気がつけば思い出Ⅱ

日々の忙しさの中でフッと気がついた時はもう
そのまま流れていってしまう思い出!
それを一瞬でも残せたらと...。

写真整理~楽しかった職場の思い出 (*^^)v

2021年01月26日 | 仕事

写真は、現在の箱根(芦ノ湖)春らしい写真

退職後始めた写真整理(スキャンしてPCへ取り込む)がなかなか進まない。

3年くらいかかるかも?が、冗談でなく本当かもしれない、と思うようになった。

1枚1枚、思入れが多すぎるのだ。

     

 このセピア色の写真は学生時代、お世話になったアルバイト先(出版関係)の人達と箱根へ行った時の集合写真。

(皆さんお顔をぼかしてしまいスミマセン  )

当時、社員旅行はどこの会社も、いわば行事のようなものだった。

しかもこの頃は確か春、秋2回あったと思う。

そして私のようなアルバイトも連れて行ってくれた。

左端のぽっちゃりした、ぼかしのかかっていない女子(女性?)が当時19歳の私。

この頃、私の体重はマックスだった。  

後列中央の白い服を着た女性が業務担当の方で一番お世話になった。

母と同い年だったが、独身で服装も若々しく、とても同い年には見えなかった。

時々、渋谷の職場から鎌倉の自宅までタクシーで帰っていて(お金持ちだった?

世田谷で下宿住まいだった私をよく途中まで同乗されてくれた。

食事もたびたびご馳走してくれたし、鎌倉の大きなお宅にも泊りでお邪魔したことがある。

その右が、編集長。

いつも帽子を被りパイプをふかして(くわえて?)た。

この旅でもパイプをくわえ、いたるところで「コーヒーを出せ~」って叫んでいた。 

右上でベレー帽を被っているのは編集者で一番年上の方でとても面白い人だった。

右側に編集者が集まっている。編集の人達も皆それぞれいろいろなことを教えてくれた。

前列の左から2番目の女性が同じ大学の先輩でやはりお世話になった人。

卒業後もこの出版部でアルバイトを続けていた。

クラシック音楽が好きで、一度【ベートーヴェンの第九】の演奏会に誘われて行ったことがある。

アルバイトでお金を貯めてドイツに行く(旅行でなく住む)のが夢だと言っていた。

その右隣りが営業の方で、新刊が出ると東販(東京出版販売-現トーハン)、日販(日本出版販売)をはじめいろいろな取次店を一緒に回った。

この時、必ず行くのが国立国会図書館、そこには発行された出版物は必ず納品するという義務付けがあるということをここで初めて知った。

 

もう50年も前なのに、そしてもうみんな没交渉なのに、今でもこの人達の名前やエピソードを憶えている。

(一つ釜の飯を食う)というけれど、一緒に旅をすることで、親近感が生まれていたような気がする。

今は若い人から敬遠されがちな社員旅行。

でも私の経験したこの旅行は、年上の人達は優しく、その人達から得ることも多く、楽しかった。

  

この職場で一番好きだった仕事は ”原稿取り” で、いろいろなところへ行った。

特に青山にオフィスがあったイラストレーター・エッセイストの真鍋博さん(1932-2000)のところへ原稿を受け取りに行ったのを覚えている。

車の運転ができない私はタクシーで行って良かったので、青山はすぐ近くなのにタクシーで行った。

時々待たされたが、その間、沢山の色のペンが入っている沢山のペン立てや、

壁にかかった絵などを観ていると楽しくて、待たされている方が良いと思っていた。

    

な~んて、この一枚の写真にしても次々と思い出が湧いて・・・。

写真整理は3年どころでは終わらないかもしれない・・・。

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忘れられない J スター(ワークステーション)

2020年08月05日 | 仕事

今日、庭に咲いていた百日紅

あなたの職業はなんでしたか?と聞かれたとき、

「DTP のオペレーターです」と答えたい自分がいる。

50年近く働いた中でいちばん多かったのは一般事務職(主に総務、経理関係)だった。

その一般事務も、年月が経つうちに機械化の波に乗っていろいろと変わってきた。

計算手段ひとつ見ても、そろばん⇒電卓⇒パソコンへと移っていった。

私が、この流れにずっと乗り継いで働き続けることができたのが、

【Jスター】との出会いだったと思っている。(1987年、37歳)

