マイペースで行こう

キリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、19年目に入りました。

感情

2008-07-30 18:39:54 | 教会の風景
明日からいろいろ予定が入るため、今日は礼拝説教の準備をしていました。
今回の聖書箇所を学びながら、ふと以前読んだ文書を思い出しました。


ジョナサン・エドワーズ 「宗教感情論」


人間の感情と信仰の関係を考えさせられました
自分の与えられた務めのために、知的な面も感情的な面も整えられていきたいです。

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心の準備のため

2008-07-29 13:22:07 | 教会の風景
先日のYouth For Jesusです。
司会のMちゃんが急きょ来れなくなったので、N君に司会をお願いしました。

みんなで賛美。
そして、聖書からのメッセージ。

イエス様の告別の説教の中から話しています。
この前は15:18-16:4です。
「憎まれるということ」
弟子となる人々は、いつも受け入れられるとは限りません。
反対者も現れます。

その理由は・・・
主であるイエス様も迫害されたからです。(20節)
その人たちは、父なる神様を本当には知らないからです。(21節)
「理由なしに憎んだ」という旧約聖書の言葉が実現するためです(25節)


なぜ、イエス様は「憎まれる」ということを弟子たちに話したのでしょう
それは、心の準備をするためでした。

弟子たちには、福音を伝える使命が託されます。(27節)
その使命を全うするため、挫折しないように。(16章1,4節)


不当に憎まれる、反対されるというのは辛いことです
しかし、ここで確認しておきたいもう一つのことは・・・
「わたしが父のもとから遣わす助け主、
すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、
その御霊がわたしについてあかしします。
あなたがたもあかしするのです。」
・・・とイエス様が話したことです。

順序は・・・
御霊があかしします。
あなたがたもあかしするのです。

主をあかしすることは、キリストを信じる者に託された使命です。
しかし、その際に主導権を握られるのは、助け主である御霊なる神様です。
ひとりぼっちで憎しみの眼差しや迫害を乗り越え、あかししていくのではありません。
御霊が私たちの内に臨在なさって、乗り越えさせてくださるのです。



いつもどおり夕食もいっしょに。


メニューはうどんでした
具だくさんでおいしかった


デザートのクリームブリュレも




この日は疲れていたようです
午前の礼拝に訪ねてくださった方にも行き届かない応対をしたのでは・・・と不完全燃焼だったり
確認不足でH君&M君に二度手間をかけ、Rちゃんには失言と反省中


休養もしっかり取りました。
雑用を控え、主の前に静まる時間をしっかり確保したいと思います。


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苦しい時の・・・

2008-07-29 12:38:28 | 教会の風景
出エジプト記からの礼拝説教が始まりました。


創世記から出エジプト記へ。

イスラエルの一族はエジプトへ移住しました。
やがて、エジプトで一族70名余りから数百万という民族にまで成長しました。
エジプトの王朝が変わり、新しい王は、イスラエル人に脅威を感じたようです。
そこで、イスラエル人は民族としての苦難を経験することになります。
王は過酷な労働を課すことで、イスラエル人の弱体化を図りました。


「・・・しかし苦しめれば苦しめるほど、

この民はますますふえ広がったので、

人々はイスラエル人を恐れた。

それでエジプト人はイスラエル人に過酷な労働を課し、

粘土やれんがの激しい労働や畑のあらゆる労働など、

すべて、彼らに課する過酷な労働で、

彼らの生活を苦しめた。」 (1:12-14)


エジプトの王の目論見は外れました。
そこで、彼はイスラエルの助産婦に命じました。
生まれてくる男子を殺すようにと。

イスラエル人にとっては次から次へと重なる試練の時でした
しかし、このように苦しい試練の時でしたが・・・
助産婦たちは、王よりも神を恐れる方を選び取りました。
生まれてくる男の子が生きられるように配慮したようです
神様は彼女たちの決断を喜ばれました

これで、めでたしめでたしと終われば良いのですが・・・
現実はそのように甘いものではありませんでした
今度は・・・
王の公の命令として「生まれる男子はナイルへ投げ込め」となりました。


