたい」とはっきりいいました。看護師には、「そうけんびちゃ」を飲みたいといったそうです。「そうけんびちゃ」は、今、我が家の必需品でした。
 その後、2ヶ月間、放射線の照射がはじまりました。一番強いレベルでした。たけちゃんは、ほぼ毎日、通いました。たけちゃんの仕事は、時間の自由がきくために中ぬけをよくしました。10分近くしかれない日もいっぱいありました。そして、3月頭には退院しました。
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今までのこと

2006年07月08日 | 今までのこと
 たけちゃん、ともちゃんは、中学・高校の同級生です。昨年20年ぶりに再開。9月から付き合いはじめる。たけちゃんは、医療関係者、事務屋。手がしびれるという主訴はあったが、ともちやんが「心療内科」を受診していたため、メンタルなんだで片付けられていました。
 12月に嘔吐で2次救急受診、病院受診するのは、たけちゃんが得意で。点滴しながらデ-トしていました。旦那さんと呼ばれてと思うことも。12月24日クリスマスにあんた、顔まがっているから写真とらんと駄目という街医者の一言でCTをとり、白い影発見、26日MRIで脳腫瘍確定。大学病院に転院、緊急手術でばたばたと。たけちゃんは、家族でもないのに医師のムンテラにも参加年末、年始は、病院のお見舞いで過ごしました。
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