先日、ウォーキングをしている公園で、どんぐりを拾ってきました。
季節を感じるのも、ちょっとした気分転換になります。
テーブルに並べてみて、眺めました。
「どんぐりの背比べ」ですね。
自分と人とを比較して、ほんのわずかな違いで優越感に浸ったり、劣等感に悩んだり…
相手を自分の尺度で測って、イライラしたり、いらぬお節介を焼いたり…
お互いに窮屈で、意味のないことだと分かっているはずなのに。
謙虚で寛容な心を与えてください…と祈るばかりです。
旧約聖書からの2回分です。
2019年9月 Ⅰサムエル記8章
説教題:『王を立ててください』
「歯車が狂う」とは「どこかにくい違いが生じて、順調に進んでいたことがうまくいかなくなる」と辞書で説明される(大辞林)。聖書は、悔い改めたイスラエルの民のその後について伝える。サムエルは年老いていた(8:1)。世襲は異例であるものの(参照:士師8:22,23)、サムエルは自分の息子ヨエルとアビヤを民のさばきつかさに任命した。ところが、その息子たちは、利得を求め、不正を行い、職務にふさわしくない人物だった(8:2,3)。聖書には彼らの任命の経緯や理由についての記録がないが、後に続く出来事の伏線になっている。民の長老たちは事態を重く見て、こぞってサムエルを訪ねた(8:4,5)。彼らはサムエルに『王を立ててください』と切望した。息子たちをさばきつかさに任命したサムエルに、彼らの代わりとなる王の擁立を願ったのだ。この要求は、民族のアイデンティティにも深く関係する問題を含んでいた。本来、イスラエルは主なる神を王とし、主の民とされている(出エジプト19:6)。サムエルの息子たちに困り、イスラエルの将来を案じていたにしても、「ほかのすべての国民のように」という長老たちの意識から出た要求は、主を退けているのと等しい(8:8)。教会の運営、牧師や役員、奉仕者の任命という人事にも、教会に対する主のみこころが実現されるよう注意を払うのは、信仰面からも肝要である。
「歯車が狂う」とは「どこかにくい違いが生じて、順調に進んでいたことがうまくいかなくなる」と辞書で説明される(大辞林)。聖書は、悔い改めたイスラエルの民のその後について伝える。サムエルは年老いていた(8:1)。世襲は異例であるものの(参照:士師8:22,23)、サムエルは自分の息子ヨエルとアビヤを民のさばきつかさに任命した。ところが、その息子たちは、利得を求め、不正を行い、職務にふさわしくない人物だった(8:2,3)。聖書には彼らの任命の経緯や理由についての記録がないが、後に続く出来事の伏線になっている。民の長老たちは事態を重く見て、こぞってサムエルを訪ねた(8:4,5)。彼らはサムエルに『王を立ててください』と切望した。息子たちをさばきつかさに任命したサムエルに、彼らの代わりとなる王の擁立を願ったのだ。この要求は、民族のアイデンティティにも深く関係する問題を含んでいた。本来、イスラエルは主なる神を王とし、主の民とされている(出エジプト19:6)。サムエルの息子たちに困り、イスラエルの将来を案じていたにしても、「ほかのすべての国民のように」という長老たちの意識から出た要求は、主を退けているのと等しい(8:8)。教会の運営、牧師や役員、奉仕者の任命という人事にも、教会に対する主のみこころが実現されるよう注意を払うのは、信仰面からも肝要である。
(2019.9.8)
説教題:『あなたがたを治める王の権利』
新約聖書で使徒パウロは、信者は心を新たにすることで、神のみこころをわきまえていくように教えている(ローマ12:2) しばしば、神のみこころと私たちの思いには隔たりがある。サムエル記が伝える、イスラエルの長老たちが王を求めたのも、主の民にとって最適な願いとは言い難い。主はその願いを容認されるが、将来予想される結果を警告する。預言者サムエルを通して、『あなたがたを治める王の権利』を告げた(8:10-17)。王は民から「取る」存在となる。民の息子や娘、畑や収穫、奴隷や家畜、収入に至るまで、王国維持のために取り上げる。真の王である神を退けて、人間を王に立てる負担は大きい。この警告のことばを聞いた長老たちは、それでもまだ自分たちの主張から離れなかった(8:19)。「ほかのすべての国民のようになり」という意識を手放せない(8:20)。神から受けている自分たちのアイデンティティに価値を見出せず、かえって周りに合わせることで、この世を渡っていけると考えているようだ。しかも、彼らのイメージする王の姿には偏りがある(8:20)。理想が過ぎると過剰な期待や現実逃避となる。「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と神のみこころを求め、心を新たにされたい。
新約聖書で使徒パウロは、信者は心を新たにすることで、神のみこころをわきまえていくように教えている(ローマ12:2) しばしば、神のみこころと私たちの思いには隔たりがある。サムエル記が伝える、イスラエルの長老たちが王を求めたのも、主の民にとって最適な願いとは言い難い。主はその願いを容認されるが、将来予想される結果を警告する。預言者サムエルを通して、『あなたがたを治める王の権利』を告げた(8:10-17)。王は民から「取る」存在となる。民の息子や娘、畑や収穫、奴隷や家畜、収入に至るまで、王国維持のために取り上げる。真の王である神を退けて、人間を王に立てる負担は大きい。この警告のことばを聞いた長老たちは、それでもまだ自分たちの主張から離れなかった(8:19)。「ほかのすべての国民のようになり」という意識を手放せない(8:20)。神から受けている自分たちのアイデンティティに価値を見出せず、かえって周りに合わせることで、この世を渡っていけると考えているようだ。しかも、彼らのイメージする王の姿には偏りがある(8:20)。理想が過ぎると過剰な期待や現実逃避となる。「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と神のみこころを求め、心を新たにされたい。
(2019.9.15)
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。