私たちは、ある程度の試練を耐えることはできるでしょう。
しかし、度重なる苦しみが続くとき・・・
私たちの信仰と忍耐の真価が問われます。


表面上、何も神様は動いていないかのように見えます。
私たちには無関心のようです。
神様は何をしておられるのだろう
この苦しみのときに、なぜまたこのような苦しい岐路に立たされるのだろう
私たちは、そのような疑問を抱きます。


しかし、この苦しみの中で・・・
神によって指導者/解放者へと立てられる人物モーセが備えられていきます
神様は、常に真実です。
私たちは、ますますこの方に信頼して、救いと折々の助けを期待していくのです。



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ブログ通信簿を試してみました

2008-07-24 13:59:14 | ちょっと息抜き
gooブログのサービスでブログ通信簿というのがありました。
最近の10の記事で通信簿がつくというものだそうです。

おもしろそうなので、試しにやってみました
自分のブログのアドレスを入力するだけで、10秒くらい待つと評定が出ました。

結果は以下のとおりです。

ちなみに評価は5段階です。

「39歳」と「明るく、元気です」というのは自分でも意外でした
年齢はもっと上で出ることを自分でも予想していたので

・・・ということで、通信簿の報告でした

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問われるところ

2008-07-22 23:17:29 | 最近の読書
今日はほとんど一日教会にいました。
祈祷会の準備、ポスティングの準備、電話応対、草取り・・・
静かな一日でした。


今日、K先生がA先生の説教を添付したメールをくださったので、
2回ほどくり返して聞きました。
ちなみにA先生の管理しているサイト、ロゴス・ミニストリーには、私も時々立ち寄らせて頂いてます。
聖書をまんべんなく解説しているので、いろいろ役立っています


説教の聖書箇所は出エジプト記でした。
モーセの召命に関する場面です。
この説教を聞きながら、思い出しました。
以前、記事にしたテーマ、使命感と召命についてです。


改めて、召命(神様からの献身への呼びかけ)の確認がいかに大切かを考えさせられました。
最近2回目を読んでいる「牧会入門」(いのちのことば社/C・H・スポルジョン)の中にも「教役者への召し」という章があります。
その章の中に、消極的な表現ですが、このような一節があります。
「召命を見誤るということは、その人にとって恐ろしい不幸である。そして、その人が誤って教役者となっている教会にとって、その失敗は、最も痛ましい苦悩を意味する。」
そして、もし人が教役者(牧師・宣教師など)になることを願うなら、よくよく自分を吟味するようにと勧めています。



そして、この著書の中では吟味する際の4つの視点が示されています。


 その仕事に対する熱心な願い・そのためにはすべてを捨てて顧みないという欲求があるかどうか?
          
真の牧師の仕事は自己否定で満ちている。
払うべき犠牲が徹底的に計算し尽くされた後にも、静かな、明白な決意として残るものでなければならない。


 適切に教える能力・公の教師としての任務に必要なある程度の特質を備えているか?
          
健全な判断力/充実した経験/上品なマナーと豊かな愛情/
堅実さと勇気/優しさと同情心/適切に治める管理の賜物/
忍耐と不屈の精神/相談相手としての徳性など。


 働きの結果としての回心者があるかどうか?
          
不毛の期間があるとしても、全体として見れば、必ず実があるはずである。
魂を少しも神のみもとにもたらさない者が、神によって遣わされたと考えることは困難である。


 説教が神の民に受け入れられるかどうか?
          
教会の祈り深い判断を通して。
説教を通して教会が教化されないのであるなら、その人の召命には疑問符がつく。



昨今、キリスト教界の教職者の不祥事が伝えられています。
教職者を志す者が自らを正しく見定める誠実さと判断力が問われているように思います。
そして、教職に就いた者は、召命に正しく応答しているかを常に確認する必要があるでしょう。
自戒の意味も込めて、まとめてみました。
随分長くなりましたが、最後まで読んでくださってありがとうございます

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