今日はほとんど一日教会にいました。
祈祷会の準備、ポスティングの準備、電話応対、草取り・・・
静かな一日でした。
今日、K先生がA先生の
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説教を添付したメールをくださったので、
2回ほどくり返して聞きました。
ちなみにA先生の管理しているサイト、
ロゴス・ミニストリーには、私も時々立ち寄らせて頂いてます。
聖書をまんべんなく解説しているので、いろいろ役立っています
説教の聖書箇所は出エジプト記でした。
モーセの召命に関する場面です。
この説教を聞きながら、
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思い出しました。
以前、記事にしたテーマ、
使命感と召命についてです。
改めて、召命(神様からの献身への呼びかけ)の確認がいかに大切かを考えさせられました。
最近2回目を読んでいる
「牧会入門」(いのちのことば社/C・H・スポルジョン)の中にも「教役者への召し」という章があります。
その章の中に、消極的な表現ですが、このような一節があります。
「召命を見誤るということは、その人にとって恐ろしい不幸である。そして、その人が誤って教役者となっている教会にとって、その失敗は、最も痛ましい苦悩を意味する。」
そして、もし人が教役者(牧師・宣教師など)になることを願うなら、よくよく自分を
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吟味するようにと勧めています。
そして、この著書の中では吟味する際の4つの視点が示されています。
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その仕事に対する熱心な願い・そのためにはすべてを捨てて顧みないという欲求があるかどうか?
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真の牧師の仕事は自己否定で満ちている。
払うべき犠牲が徹底的に計算し尽くされた後にも、静かな、明白な決意として残るものでなければならない。
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適切に教える能力・公の教師としての任務に必要なある程度の特質を備えているか?
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健全な判断力/充実した経験/上品なマナーと豊かな愛情/
堅実さと勇気/優しさと同情心/適切に治める管理の賜物/
忍耐と不屈の精神/相談相手としての徳性など。
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働きの結果としての回心者があるかどうか?
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不毛の期間があるとしても、全体として見れば、必ず実があるはずである。
魂を少しも神のみもとにもたらさない者が、神によって遣わされたと考えることは困難である。
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説教が神の民に受け入れられるかどうか?
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教会の祈り深い判断を通して。
説教を通して教会が教化されないのであるなら、その人の召命には疑問符がつく。
昨今、キリスト教界の教職者の不祥事が伝えられています。
教職者を志す者が自らを正しく
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見定める誠実さと判断力が問われているように思います。
そして、教職に就いた者は、召命に正しく応答しているかを常に
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確認する必要があるでしょう。
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自戒の意味も込めて、まとめてみました。
随分長くなりましたが、最後まで読んでくださってありがとうございます