早いもので、まもなく9月を迎えます。
今年の夏もあっという間に過ぎてしまった感があります。
昨日の午後は、9月18日の歓迎礼拝に向けて賛美練習。
その後、Kブラザーズは卓球してました。
現役の弟君は腕を上げたようです。
さて、8月の礼拝説教(旧約の講解)のあらすじを掲載しておきます。
レビ記15章は、男性女性の正常な生理的現象や特有の病気から来る漏出物について触れている。衛生面から考えれば、イスラエルの人々を感染症から守るためにも有効だったのだろう。本来、神は人を男と女に造られ、子孫の繁栄も祝福しておられる(創世記1:27,28/5:1,2)。それゆえ、人の性別と性の営みそのものは神の祝福の内にある。しかし、人が神に背いた罪のため、本来のあり方からは歪んでいる。そのため、DVなど性や夫婦関係にまつわる悲劇も生じる。そもそも、この規定の言う汚れは、体内の血液(いのち)や分泌物が体外に漏出することで、その人に欠けが生じたと見なされる点にあるようだ。人との接触や幕屋での礼拝を慎むこと、水による洗いと汚れの期間の設定は、そうした本来の姿からの歪みや欠けを意識させる。新約聖書の記事では、女性特有の病気を患っていた女に対して、主イエスはいやしをもたらした(マルコ5:25-34)。律法の規定そのものからすると彼女の行為は不適切とも思えるが、主はとがめるどころかその信仰をお認めになり、励ました。私たちは、自分の歪みと欠けに向き合い、『神が備えた性と聖』を見直したい。男女互いの特徴を理解し、結婚や夫婦の関係も大切にしていく。ひとりの男性、女性としての成熟した人格と品性を目指したい。
16章は、レビ記の規定の中心となる、『贖罪の日』について記されている。過越の祭りから半年後の第7の月の10日(16:29)、イスラエルには、身を戒める(悔い改めと断食)こと、まったき休みの安息(16:29,31)が命じられた。イスラエルのすべての罪の贖い、きよめが果たされる日である(16:30)。アザゼルのやぎが荒野に放たれる様子は象徴的である(16:21,22)。その日には、大祭司ひとりが贖いの務めを果たす(16:17,32)。しかし、神の栄光を象徴した大祭司用の通常の衣服ではなく、簡素な姿で奉仕した(16:4,32)。しかも、自らの罪のためにもいけにえをささげなければならず、幕屋の至聖所に入るには香の煙といけにえの血を携えなければならなかった(16:11-14)。大祭司であるとは言え、聖なる神の臨在に近づくことの厳粛さは変わらない。規定の随所に見られる特徴は、やがて来るべき新しい契約の大祭司キリストによる贖いを物語っている。新約聖書では、キリストが、アロンに優る大祭司として、ご自分の血をもって信者のきよめを成し遂げたと告げている(ヘブル9:1-14)。この方にあって、私たちは恐れを覚えつつも、神にお仕えすることが許されている。主イエスの贖いの御業を心から賛美したい。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。