マイペースで行こう

キリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、19年目に入りました。

中止の判断

2020-03-28 23:35:00 | 教会の風景

外出自粛の要請を受け、現状も考慮し、東村山聖書教会は明日、3月29日の主日礼拝を中止することになっています。

今日は夕方のうちに、教会のみなさんに週報と説教の代替となる文書をお送りしました。各家庭で聖書と祈りの時間を過ごすのに役立てて頂ければと思っています。

 

さて、今回も礼拝説教(旧約聖書の講解2回分)のあらすじを掲載しておきます。

2020年2月 Ⅰサムエル記13章

説教題:『危機迫るとき』

 危機の中でこそ私たちの信仰の真価が問われるのではないだろうか。『危機迫るとき』と題して、信仰者の経験する危機について考え、心構えにも触れたい。イスラエル王国は、サウルと息子ヨナタンの下で徐々に整備されていた(13:2)。そのような中、ヨナタンがペリシテ人の守備隊長を殺害したのを契機に、イスラエルとペリシテの間に緊張が高まった(13:3,4)。その時点の両国の戦力からすれば、ペリシテが圧倒的に有利だ(13:2,5)。それは、兵士だけでなく、民にも自明であった。それで、逃亡する者たちもおり、サウルの指揮下に置かれた兵士でさえ「震えながら彼に従っていた」という(13:6,7)。すでに見たように、主はサウルを王に立てて、アンモン人との戦いで華々しい勝利へと導かれた(11章)。ところが、この時は事情が違うようで、聖書に説明はない。ただし確かなのは、信仰者、主の民も危機を経験する。信仰者にも、危機、試練や苦しみが訪れるのを自覚しておきたい。使徒ペテロが、試練の中にあるキリスト者たちに書き送ったことばを思い起こす。(Ⅰペテロ4:1,2,12,13)「キリストは肉において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。…不審に思ってはいけません。…キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。」  (2020.2.9)

 

説教題:『愚かなことをしたものだ』

 今回は、孤独という視点で人生の危機について再考したい。(13:8)「サムエルがいることになっている例祭」にサムエルが現れなかった。(7:15-17)によれば、彼は定期的にギルガルを巡回した。本来ならば、いても良いはずだが、未だ到着しない。折り悪く、ペリシテ人との戦いが差し迫る。もともと劣勢のイスラエルは士気が低く、兵士たちの逃亡に拍車がかかりそうだ。(13:8)「兵士たちはサウルから離れて散って行こうとした」とある。このような事態に、サウル王は孤独や無力感に苛まれたのではないか。新約聖書によれば、使徒パウロ(Ⅱテモテ4:16)や主イエス(ヨハネ6:66; 16:32)も、仲間に見捨てられ、独りになる時があった。孤独がもたらす精神的負担は大きい。このサウルの場合、突き動かされるように、主に全焼のいけにえをささげてしまった(13:8-10)。サムエルは、到着を待てなかったサウルに『愚かなことをしたものだ』と言い放った(13:13)。本来、いけにえをささげる行為は、神への信仰から行われる。ところが、この時のサウルの動機は人々が離れていく恐れや焦りからではなかっただろうか。先のパウロ(Ⅱテモテ4:16,17)と主イエス(ヨハネ16:32,33)は、孤独な身になりながらも、「主は私とともに立ち…」、「父がわたしとともにおられるので」と理解し、信じていた。孤独という危機にこそ、主が私とともにおられると思い起こし、託された自分の使命を果たしたい。(2020.2.16)

 

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


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ちょっとした気分転換をしながら…

2020-03-25 17:59:00 | ちょっと息抜き
新型コロナウィルスの影響で、日常生活にも何かと落ち着かない状況が続いています。
でも、目に入る風景から春の訪れを感じることで、ちょっとした気分転換になります。

日課になっているウォーキングのコースの桜も、次第に咲いてきました。
このところは、歩きながらも…時々立ち止まっては写真を撮り…また歩いて…という感じです。












日によって歩く時間も違ったり、天候も違いますので、同じコースでも趣は変わってきます。
そんな変化もささやかな楽しみにして、気分転換を心がけています。

しかも、そのように歩いている間、あの人、この人、あのこと、このこと、…いろいろと思い浮かべて祈り、聖書のことばを思い巡らしていると、目標としている距離に到達するのもあっという間です。

