昨晩は定例の祈祷会。
集まった方々と聖書を読み、お互いの心に留まったことを分かち合いました。
今回は、ヨハネの黙示録2章に記されているエペソにある教会へのメッセージからでした。
その中で、みなさんが「初めの愛」というフレーズを取り上げてくださいました。
それで、神への愛と互いに対する愛が取り戻されるようにと心を合わせて祈りました。
ちなみに、エペソは、小アジヤの大きな町の一つで、女神アルテミスの神殿があることで有名でした。
その地域にある教会は、内に外に多くの課題を抱えていました。
エペソの信者たちがそうした課題に辛抱強く取り組んでいたことは、主もよくご存知でした。
けれども、その一方でエペソの教会は、いつの間にか大切なことを見失ってしまっていたようです。
(ヨハネの黙示録2:4,5)「…あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。」
「初めの愛」を失ってしまったら、教会が教会ではなくなってしまいます。
たとえ建物や人の集まりがあったとしても、神の御前に教会とみなされず、御霊の働きが失われ、宣教の使命が取り去られるとしたら悲しいことです。
主は、初めの愛を失ってしまった教会に悔い改めを呼びかけています。
さて、徐々に掲載が追いついてきましたが、過去の礼拝説教のあらすじを掲載しておきます。
2016年5月 礼拝説教 旧約聖書講解のあらすじ ヨシュア記8章
宗教改革者ルターは、主イエスの教えより信者の全生涯が悔い改めであると教えた。ヨシュア記の記述によれば、不信の罪を犯したアカンへの処罰を終えると、イスラエルの民に対して(7:26)「主は燃える怒りをやめられた」。そして、再びヨシュアに励ましのことばをかけた。(8:1)「『恐れてはならない。おののいてはならない』」。神は、罪を認めて立ち帰る者を見捨てない。ここでは「わたしはアイの王と、その民、その町、その地を、あなたに与えた」と宣言し約束している。この時、主がヨシュアに命じた伏兵による戦術は、先のイスラエルの敗走をアイの住民に思い起こさせ油断させて、イスラエルに勝利をもたらすものだった。ここに、憐れみ深い神がお与えになる回復、やり直しの姿を見る。神はなんと憐れみ深いのだろうか。神に立ち帰ることをためらっていてはいけない。
ヨルダン川を渡る前のイスラエルの民にモーセが命じていたことがある。川を渡った後、『エバル山にて』祭壇を築き、そこでいけにえをささげるようにとのことだった(申命記27:2-)。このエバル山は、アイの町から北へ30㎞に位置している。イスラエルの民は、モーセの命令に主の権威を認めて、忠実に実行した。民はエバル山に祭壇を築き、いけにえをささげて主を礼拝した(8:30,31)。この時、在留異国人をも含む民の一団は、エバル山とゲリジム山の前で、契約の箱を担ぐ祭司たちの前に立ったが、それは民の祝福のためだった(8:33)。また、律法の朗読も行われた(8:34)。祝福された信仰共同体として、私たちは聖書の権威を認めて、主を礼拝するものでありたい。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。