Jスターとは富士ゼロックスのワークステーションで(1982年に発売)米国ゼロックスのStarというワークステーションの日本版。

Jスターを操作している時は、楽しい仕事ってあるんだと思った。

DTP(Desktop Publishingー机上編集機)との出会いのきっかけは夫からだった。

夫の勤務していた印刷会社で画期的な機械を導入したのだけれどオペレータがいないということで、その時ちょうど職を失って家に居た私にやってみないかという話があった。

画期的とは画面上で文字入力から編集までができ、その画面で表示されたままの状態で印刷できるという。

何故そんな面白そうな機械を操ってみようという人がいないのだろうと不思議だったが、

およそ30年前はワープロが主流で、その文字入力が出来高制になっていて、稼ぐ人はかなり稼いでいて、新機種を覚えている暇はなく、覚えた後も出来高での賃金計算は難しいとのことで時給制になるということがネックだったらしい。

私は「ワープロも出来ませんので」と一度断ったのだが、「ワープロとはまるっきり違います。むしろワープロを知らない方がよいくらいで、まずはマニュアルを読んで下さい」と、どさっと段ボール箱に入ったマニュアル本を渡された。

まあどうせプータロー(失業者)なのだからと、始めたところ、ハマってしまったのだった。

本当にワープロ(当時のワープロはいわば文字入力)とはまるっきり違う、ウインドウ、アイコン、マウスの世界。ドラッグ&ドロップすることができた。(今ではは当たり前のことだけれど)

隣室の版下作成作業ではページ数を一枚一枚に貼る作業をしているというのにページ割付けなどは100ページでも一瞬のうちしてしまう。

しかも字も絵も写真も取り込める。もちろん絵図も描ける。文字入力はワープロの達人に打ってもらいデーターとして取り込めばいい。

LANという考え方も既にあり、プリントは離れたところのプリンターからでも出力できる。

今ではみんな当たり前のようにできることが30数年前にできたのだ。

こんな機械が出回ったら印刷の世界に限らず他のドキュメント作成にも変革が起きると感じ、これからはこれだと思い一生懸命に覚えた。

自力で覚え、2年ほど経って、派遣会社に登録した。

いろいろな会社でいろいろなものが作成したかった。

依頼されたドキュメントだけれど、出来上がると達成感があった。

J スターオペレーターとしての10何年かで数社へ派遣され、働いた。

ただJスターは、

本体、ファイルサーバー、プリントサーバーも入れると少なくとも1000万はかかるといわれており高額で、設置に広いスペースも必要だったため、日本への適合性に欠けたのか?

Word、Excelなどの各々の役割を持ったソフトで動くMacintoshやWindowsのようなパーソナルコンピューター(PC)の台頭で徐々に職場から消えていった。

PCはコンパクトなうえ、個人でも購入できなくもない価格だったため、依頼者がドキュメントを自分で作成できるようになり、クライアントも減った。

でも、私はJ スターで得た知識のお陰で、ほとんど苦労なくPCの世界へ入りPCオペレーターとなることができた。

今の時点で比べても、まだPCより、上の機能は備えていたのではと思っている。

あの起動からログインまでの20分ほど待つ間(ちょっと不評でもあったが)のお茶は

美味しかった。

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退職で失うもの~私の場合 (^.^)

2020年07月29日 | 仕事

フォローさせて頂いているブロガーさんが「定年退職で失ったものとして、仕事、給料、ボーナス、肩書、達成感、連帯感などがある」という記述をされていた。

私の場合、先日退職した会社は、おまけのように就職し、思わず長く(17年も)勤めてしまったという感じで、ボーナスは寸志だったし、肩書は元から無い。

連帯感と達成感(これは多少ある、でもこれはこれからも得られる)。

ゆえ、仕事、給料の二つかな。

おまけとは、同居していた義母が68歳で亡くなり、10歳年上だった義父の面倒を見るために一度職を退き―病気ではなかったので介護ではないが、とにかく生活面は全て義母に委ねていて、身の回りのことが全くできなかった。 男は会社、女は家庭が基本の父母の時代には多かったので仕方ないけれど、今では通用しないかもしれない。―3年後、義父が亡くなってからの再就職だった為。もし義父がもっと長く生きていたなら再就職はできなかったので、おまけ

