外出自粛の要請を受け、現状も考慮し、東村山聖書教会は明日、3月29日の主日礼拝を中止することになっています。
今日は夕方のうちに、教会のみなさんに週報と説教の代替となる文書をお送りしました。各家庭で聖書と祈りの時間を過ごすのに役立てて頂ければと思っています。
さて、今回も礼拝説教(旧約聖書の講解2回分)のあらすじを掲載しておきます。
2020年2月 Ⅰサムエル記13章
説教題:『危機迫るとき』
危機の中でこそ私たちの信仰の真価が問われるのではないだろうか。『危機迫るとき』と題して、信仰者の経験する危機について考え、心構えにも触れたい。イスラエル王国は、サウルと息子ヨナタンの下で徐々に整備されていた(13:2)。そのような中、ヨナタンがペリシテ人の守備隊長を殺害したのを契機に、イスラエルとペリシテの間に緊張が高まった(13:3,4)。その時点の両国の戦力からすれば、ペリシテが圧倒的に有利だ(13:2,5)。それは、兵士だけでなく、民にも自明であった。それで、逃亡する者たちもおり、サウルの指揮下に置かれた兵士でさえ「震えながら彼に従っていた」という(13:6,7)。すでに見たように、主はサウルを王に立てて、アンモン人との戦いで華々しい勝利へと導かれた(11章)。ところが、この時は事情が違うようで、聖書に説明はない。ただし確かなのは、信仰者、主の民も危機を経験する。信仰者にも、危機、試練や苦しみが訪れるのを自覚しておきたい。使徒ペテロが、試練の中にあるキリスト者たちに書き送ったことばを思い起こす。(Ⅰペテロ4:1,2,12,13)「キリストは肉において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。…不審に思ってはいけません。…キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。」 (2020.2.9)
説教題:『愚かなことをしたものだ』
今回は、孤独という視点で人生の危機について再考したい。(13:8)「サムエルがいることになっている例祭」にサムエルが現れなかった。(7:15-17)によれば、彼は定期的にギルガルを巡回した。本来ならば、いても良いはずだが、未だ到着しない。折り悪く、ペリシテ人との戦いが差し迫る。もともと劣勢のイスラエルは士気が低く、兵士たちの逃亡に拍車がかかりそうだ。(13:8)「兵士たちはサウルから離れて散って行こうとした」とある。このような事態に、サウル王は孤独や無力感に苛まれたのではないか。新約聖書によれば、使徒パウロ(Ⅱテモテ4:16)や主イエス(ヨハネ6:66; 16:32)も、仲間に見捨てられ、独りになる時があった。孤独がもたらす精神的負担は大きい。このサウルの場合、突き動かされるように、主に全焼のいけにえをささげてしまった(13:8-10)。サムエルは、到着を待てなかったサウルに『愚かなことをしたものだ』と言い放った(13:13)。本来、いけにえをささげる行為は、神への信仰から行われる。ところが、この時のサウルの動機は人々が離れていく恐れや焦りからではなかっただろうか。先のパウロ(Ⅱテモテ4:16,17)と主イエス(ヨハネ16:32,33)は、孤独な身になりながらも、「主は私とともに立ち…」、「父がわたしとともにおられるので」と理解し、信じていた。孤独という危機にこそ、主が私とともにおられると思い起こし、託された自分の使命を果たしたい。(2020.2.16)
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。