今、置かれている環境や状況には試みられることもしばしばですが、神の恵みと憐れみは決して絶えないのだとくり返し思い起こしています。

最後に、聖書のことばの一節を添えておきます。

いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべてのことにおいて感謝しなさい。
これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

(テサロニケ人への手紙第一5章16-18節)

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何を心に留めるか…

2020-03-19 00:55:00 | 教会の風景
先日、主日礼拝で歌われた讃美歌の一節にこのような歌詞がありました。
 
わずらわしき 世のわざに、
やるせもなき 悲しみに、
なおひそめる みいつくしみ
見させたまえ あやまたず。
 
[教会福音讃美歌420番 『主よ、こころみ受くるおり』/In the hour of trial:James Montgomery(1834)]
 
私たちが困難を覚えるときにも、主のいつくしみをしっかりと心に留めていたいものです。
 

ある日曜日の礼拝時に飾られた生花です。
 
続いて、礼拝の説教(旧約聖書からの講解2回分)のあらすじも掲載しておきます。

2020年1月 Ⅰサムエル記12章

説教題:『すべての正義のみわざを説き明かそう』

 神の正義とはどのようなものだろうか。新たに王を立てたばかりのイスラエルの民に向かって、預言者サムエルは、『すべての正義のみわざを説き明かそう』と語った(12:7)。この「説き明かそう」とは、何が正しいかを明らかにしようとしている。「主があなたがたと、あなたがたの先祖に行われたすべての正義のみわざ」とは、イスラエルとの契約において、神がいかに誠実であったのかを指し示す。出エジプトの出来事やカナンを所有した士師の時代の経験について「あなたがたの先祖は主に叫んだ…主は…を遣わした」と表現し、神がイスラエルに救いの手を差し伸べてきた事実を述べている(12:8-11)。このように、神の正義は、ご自分の民の救いに現されている。にもかかわらず、イスラエルは、主を忘れ、主を捨てて(12:9,10)、王を求めた(12:12)のである。今やイスラエルで王制が敷かれているからこそ、サムエルは、神を退けて人に頼ることを厳しく戒めている(12:13-15)。そして、彼らが神に対して犯した悪の大きさを自覚するよう、「認めて、心に留めなさい」と促した(12:16,17)。神は、苦しみの中にある者を救う正義の神。私たちは、誰をあるいは何を拠り所としているだろうか。(2020.1.12)

 

説教題:『とてもできない』

 サムエルは主の民イスラエルを前にして、『とてもできない』と語った(12:23)。このサムエルの発言から、真の牧会をテーマに考えてみたい。ここでサムエルは、罪の悔い改めと神の赦しを、主の民に欠かせないものとしている。(12:17)で「あなたがたは王を求めることで、主の目の前に犯した悪が大きかったことを認めて、心に留めなさい」と語った。彼のことばを確証するしるしも伴った(12:18)。すると、民には主とサムエルへの恐れが生じ、罪の自覚と告白があった(12:19)。自分たちの罪に直面させられ、神のみこころにかなう態度を選んだといえる(箴言28:13; 詩篇32:5)。すると、サムエルは(12:20)「恐れてはならない…主に仕えなさい」と語りかけた。自分の罪を認めて心から悔い改める者を、神はお赦しになる。神の赦しは確かである(12:22)。「恐れてはならない」という励ましがふさわしい。サムエルは、ここまで民を導いてきた。(12:23)からすれば、このように民をとりなして祈り、指導するのをやめるなど、彼にはありえないことだった。これは新約聖書の使徒ペテロのことばにも通じるだろう(Ⅱペテロ1:10-13)。神のみこころに反する罪を悔い改め、神に赦されて、救いにしっかりと留まり続ける。現代の牧会者も、そのように人々をとりなし、教える。(2020.1.19)

 

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


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とりあえず一年続けてみて…

2020-03-14 00:04:00 | ちょっと息抜き
昨年、セルフケアの一環で始めたウォーキング+時々ジョギング。
それまでは慢性的な運動不足でしたが…
一年くらいは続いたことになります。
おかげさまで、減量と体力づくりにつながっています。

四季折々の風景の変化を味わいながらのウォーキングは、気分転換にもなります。
時々、ふと立ち止まって写真撮影も。






昨年の台風19号でいつものウォーキングコースが被害を受けたときには、一時的に頻度と距離が落ちていましたが、持ち直しました。
アプリの記録によると、今年に入って昨年より距離が伸びているようです。




