朝ドラ、やめておけぱいいのに、朝・昼と見てしまいました。昔の仲間が尋ねてきて、目をさまさまない愛(いとし)君と対面。ともさんが意識なくなったのは、亡くなる直前なのに、4年もたつのに泣けて泣けてしまいました。
昨日、ともさんの日でおまいりにいってきました。朝ドラの話を義母としました。
なんかつらいよね。最後によりによって、脳腫瘍とはと義母がいいました。
4年前にあった市長選挙があります。4年立つんだなと想いました。でも、哀しみは、消えません。
なんかつらいよね。最後によりによって、脳腫瘍とはと義母がいいました。
4年前にあった市長選挙があります。4年立つんだなと想いました。でも、哀しみは、消えません。
朝ドラで愛(いとし)君が脳腫瘍で倒れて、お母さんが来て、手術を快諾させました。「もう、私のこどもを死なせない」というセリフがありました。義母は、ともさんの死がつらかったのだとあらためて思いました。ともさんが危篤状態となったとき、どうやって寝たか覚えていませんが、義母と義姉と義妹と私で川の字のようになって寝ました。そんなことも思い出しました。
オペが終わっての第一声は、「たけちゃんどこにいる?」でした。記憶障害になるかもといわれていましたが、しっかり私を覚えていてくれました。
今、私がいれるのは、ともさんがいたからです。土曜日がともさんの日です。
http://blog.goo.ne.jp/t3042sst/e/45c095e3159efb428f12fd336a8f5eff
オペが終わっての第一声は、「たけちゃんどこにいる?」でした。記憶障害になるかもといわれていましたが、しっかり私を覚えていてくれました。
今、私がいれるのは、ともさんがいたからです。土曜日がともさんの日です。
http://blog.goo.ne.jp/t3042sst/e/45c095e3159efb428f12fd336a8f5eff
朝ドラのように、ホテルは、開業しないし、沖縄でもないけど、頭痛がありながら、きずかず、手術するところは、男女入れ替わりですが、昔のともさんと私のようです。チョツト胸がズキズキします。
今日、介護施設の面接です。がんばってきます。
今日、介護施設の面接です。がんばってきます。
朝ドラの順と愛で愛(いとし)君が脳腫瘍にたおれました。先週、倒れたところまでで、こんな最後で倒れなくてもと思いましたが、今日、病名をきいて、ハア―っと思ってしまいました。「脳腫瘍」でした。
ところで、脳腫瘍は、なぜ、脳のガンといわないのでしょうか?
検索してみると、以下のようなものがみつかりました。
脳腫瘍は様々ありますが、
WHO分類でgrade2以上は、基本的には癌のようなものと考えてもらって差し支えありません。
ただ、grade2は比較的良性と言われ、進行は早くなく、10年以上生存も少なくありません。一方でgrade2でも急に悪性化してしまうこともあるので、悪性ではないと言うことは難しいと思います。
一般に言う癌と同等と表現して良いのはgrade3以上で、これらは平均寿命が3年以下、4になると1年以内にかなりの患者さんがなくなります。
4でも胚細胞腫瘍や髄芽腫のように化学療法で長期生存可能なものもありますが、あくまでもWHO分類は元々持つ悪性度(つまり浸潤増殖転移の能力に優れた性質)を反映します。
愛(いとし)君が復活することをお祈りしています。
ところで、脳腫瘍は、なぜ、脳のガンといわないのでしょうか?