家族に合わせて(主に息子達の成長に合わせて)会社を転々とした働き方をした私は、

正社員、派遣、パートと合わせて、勤めた会社は21ほどある。

そんなわけで、一社を勤め上げたという実感があまりなく、

逆にいうと、あまり失ったものも無いような気がする。

ただ、来月からお給料が無いので年金生活の節約術を磨かないと と思っている。

義父は一社に50年務めた。偉いと思っていた。

でも、退職してから亡くなるまでの10年間、冒頭の失ったものの変わりを探すこともせず、

食事以外はほとんど座椅子に座ってテレビをみたり本を読んだり、散歩もほとんどせず、人との会合にも出かけることは無く、今のコロナ自粛生活のようだった。

仕事燃えつき症候群のひとりだったのかもしれない。

女性は退職しても家事という仕事があるので、少し違うような気がする。

燃えつきてはいられないのだ。

それなので最近は家事に参加している男性が多くなっているのは

男女、両方にとって良い事だと思う。

もう少し落ち着いたら、あちこちと行った(務めた)会社のエピソードなどもブログに書いてみようかなとも思っている。

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退職して~草取り三昧 (・・?

2020年07月26日 | 仕事

退職して10日経った。

これと言って退職後の計画は無く、とりあえず時間に追われずに家事をする。

何時のバスに乗らないと遅刻だ!

なんて脅迫めいた縛りの中で家事を片付けなっくっちゃならない・・・なんてもうないのだ。

嬉しい

そして仕事に行っている時は、見て見ぬふりをするしかなかった庭の草 !

天候の具合をみて毎日少しずつ庭の草取りをすることにした。

ママに「ほうれん草のように草が伸びちゃったね 」と言うと

「ほうれん草なら食べられるのに、雑草じゃあ駄目ですね  」とママ。

と冗談話ができるくらい雑草で庭が悲惨な状態なので、

「これからは時間があるので徹底的に綺麗にする」と思ったりしている。

そのせいか、雨のせいか、私がのろいのか?

10日かかってやっと終わった。

さほど広い庭でもないのに、どんだけ~~かかる~のか

まず始める前の用意  にも時間がかかる私。

顔と手に日焼け止めをする。

服装(長袖、長ズボン、腕カバー、帽子、庭用の靴、タオル⇐汗が出るのでを首に巻く)

携帯物 (蚊取り線香、キンチョール⇐虫に刺されないよう用意する。液体ムヒ⇐刺されてしまったときすかさず塗るために。スマホにワイヤレスイヤホン⇐♪を聞きながら作業をしようと思っているので必需)

そしてスマホを見ようとして、(アッツ、眼鏡)と眼鏡を取りに戻ったりする。

要するに段取りが悪い~のだ。慣れている人には笑われちゃうレベルかもしれない。

でもとにかく終わった。

もしコロナ問題が勃発していなければ、今、東京オリンピックが開催されていたはず。

それが無いなんて、誰か想定していた人はいたのかな

私はオリンピック自体にはあまり興味は無かったけれど、当然行われることと思っていた。

退職を、古希 & 東京オリンピックの年...なんて、

そう紐付けようと思っていたのに、人生の先に当然なんてないのかもしれない。

       

弟より「お盆のことは気にしなくていいので、出歩くな…」との、

姉に向かって上から目線のお達し?があった。

わりと行動的な私を心配してのことだろうけれど 

「はい、出歩きませんよ」しばらくはじっとしています。

草取りなどをして・・・。

オリンピックの延期より、両親のお盆供養にまで行けないことが、辛いです 。

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