最近のウォーキングのことでもう一つ。
先日、ある聖書アプリを見つけて、ウォーキング中に聴いています。

日本G&M文化財団が提供している、「聴くドラマ聖書」です。
聖書は「新改訳2017」の本文を使用しています。
ただし、その名のとおり、ちょっとしたBGMや効果音もあって、ドラマの台詞風に読んでいます。

私としては、普通の朗読でも十分なのですが…
それはともかく、最初は聖書のストーリーをドラマ仕立てに編集したものかと想像したのですが…「新改訳2017」の本文をそのまま使っているのが気に入ってます。
聖書本文が画面に表示されるのも良いです。
興味のある方は、日本G&M文化財団サイトをご覧ください。

最近のウォーキングの様子と絡めて、とりとめもなく記事にしました。



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活動縮小の判断

2020-03-12 00:01:00 | 教会の風景

新型コロナウィルスの影響は、教会の活動にも及んでいます。

現在、私たちの教会でも日曜午前の礼拝のみに限定しています。日曜午後のプログラムや平日の祈り会を中止にしています。小規模教会なりの活動縮小です。

それにしても、影響がさまざまな分野に及んでいます。注意深く、落ち着いて日常生活を送りながら、速やかな終息を祈るばかりです。



さて、礼拝説教のあらすじ(旧約聖書からの講解説教)も掲載しておきます。しばらく掲載していなかったので、今回は、2019年11月の分です。


2019年11月 Ⅰサムエル記10-12章

説教題:『彼は黙っていた』

 旧約聖書では神について「怒るのに遅く」と表現される(出エジプト記34:6他)。そして、人についても、(箴言16:32)「怒りを遅くする者は勇士にまさり…」と教えている。人が自分の感情を適切に扱うのは賢明である。油注ぎを受けたサウルは、イスラエル王国の最初の王として民の前に立つ時が来た。しかし、心理的な重圧のためか、サウルは姿を隠した(10:22)。一方、サムエルは、王権を樹立する手配を進めていた(10:25; 8:10-)。重大な転換期である。民への説明、文書への記録、文書の保管が丁寧に実施された。サウルは(10:24)「主がお選びになったこの人を見なさい」と紹介された。新たに立てられた若い王の姿に民の反応は様々だった。多くの人々は歓迎したが、「こいつがどうしてわれわれを救えるのか」と軽蔑した者たちもいた(10:27)。聖書は、その時のサウルについて、『彼は黙っていた』と伝える。しかも、アンモン人との戦いに勝利し、王としての実績を示した後も、王を軽蔑した者たちへの処罰の要求をたしなめた(11:12,13)。即位した当初のサウルは、このように思慮分別をもって状況に対処していた。私たちにも「怒るのに遅く」という品性が備わり、神を証しする者となりますように。


説教題:『私を訴えなさい』

 教職者の倫理について考えたい。新約聖書では教会の指導者の適性を教えて、「不正な利を求めず」(テトス1:7他)と挙げている。サムエルは、サウルを王に立てたところで自らの役目の一つを終えた。すでにサウルは王としての務めを果たし始めている(12:2)。これまでのサムエルは士師として民をさばいてきたが、王の統治への移行とともに権限を手放す。サムエルはその務めから退くにあたり、民に『私を訴えなさい』と呼びかけて、自身に不正があったかを問う(12:3)。こうした呼びかけのことばは、民のさばきを行う職にある者の危険をよく自覚していたことを意味する。神から委ねられた権威と務めを乱用して、利得を求めてしまう危険を意識していなければ、その職を退くにあたり、これほどまでに自分からはっきりと問うことはなかっただろう。サムエルの問いに対して、民は(12:4)「あなたは私たちを虐げたことも、踏みにじったことも、人の手から何かを取ったこともありません」と答えた。さらに、サムエルは、この自分と民との間のやり取りに証人を立てて、揺るぎない事実として念押しをしている(12:5,6)。後になって民の心が変化したとしても、批判の起こる余地を残さなかった。こうして当時の法的な手順を踏んだ場面に、厳粛で公正な審査、相互の責任においての決定の重みを考えさせられる。




ある日曜日の礼拝時の生花。


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