検索してみると、以下のようなものがみつかりました。
脳腫瘍は様々ありますが、
WHO分類でgrade2以上は、基本的には癌のようなものと考えてもらって差し支えありません。
ただ、grade2は比較的良性と言われ、進行は早くなく、10年以上生存も少なくありません。一方でgrade2でも急に悪性化してしまうこともあるので、悪性ではないと言うことは難しいと思います。
一般に言う癌と同等と表現して良いのはgrade3以上で、これらは平均寿命が3年以下、4になると1年以内にかなりの患者さんがなくなります。
4でも胚細胞腫瘍や髄芽腫のように化学療法で長期生存可能なものもありますが、あくまでもWHO分類は元々持つ悪性度(つまり浸潤増殖転移の能力に優れた性質)を反映します。
愛(いとし)君が復活することをお祈りしています。
介護労働は、絶対に必要な産業です。しかし、その処遇は、まだまだ低い。
明日、いよいよ現場実習です。介護とどっぷり向かいあって、いい介護をつくるために働きたいと思います。
http://www.pref.osaka.jp/koho/24-dantaimokuji/241120helpergiji.html
明日、いよいよ現場実習です。介護とどっぷり向かいあって、いい介護をつくるために働きたいと思います。
http://www.pref.osaka.jp/koho/24-dantaimokuji/241120helpergiji.html
ヘルパ-教室、修了。実習は、これから。東日本大震災を追悼して、脱原発を考える集会、大学の同窓会いろいろありました。
車椅子のとりあつかいだけは、自信があります。ともさんの介護で身につけました。
車椅子のとりあつかいだけは、自信があります。ともさんの介護で身につけました。
今日も変な夢見ました。人物もくっきりはっきり、夢の中の出来事全部わかります。
帰ってくると近県に住んでいる母のおばさんがアルツハイマ-、認知症と診断されてビックリしたということでした。介護の教室では、老老介護ならず、認認介護が話題となっている言われました。
それなのにそれを支える体制は、まだまだ低い。安倍首相、お金を使うなら福祉です。
帰ってくると近県に住んでいる母のおばさんがアルツハイマ-、認知症と診断されてビックリしたということでした。介護の教室では、老老介護ならず、認認介護が話題となっている言われました。
それなのにそれを支える体制は、まだまだ低い。安倍首相、お金を使うなら福祉です。
ただ、独立を求めただけなのに、多くの人が虐殺されてきました。「カンタ!ティモ-レ」という映画を見てきました。インドネシアが虐殺することの支援を日本がしてきました。ぜひ、知ってください。
サンタクルス事件を紹介します。
1975年、当時の宗主国だったポルトガルと独立に向けて話し合いが進められていた東ティモールは、インドネシアによる侵攻を受け、1976年にインドネシアの27番目の州として併合が宣言された。それから、独立を求める住民に対し、インドネシアは弾圧を続けてきた。侵攻後の2か月間で約60,000人の住民が殺害されたとされ、インドネシアによる統治の間に全人口の4分の1から3分の1の人々がインドネシア国軍の犠牲になったといわれている。この比率は、第二次世界大戦後の世界における虐殺のなかでも最悪のものである[1]。
1991年、ディリで独立派の若者がインドネシア国軍の武装集団に殺害された。若者はサンタクルス墓地に埋葬されたが、殺害から2週間後の墓へ花を捧げる儀礼の際、参列していた群集が独立を求めるデモと化し、インドネシア国軍が群集に向かって発砲した。また、発砲などで負傷した市民も軍によって病院などに運ばれた上で殺された。事件の様子は映像などで海外で伝えられ、東ティモールの独立を求める国際世論は大きな高まりを見せた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%82%B9%E4%BA%8B%E4%BB%B6
https://www.facebook.com/canta.timor
サンタクルス事件を紹介します。
1975年、当時の宗主国だったポルトガルと独立に向けて話し合いが進められていた東ティモールは、インドネシアによる侵攻を受け、1976年にインドネシアの27番目の州として併合が宣言された。それから、独立を求める住民に対し、インドネシアは弾圧を続けてきた。侵攻後の2か月間で約60,000人の住民が殺害されたとされ、インドネシアによる統治の間に全人口の4分の1から3分の1の人々がインドネシア国軍の犠牲になったといわれている。この比率は、第二次世界大戦後の世界における虐殺のなかでも最悪のものである[1]。
1991年、ディリで独立派の若者がインドネシア国軍の武装集団に殺害された。若者はサンタクルス墓地に埋葬されたが、殺害から2週間後の墓へ花を捧げる儀礼の際、参列していた群集が独立を求めるデモと化し、インドネシア国軍が群集に向かって発砲した。また、発砲などで負傷した市民も軍によって病院などに運ばれた上で殺された。事件の様子は映像などで海外で伝えられ、東ティモールの独立を求める国際世論は大きな高まりを見せた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%82%B9%E4%BA%8B%E4%BB%B6
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今日は、食事介助、口腔ケアの勉強でした。とりわけ、午後は、口腔ケアで、
黄色いスポンジでのケアの講習がありました。黄色いスポンジもブクブクうがいもともさんの介護でよく見たものでした。傾眠で、食事の途中で寝ることもありました。黄色いスポンジで口腔ケアをした時、ゴボットご飯が取れたことを覚えています。ベットの食事介助で思わず「ア-ン」といってしまいました。「ア-ン」は、赤ちゃんあつかいで介護では厳禁でした。
看護は、医療のプロ。介護は、対人援助のプロと言われました。
黄色いスポンジでのケアの講習がありました。黄色いスポンジもブクブクうがいもともさんの介護でよく見たものでした。傾眠で、食事の途中で寝ることもありました。黄色いスポンジで口腔ケアをした時、ゴボットご飯が取れたことを覚えています。ベットの食事介助で思わず「ア-ン」といってしまいました。「ア-ン」は、赤ちゃんあつかいで介護では厳禁でした。
看護は、医療のプロ。介護は、対人援助のプロと言われました。