東村山聖書教会は4年目を迎えました。
礼拝は平均十数名の参加者ですが、講師を含め折々の行事等に訪ねてくださった方々も入れると、100名以上が足を運んでくださったことになります。
現在は特定の団体等に属していないものの、主にある交わりの中で、この開拓教会が育まれていることを実感しています。
2019年1月の礼拝説教(旧約講解分2回)のあらすじを掲載しておきます。
今月からサムエル記に入りました。
2019年1月 サムエル記第一 1:1-19
現代人も人間関係に悩む。人間関係をテーマに考えたい。エフライムのラマという町のエルカナには、二人の妻、ハンナとペニンナがいた(1:2)。最初の妻ハンナとの間に子供を授からず、当時の慣習により、ペニンナを妻に迎えたのだろうか。ペニンナとの間には子供たちが生まれた。エルカナは家族を連れて、シロでの礼拝に毎年出かけていた。これらの記録から、二人の妻を迎えるだけの経済的なゆとりと落ち着いた信仰を持つ、ある程度恵まれた一家の話なのかという印象だ。ところが、『エルカナの二人の妻』の間には大きな問題があった。それは、ハンナに対するペニンナの嫉妬、嫌がらせだ(1:4-6)。エルカナがハンナに心遣いや愛情を示すと、ペニンナの嫉妬はますます深まり、陰険な嫌がらせも毎年続いた(1:7)。ハンナの心は深く痛んでいた。ただし、そもそもの原因とでもいうべき、ハンナの不妊が神によることだと聖書は語る(1:5,6)。これは、決して嫉妬や嫌がらせを肯定していないが、神の計画があることを示唆している。信仰者にも人間関係の悩みはある。不当に苦しみ悩むこともある。問題解決もままならないことも。ただ、どんな場合の糸口も、まずはすべてのことを握っておられる主に向くことだ。
祈りの心と聞いたら、どんな心の状態を思い描くだろうか。聖書は、「『ハンナの心』は痛んでいた」(1:10)とし、その心の苦しさ、苦々しい思いを示す。また、ハンナ自身のことばにも、(1:15)「私は心に悩みのある女」、(1:16)「募る憂いと苛立ちのために」と自分の心を表現している。そのハンナが「主に祈った」(1:10)。「主の前で長く祈って」(1:12)、「心で祈っていた」(1:13)など、その時の祈りの様子も伝えられている。聖書は、祈りの時間の長短も声の大小も定めていない。ハンナの場合は、呻くように長時間祈っていた。そのようにして、ハンナは「主の前に心を注ぎ出していた」(1:15)。それまで溜まっていたものをすべて出し尽くすまでに打ち明けていた。しかも、ハンナは誓願を立てて祈った。神のみこころに沿わない誓願は悲劇を生むが(士師記11:30,31)、この時のハンナの誓願は神の遠大なご計画が実現していくために用いられる。ハンナの信仰は、「万軍の主よ」(1:11)という呼びかけにも言い表され、「苦しみをご覧になり」、「心に留め」、「忘れず」、「男の子を下さるなら」と大胆に祈り求めている。すると、「主は彼女を心に留められた」(1:19)私たちは喜びの時も悲しみの時も、神に打ち明けることができる。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
礼拝は平均十数名の参加者ですが、講師を含め折々の行事等に訪ねてくださった方々も入れると、100名以上が足を運んでくださったことになります。
現在は特定の団体等に属していないものの、主にある交わりの中で、この開拓教会が育まれていることを実感しています。
2019年1月の礼拝説教(旧約講解分2回)のあらすじを掲載しておきます。
今月からサムエル記に入りました。
2019年1月 サムエル記第一 1:1-19
現代人も人間関係に悩む。人間関係をテーマに考えたい。エフライムのラマという町のエルカナには、二人の妻、ハンナとペニンナがいた(1:2)。最初の妻ハンナとの間に子供を授からず、当時の慣習により、ペニンナを妻に迎えたのだろうか。ペニンナとの間には子供たちが生まれた。エルカナは家族を連れて、シロでの礼拝に毎年出かけていた。これらの記録から、二人の妻を迎えるだけの経済的なゆとりと落ち着いた信仰を持つ、ある程度恵まれた一家の話なのかという印象だ。ところが、『エルカナの二人の妻』の間には大きな問題があった。それは、ハンナに対するペニンナの嫉妬、嫌がらせだ(1:4-6)。エルカナがハンナに心遣いや愛情を示すと、ペニンナの嫉妬はますます深まり、陰険な嫌がらせも毎年続いた(1:7)。ハンナの心は深く痛んでいた。ただし、そもそもの原因とでもいうべき、ハンナの不妊が神によることだと聖書は語る(1:5,6)。これは、決して嫉妬や嫌がらせを肯定していないが、神の計画があることを示唆している。信仰者にも人間関係の悩みはある。不当に苦しみ悩むこともある。問題解決もままならないことも。ただ、どんな場合の糸口も、まずはすべてのことを握っておられる主に向くことだ。
祈りの心と聞いたら、どんな心の状態を思い描くだろうか。聖書は、「『ハンナの心』は痛んでいた」(1:10)とし、その心の苦しさ、苦々しい思いを示す。また、ハンナ自身のことばにも、(1:15)「私は心に悩みのある女」、(1:16)「募る憂いと苛立ちのために」と自分の心を表現している。そのハンナが「主に祈った」(1:10)。「主の前で長く祈って」(1:12)、「心で祈っていた」(1:13)など、その時の祈りの様子も伝えられている。聖書は、祈りの時間の長短も声の大小も定めていない。ハンナの場合は、呻くように長時間祈っていた。そのようにして、ハンナは「主の前に心を注ぎ出していた」(1:15)。それまで溜まっていたものをすべて出し尽くすまでに打ち明けていた。しかも、ハンナは誓願を立てて祈った。神のみこころに沿わない誓願は悲劇を生むが(士師記11:30,31)、この時のハンナの誓願は神の遠大なご計画が実現していくために用いられる。ハンナの信仰は、「万軍の主よ」(1:11)という呼びかけにも言い表され、「苦しみをご覧になり」、「心に留め」、「忘れず」、「男の子を下さるなら」と大胆に祈り求めている。すると、「主は彼女を心に留められた」(1:19)私たちは喜びの時も悲しみの時も、神に打ち明けることができる。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。