昨日、今年最後の礼拝を終えました。
礼拝の後は、教会のみなさんと手分けして、30分ほど教会内の掃除と片付けをしました。
昨日はあいにくの天候だったので、今日、外回りの作業をしました。
時間を作ってくださったKさんの協力もあって、外回りもきれいになりました。
枝が広がり過ぎた木の刈り込みもしました。
教会の内外ともにすっきりして、年越しです。
月末なのでこちらも。
今回は、アドベントとクリスマスの説教のあらすじです。
2012年12月の礼拝説教のあらすじ (新約聖書 ルカの福音書1:1-2:20)
私たちの救いのため、神は綿密かつ壮大な計画を進めている。ルカは、イエスの降誕をヨハネの誕生と絡めて伝える。祭司ザカリヤとエリサベツは、「神の御前に正し」(1:6)かったが、子供を授からず年老いていた(1:7)。敬虔でありながら子宝に恵まれないのは一見不条理だが、神はこの老夫婦を用いた(旧約聖書に類例)。ザカリヤの光栄な晴れ舞台、神殿で香をたく時、天使が現れ、ヨハネの誕生を告げた(1:13)。彼が、「エリヤの霊と力で『主の前ぶれ』を」(1:17)する(マラキ3:1,4:5も参照)。
続いて、「受胎告知」の場面。エルサレムの神殿でのヨハネ誕生の告知と異なり、イエスの降誕の告知はガリラヤのナザレで起きた。しかも、今度は「処女」(1:26,27)マリヤに天使は現れた。生まれる男の子イエスは『すぐれた者となる』という(1:31,32)。「すぐれた者」という表現は、ヨハネの時も同様だ(1:15)が、「いと高き方の子」「ダビデの王位」であるから、別格である。聖霊により神の力が及んで生まれる「聖なる者、神の子」(1:35)なのだ(イザヤ9:6,7も参照)。驚くマリヤに、天使はエリサベツを例示し、「神にとって不可能なことは一つもありません。」(1:37)と告げた。
マリヤは、エリサベツを訪ねた(1:39,40)。「マリヤの讃歌」として知られる詩は、マリヤ自身とアブラハムとその子孫への主の顧みを歌い上げている。『主のあわれみ』は常にあり(1:50,54)、イエスの降誕はそれを証しする。主のあわれみは、「力強いわざ」(1:51)として現れ、御前における人々の境遇に大逆転をもたらす(1:51-53)(詩篇103:13-17も参照)。主を恐れる者は御前に富む者とされ、神からの栄誉を受ける。私たちは自らをわきまえつつ、この世の富や権力ではなく、主に望みを置くものでありたい。
イエスが生まれたという知らせは、野宿の羊飼いに伝えられた。天使は、『すばらしい喜びの知らせ』とした。なぜなら、「この民全体のための」(2:10)とあるように、ユダヤ人には待ちに待った出来事だからだ。アブラハム以降代々語り継がれてきたと思うと、「きょう」(2:11)には何と重みがあることだろう。天使は、この子を「救い主」「主キリスト」と呼んだ。神が遣わされ、神がその権威をもってお立てになった。イエスの降誕で、神の真実はいよいよ明らかになり、天の神に栄光が帰せられる。また、地上の人々には神との平和が回復されていく。今や私たちにも、このすばらしい喜びの知らせは届いている。主をほめたたえよう。
礼拝の後は、教会のみなさんと手分けして、30分ほど教会内の掃除と片付けをしました。
昨日はあいにくの天候だったので、今日、外回りの作業をしました。
時間を作ってくださったKさんの協力もあって、外回りもきれいになりました。
枝が広がり過ぎた木の刈り込みもしました。
教会の内外ともにすっきりして、年越しです。
月末なのでこちらも。
今回は、アドベントとクリスマスの説教のあらすじです。
2012年12月の礼拝説教のあらすじ (新約聖書 ルカの福音書1:1-2:20)
私たちの救いのため、神は綿密かつ壮大な計画を進めている。ルカは、イエスの降誕をヨハネの誕生と絡めて伝える。祭司ザカリヤとエリサベツは、「神の御前に正し」(1:6)かったが、子供を授からず年老いていた(1:7)。敬虔でありながら子宝に恵まれないのは一見不条理だが、神はこの老夫婦を用いた(旧約聖書に類例)。ザカリヤの光栄な晴れ舞台、神殿で香をたく時、天使が現れ、ヨハネの誕生を告げた(1:13)。彼が、「エリヤの霊と力で『主の前ぶれ』を」(1:17)する(マラキ3:1,4:5も参照)。
続いて、「受胎告知」の場面。エルサレムの神殿でのヨハネ誕生の告知と異なり、イエスの降誕の告知はガリラヤのナザレで起きた。しかも、今度は「処女」(1:26,27)マリヤに天使は現れた。生まれる男の子イエスは『すぐれた者となる』という(1:31,32)。「すぐれた者」という表現は、ヨハネの時も同様だ(1:15)が、「いと高き方の子」「ダビデの王位」であるから、別格である。聖霊により神の力が及んで生まれる「聖なる者、神の子」(1:35)なのだ(イザヤ9:6,7も参照)。驚くマリヤに、天使はエリサベツを例示し、「神にとって不可能なことは一つもありません。」(1:37)と告げた。
マリヤは、エリサベツを訪ねた(1:39,40)。「マリヤの讃歌」として知られる詩は、マリヤ自身とアブラハムとその子孫への主の顧みを歌い上げている。『主のあわれみ』は常にあり(1:50,54)、イエスの降誕はそれを証しする。主のあわれみは、「力強いわざ」(1:51)として現れ、御前における人々の境遇に大逆転をもたらす(1:51-53)(詩篇103:13-17も参照)。主を恐れる者は御前に富む者とされ、神からの栄誉を受ける。私たちは自らをわきまえつつ、この世の富や権力ではなく、主に望みを置くものでありたい。
イエスが生まれたという知らせは、野宿の羊飼いに伝えられた。天使は、『すばらしい喜びの知らせ』とした。なぜなら、「この民全体のための」(2:10)とあるように、ユダヤ人には待ちに待った出来事だからだ。アブラハム以降代々語り継がれてきたと思うと、「きょう」(2:11)には何と重みがあることだろう。天使は、この子を「救い主」「主キリスト」と呼んだ。神が遣わされ、神がその権威をもってお立てになった。イエスの降誕で、神の真実はいよいよ明らかになり、天の神に栄光が帰せられる。また、地上の人々には神との平和が回復されていく。今や私たちにも、このすばらしい喜びの知らせは届いている。主をほめたたえよう。