おだやかな日々が続きますように。

脳腫瘍で結婚して3年間たたかった新婚カップルの日々

ひさしぶりにJR ジュニア君と飲みました。

2011年07月17日 | たけちゃんのこと
 1986年日本ふく笑い大学入学・・・(東海地方の福祉系大学)の同級生 ジュニア君と飲みました。
 彼は、学生時代なんでも話をしてきた親友です。彼と私のつながりは、学生運動です。学生運動というヘルメット・・安田講堂と思う人が多いと思いますが。私たちは、正当なというか理路整然と当局と交渉する学生運動でした。
http://www.zen-gakuren.jp/news/news_10.html
大学自体が3者自治、学生自治会、教授会、教職員組合で話し合って、運営することになっていました。全員加盟制で選挙で選ばれた執行委員会があり、各クラス(4年間一貫したゼミナ-ル教育)から選出された代議員によって構成される代議員会がありました。代議員会には、運営する議長さんなど代議員の互選によって選ばれた役員がいました。代議員会は、月1回開催され、執行委員会の報告を受けて、いろいろ討論していました。成立に規定があり、執行委員会の提案を採択していました。
 私の大学は、4年間、ニックネ-ムで呼び合うことが決まりでした。彼は、ジュニア君といいました。私は、キャベジでした。たいてい、最初のクラスコンパで決まりました。1年生をリ-ドしてくれる兄弟クラス制でした。私は、富山出身というと正露丸かキャベジンといわれて、キャベジンになりました。学生会館の電話の呼び出し<自治会が自主管理していました>もニックネ-ムでした。1部1年のキャベジンさん学館Aにお電話ですと放送がかかりました。もちろん、日常会話も。「今日は、キャベジンの家で飲もう」とか、「昨日、そ-ち゛とつまみとジュニアが飲んでいて、そこにおろしとやろくがやってきて、おろしが酔っ払って暴れたんだって」というのが会話として成り立っていました。昨日も本名がなかなか出てこなかったです。
 学生自治会にとって、もっとも大事なことは、6月に開催される学生大会でその年の運動方針と決算・予算を決めることでした。私は、結果的に4年間、この成立に全てをかけてきました。1年生で1年生の代議員会の4役、2年生で代議員連絡会の議長、3年生で代議員会議長をしました。時は、1986年 4月に中曽根内閣が300議席を占め、臨調・行革路線、国鉄解体、老人医療費有料化、天安門事件が起きた時代でした。
1988年12月24日に消費税法案が可決され、1989年から消費税がはじまりました。
 1986年6月学生大会の成立にむけて、みんなががんばっていました。学生大会は、規約で学生数の何分の1で成立することにななっていました。実数と同じ数の委任状で成立しました。学生大会は、2日間ありました。その参加をクラス単位で確認するのです。朝の登校時間、昼の休憩時間の宣伝、講義が終わったあと、先生ら断わって、マイクを借りて、宣伝する。⇒マイクアジ。それらを6月頭から計画的に行う。参加確認した人の7割が参加するといわれていました。参加確認数は、毎日、集計されていました。もちろん、各クラスで討論して、「学費値上げ反対」や「校内にもっとスロ-プ」を「コンパのマナ-を守ろう」等、クラスごとの要求や意見を発表することも行います。
 各学年の代議員と組織者と呼ばれる協力者によって、毎日、朝に集りを持って、1日の行動目標、行動予定をみんなで確認していました。夕方には、夕方の集中があり、1日の行動結果を報告しあいました。そのあと、各学年の結果をもとにして、分析と対策が話し合われました。2部があったこともあり、学生会館の閉館時間は、午後11時でした。とにかく、みんな必死だったのです。
 私たちの入学するまで、大学の講義は、自主的活動の保証のために3限カリでした。それが、私たちからコマ数が増えていました。学生要求の多様化もあって、私の4年間で定例学生大会は、一度も成立しませんでした。
 定例学生大会前日は、合宿で最後まで意思統一会議、当日の作戦会議を行いました。当日となると、学生が出いりする全ての道に宣伝する部隊が割り振られて、
配置について、宣伝しました。また、大会がはじまると、私たち代議員会のメンバ-は、別の会議室を確保して、実際に受付した人をチェックして、カウントする。確認してきていない学生に連絡する。<当時は、携帯もなく、アパ-トに電話しました。>などをするのです。大会が休憩となると、大会は、まだ続きますと呼びかけるストッパ-につきました。
 1986年6月の定例大会2日目、今からクラス会という時に私と一緒に代議員をしていたK君が腹痛を訴えて、医務室に行きました。「自分が医務室に言ったことは、誰にもいわないでほしい。みんなが心配するといけないから。学生大会が成立してほしいから」と言って。終って、医務室に行くと彼は、近くの病院に運ばれていました。その状況を私は、1年の責任者であるジュニア君に興奮しながら報告しました。それとほぼ同時にじゅにあ君は、Oクラスの代議員のあゆみちゃんから「同じ代議員のなごみちゃんのおじいちゃんが危篤で帰ってきないさいと電話があったが。学生大会を成立させたいから帰らないでいる」ということを聞かされていました。
 そんなにまでしてがんばった学生大会は、不成立でした。1年生だけの集まりを持ったあと、代議員だけ残っての話し合いがはじまりました。学年全体の時には、こらえていたじゅにあ君が泣きじゃくって、何もしゃべれませんでした。私がその時、フォロ-に入りました。それまで、私は、代議員になったものの、一般参加者でした。この時をきっかけにして、4役に入ることになりました。この光景は、ジュニア君もしっかり覚えていました。
 私の4年間で86年は、学費値上げ反対、87年も学費値上げ反対、88年は、消費税導入反対で全国学生統一ストライキの提起があり、私の学部は、3回ともストライキ権を確立しました。学生の最高の権利である「学ぶ権利」を放棄しての抗議は、最高戦術といわれていました。私の大学の場合、全学生の過半数の投票で投票が成立して、過半数が賛成とする
とストライキが成立して、講義はなくなりました。
 学生大会が不成立だと、全学投票という4日間で過半数の投票で成立する投票を行うこと
となりました。これがまた、成立させるのがたいへんでした。
 福祉を学ぶ学生として、自分たちが学生ストライキをして、運動すれば、消費税を阻止できると真剣に考えた学生時代でした。そんな、超濃い活動家集団の仲間が約20人います。
大学入学から4半世紀、今度、同窓会することとなりました。
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