昨日も教会に集まりました。
神の御前に静まる幸いな時間でした。
ご都合で来られない方々もいらっしゃいましたが、その一方で久しぶりの方々や初めて訪ねてくださった方の参加も。
先週から二週にわたって、教会をテーマに学びました。
キリストのからだである教会が一つであることと、多様性を持つこととを聖書から確かめました。
一つのからだに連なる互いであることは、私たちの不完全さのゆえに、しばしば痛みや悩みも伴います。
しかし本来は、互いに尊重することで調和し、神の栄光が現されます。
「聖なる公同の教会を信ずる」という告白の重みを考えさせられました。
(コリント人への手紙第一12章12,13節)
「 ですから、 ちょうど、 からだが一つでも、 それに多くの部分があり、 からだの部分はたとい多くあっても、 その全部が一つのからだであるように、 キリストもそれと同様です。なぜなら、 私たちはみな、 ユダヤ人もギリシヤ人も、 奴隷も自由人も、 一つのからだとなるように、 一つの御霊によってバプテスマを受け、 そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。」
さて、月末になりましたので、7月の礼拝説教のあらすじを掲載しておきます。
旧約聖書の講解説教は士師記から続けています。
2017年7月 士師記4-5章
カナンの王ヤビンと将軍シセラに圧迫され、イスラエルは苦しみの中から主を求めた(4:1-3)。その頃、イスラエルには女預言者デボラが立てられ(4:4)、民の信頼を得ていた(4:5)。デボラは、北方のナフタリ族の町ケデシュからバラクを呼び寄せて、「進軍せよ。ナフタリから一万人を取れ。」と命じ、主のことばを告げた(4:6)。一方、主はバラクに「シセラの軍を引き寄せ、あなたの手に渡す」とも語った(4:7)。これらの『命令と約束』のことばとが伝えられていたにもかかわらず、バラクは確信できなかったようで、デボラの同行を願った。その結果、「あなたが行こうとしている道では誉れを得られない」と告げられ(4:9)、その通りとなる。主がお命じになっていることには、すでにその先に御業が備えられている。私たちは常に主への信頼と期待を新たにして従う者でありたい。
デボラとバラクの指揮のもと、イスラエルはカナン人に打ち勝った(4:23,24)。その勝利を受けて、「その日、 デボラとアビノアムの子バラクはこう歌った」(5:1)とされる。主による勝利と救いを経験した者にとって、喜び歌うことはふさわしい(出エジプト記15:1~)。主の御名と御業とをたたえる歌だ。デボラとバラクは、その歌のことばを『主に向かって歌う』と告白している。主は、かつて民がカナンの地に入るときにも先立ってくださった(5:4; 詩篇68:7,8)。しかし、やがてイスラエルは乱れ、商人や旅人の往来が途絶えるまでになり(5:6,7)、外国人(シャムガルやヤエル)が救助者となる有様だった。この時代に至り、「イスラエルの母」デボラが立ち、バラクも用いられ、主の御業が現された。私たちが主に向かって歌うとき、神の救いを喜び歌うこと、その歌のことばが神の御業をしっかりと表すものであること、とを大切にしたい。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
神の御前に静まる幸いな時間でした。
ご都合で来られない方々もいらっしゃいましたが、その一方で久しぶりの方々や初めて訪ねてくださった方の参加も。
先週から二週にわたって、教会をテーマに学びました。
キリストのからだである教会が一つであることと、多様性を持つこととを聖書から確かめました。
一つのからだに連なる互いであることは、私たちの不完全さのゆえに、しばしば痛みや悩みも伴います。
しかし本来は、互いに尊重することで調和し、神の栄光が現されます。
「聖なる公同の教会を信ずる」という告白の重みを考えさせられました。
(コリント人への手紙第一12章12,13節)
「 ですから、 ちょうど、 からだが一つでも、 それに多くの部分があり、 からだの部分はたとい多くあっても、 その全部が一つのからだであるように、 キリストもそれと同様です。なぜなら、 私たちはみな、 ユダヤ人もギリシヤ人も、 奴隷も自由人も、 一つのからだとなるように、 一つの御霊によってバプテスマを受け、 そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。」
さて、月末になりましたので、7月の礼拝説教のあらすじを掲載しておきます。
旧約聖書の講解説教は士師記から続けています。
2017年7月 士師記4-5章
カナンの王ヤビンと将軍シセラに圧迫され、イスラエルは苦しみの中から主を求めた(4:1-3)。その頃、イスラエルには女預言者デボラが立てられ(4:4)、民の信頼を得ていた(4:5)。デボラは、北方のナフタリ族の町ケデシュからバラクを呼び寄せて、「進軍せよ。ナフタリから一万人を取れ。」と命じ、主のことばを告げた(4:6)。一方、主はバラクに「シセラの軍を引き寄せ、あなたの手に渡す」とも語った(4:7)。これらの『命令と約束』のことばとが伝えられていたにもかかわらず、バラクは確信できなかったようで、デボラの同行を願った。その結果、「あなたが行こうとしている道では誉れを得られない」と告げられ(4:9)、その通りとなる。主がお命じになっていることには、すでにその先に御業が備えられている。私たちは常に主への信頼と期待を新たにして従う者でありたい。
デボラとバラクの指揮のもと、イスラエルはカナン人に打ち勝った(4:23,24)。その勝利を受けて、「その日、 デボラとアビノアムの子バラクはこう歌った」(5:1)とされる。主による勝利と救いを経験した者にとって、喜び歌うことはふさわしい(出エジプト記15:1~)。主の御名と御業とをたたえる歌だ。デボラとバラクは、その歌のことばを『主に向かって歌う』と告白している。主は、かつて民がカナンの地に入るときにも先立ってくださった(5:4; 詩篇68:7,8)。しかし、やがてイスラエルは乱れ、商人や旅人の往来が途絶えるまでになり(5:6,7)、外国人(シャムガルやヤエル)が救助者となる有様だった。この時代に至り、「イスラエルの母」デボラが立ち、バラクも用いられ、主の御業が現された。私たちが主に向かって歌うとき、神の救いを喜び歌うこと、その歌のことばが神の御業をしっかりと表すものであること、とを大切にしたい。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。