マイペースで行こう

キリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、19年目に入りました。

藤棚

2011-09-28 17:52:39 | 教会の風景
今朝、教会の庭の藤棚の支柱が折れているのに気付きました。
老朽化していたのに加えて、藤の木の幹が押し曲げる勢いで、しかもこの間の台風の強風も応えたようです。
幸い、傾いた藤棚は手前の柵で支えられて、道路側に大きく出てはいませんでした。

午後からちょうどKさんが教会にいらっしゃったので、二人で作業。
思い切って根元の辺りから切ってしまい、支柱も撤去しました。
明るくなり、前より広々した感じがしています。






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生きる

2011-09-26 17:33:48 | 教会の風景
先週のスケジュールが少々立て込んでいました。
今日はゆったり過ごしています。
気温の変化もあるので、コンディションに気をつけて今週の予定に備えようと思います。


さて、月報に掲載した9月の礼拝説教(旧約講解)のあらすじをアップします。

レビ記17章は、いけにえをほふる場所の指定と犠牲となる動物の血の扱いについて述べている。シナイで授けられた律法において、いけにえをほふる場所が主の幕屋という一点に指定された(17:4)。こうして限定されることには、二つの目的が考えられる。まず積極的な面では、イスラエル人たちの受けているあらゆる恩恵が主からのものであることを深く心に留め、ふさわしい感謝と礼拝を主にささげるためである(17:5-6)。そして、もう一つの目的は、イスラエル人たちの信仰を偶像崇拝から守るためである(17:7)。神は、イスラエルの置かれてきたエジプトの環境も、その結果彼らの信仰が心もとない状態にあることもよくご存知であった。それゆえに、イスラエル人たちの信仰の保護のために、深刻な危機をもたらす材料を予め退けるようにとこの規定を授けられたのだろう。私たちは、『込められた真意』に親心のような神の配慮を見出す。

18章では、エジプトやカナンの風習を『まねてはいけない』と率直に戒めている。そして、「わたしのおきてとわたしの定めを守りなさい。それを行う人は、それによって生きる。」(18:5)と命じている。神のことばにとどまることで実現する幸せを「生きる」と表現し、神を知らない周辺諸国の民の風習にならえば、結果的に自らを滅ぼすことになるという。新約聖書においても、主イエスがみことばに留まることを弟子たちに教え、留まる者にいのちと真の自由を約束なさった。レビ記のこの章では具体的に性や家族関係の乱れについて言及している。近親相姦、不倫、子供を犠牲とする祭儀、同性愛、獣姦などである。神が創造の初めに定めて祝福したところの、性と結婚のあり方、家族のあり方を大切にして、主の祝福に満ちた家庭、各々の人生が築き上げられていくことを願う。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。  


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モヤモヤの中でも

2011-09-23 13:25:53 | 神学校・講座
昨日は、牧会塾の後期第1回目。
藤掛クラスの後期は、「自分を知る」というテーマです。
今期も楽しみにしています。
前期の「他人を知る」というテーマも興味深いのですが、後期の「自分を知る」ことの方に今は関心があります。

昨日は、後期1回目ということでコラージュ作り。
「最近の私の気持ち」というテーマが与えられて、各自作品を作りました。
私のタイトルは、「どうしようかな?」です。



湯けむりでモヤモヤ感を表現。
この頃、少々集中力に欠けているような自覚があります。
一応、日常の自分の仕事を終えてはいますが、どうもテキパキとはいきません。

2階への階段や富士山の遠景で、自分の方向性の確かめはできていると感じていることも表現。
ただ、モヤモヤ感を振り切って走るか、それともしばらくジタバタせずにどっしり構えるか・・・
サッカー選手の走り込む姿とリビングで本を広げてくつろぐ姿。
さあ、どうしようかというところです。

このコラージュで、「安定感を感じる」という感想を頂いたのは、私にとって意外でした。
モヤモヤの中にも安定感?

ちょっと余談ですが、今回は裏面におまけつき。

気に入ったので材料の中からピックアップしたものの、表面には入れる場所を作れませんでした。
熱帯魚水槽の愛嬌のある脇役になりそうです。

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5連勝

2011-09-20 19:27:43 | ちょっと息抜き
昨日は、お誘いを頂いて西武ドームへ行ってきました。
久しぶりの観戦を楽しんできました。



日本ハムに先制点を許したものの、5回裏の見事な逆転劇で西武ライオンズの勝利。
5連勝と調子を上げて、クライマックスシリーズへの望みをつないでいます。
連戦の日程ですが、コンディションを保って連勝を続けて欲しいところです。

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Footprints8

2011-09-20 14:44:19 | Footprints
先日のYouth for Jesusでは、使徒の働き21章の前半を学び、御霊の示し、御霊の導きについて考えました。
使徒の働き19章から21章のパウロのエルサレム行きの記述には、一見矛盾があるようにも見えます。
Luke has too high a doctrine of the Holy Spirit to portray him as changing his mind.
(The Bible Speaks Today - The Message of Acts / John R.W.Stott)
教会を導き、建て上げる御霊がなさることは、人の思いを越えて深遠です。

ここでは、御霊が示す内容とそれを受けとめる人々の解釈にギャップが生じたようです。
御霊はパウロの近い将来を予告し、それを聞いた人々は、「だからエルサレムに行くべきではない」と解釈したのでしょう。
御霊が何を示し、どのように導こうとしておられるのか・・・みことばとの注意深い照合と見極めとが必要でしょう。


ところで、ここからは私自身の経験です。
今から7年程前のことです。
当時、生計のため週4日のアルバイトをしながら、3日は教会での奉仕という生活をしていました。
そのような中、ある友人から、「学費をサポートするので神学校で学んで欲しい」との申し出。
しかも、「何度祈っても、そのような結論に導かれる」ということでした。

当時の私は、彼の申し出に恐縮しながら、辞退することを丁重に伝えました。
その費用で注解書を購入して、教会の図書へ献本してもらうことで本人には了解をもらいました。
正直なところ、その時の私は、神学校で学ぶことが主の導きだと確信できませんでした。

その頃、また別の機会にこんなことがありました。
アメリカの教会で牧師をしているI先生が、私の通う教会に訪ねてきました。
別の用件で訪ねて来られたようでしたが、交わりのテーブルで同席した折に、しきりに神学校で学ぶことを勧められました。
しかし、その時も心には留めたものの、すぐに行動開始とはいきませんでした。

そして、3回目に神学校で学ぶ話が出たのが、今の東村山教会への招聘の条件としてでした。
この時の決断には、みことばからの明確な確信を受けて進むことができました。
そのような経緯の中に、神様の忍耐深い導きや丁寧な備えを覚えて驚くばかりです。
一つ一つの出来事が、その当時の私の新たな一歩につながりました。
私はいまだに神のみこころに従うことに鈍いと思いますが、主の導きは常に真実です。


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